■きみが涙を流すなら 17■
……夜が明けた。
やっと、夜が明けた。とても長い、長すぎる夜だった。
家の中をうろうろするわけにもいかないし、ましてや外に出るわけにもいかないので、あれから結局僕は、相原の部屋に戻った。
ベッドの方はちらりとも見ずに、布団の中に滑り込む。
そこから先は、己との勝負だった。
正に地獄のような一夜だ。辛かった。本当に、辛い戦いだった。
我ながら、よく耐えたと思う。「ここは相原の家だ」ということが、僕の理性をどうにか繋ぎ止めた。
布団を頭からかぶり、ひたすら歯を食いしばって時間が過ぎるのを待っていた。
やがて、相原がもぞもぞと動く気配がした。起きたのか。心臓が揺れる。
ほんの数秒躊躇したが、僕も布団をはねのけて起き上がった。
前回見逃した、寝起きの相原を拝むくらいは許されるだろうと思ったのだ。一晩耐え抜いた、自分へのご褒美だ。
「よ、おはよー」
相原はベッドの上で半身を起こし、軽く手を挙げた。
この上なく、しゃっきりとした表情と声だった。寝ぼけてぼんやりとした顔を期待していた僕は、正直、物凄く落胆してしまった。
ちょっと寝癖が立っているのが可愛かったが、それ以外はいつもと全く変わらない。
「……おはようー。お前、寝起きええねんなあ……」
ガッカリ感を表に出さないよう注意しながら、僕も挨拶をした。
相原は、白い歯を見せて笑う。
「おう。いつでも何処でも、瞬時にビシッと起きられんで。
それだけは、ちょっと自慢やねん」
そこまで言って、彼は首をかしげた。
「……前もそうやったけど、吉川は寝起き悪いねんなあ。
顔色むっちゃ悪いぞ。大丈夫か?」
「はは……大丈夫大丈夫」
そりゃあ、毎回一睡もしていないのだから、顔色だって悪くなる。
苦笑いを浮かべつつ、朝から絶好調な相原を見た。彼はベッドを降りて、鼻歌で阪神のチャンスマーチなんか歌っている。
僕は色んなことがありすぎて、最高潮に疲れた。窓から射し込む太陽の光が、目と脳にしみでキツイ。
……でも、相原が元気なら良いや。
彼が楽しそうに笑っているので、僕もつられてヘラッと笑った。全く眠れなくたって、彼が笑顔なら僕は幸せだ。
帰り際、相原おかんが、大量のおかずをタッパに詰めて土産に持たせてくれた。そして何度も、「またおいでな」と言って笑った。
相原の人の良さは、絶対にこのおかんから来ていると思う。
また来よう、と思った。ただし今度は日帰りで。泊まりは駄目だ。色々ともたない。
……こうして、沢山の謎を残しつつも相原家訪問は無事終了したのだった。
僕と相原の関係に大きな変化が生じたのは、それから数日後のことだ。
その日の夜、僕は自宅で頭を抱えていた。目の前には、今日学校で配られた三者面談の要項が記されたプリントがある。
実施日希望欄は、きれいさっぱり真っ白だ。
結局僕は未だ、両親に面談のことを言えずにいた。
「ほんま、どうしよう……」
さっきから、何度その言葉を呟いたか分からない。
提出締め切りまで、そんなに日にちもない。
どうしようとか言ってる暇があるなら、父に電話をして都合を聞けばいいのに、それがどうしても出来ない。
適当に日にちを記入して、勝手に出したろかな……。
そんなことを半ば本気でグダグダ考えていたら、時刻は深夜の一時になってしまっていた。
一体何時間、この紙切れとにらめっこしていたのだろう。無駄な時間を過ごしてしまった気がしてならない。
ともかく、こんな時間になってしまったら親父に電話なんて出来ないなと、僕はプリント畳んだ。
問題から逃げる口実が出来て、ちょっとほっとしていた。
そんなことしたって、何の解決にもならないと分かっているのに。
そのとき携帯電話が鳴り出したので、僕はのけぞってしまった。
まさか親父か? 親父なんか?
と恐る恐る携帯電話を開いたら、相原からだった。
こんな時間にどうしたんだろうと思ったが、親父でなくて安心した。
僕は胸を撫で下ろし、電話を耳に当てた。
「もしもしー」
受話器の向こうから、ゴーッというけたたましい雑音が聞こえてきた。その合間に、くぐもったアナウンスの声。駅にいるのだろうか。
「もしもし?」
相手が何も言わないので、聞こえにくいのかと思って声を張り上げた。しかし耳元ではごうごう鳴るばかりで、相原の声は全く聞こえない。
「相原? もしもし、聞こえる?」
僕は更に声のボリュームを上げた。
『……吉川』
やっと、声が聞こえた。だけど、周囲の音が大きすぎて聞こえ辛い。
「うん、何? ていうかお前、今何処におんの。さっきから凄い音……」
『あかんわ』
「え?」
反射的に、電話を握る手に力が入った。おかしい。相原の様子が変だ。
『あかん。あかんわ』
「何……? 何があかんの?」
『なんていうか……』
また、耳元で轟音。相原が何か言っているようだが、全く聞き取れない。
更に電波状況も悪いようで、音が途切れ途切れだ。
「相原! ごめん。周りの音で、聞こえへん!」
僕は、ほとんど叫びに近い声をあげた。直後、雑音が止んだ。
『……今からお前ん家、行ってもいい?』
彼と親しくなってから何度となく聞いた言葉だが、こんな真剣な口調で言われたのは初めてだ。一体何事なんだと、僕は色んな意味でドキドキしてきた。
「お、おう。ええよ」
言ってから、傍らに置いてあった目覚まし時計でもう一度時刻を確認した。
今は深夜の一時過ぎ。
よっぽどのことがない限り、人の家を訪ねようとは思わない時間だ。
つまり、その「よっぽどのこと」が相原の身に起きたということか。
一体何が? 背筋に悪寒が走った。
「相原、大丈夫か? おれがそっちに行こか? 今どこおんの」
僕は不安になって、畳み掛けるように問い掛けた。しかし、返事は返って来ない。全身が冷たくなってくる。
「相原!」
思わず叫ぶと、相原から
『うん』
という呟きが返って来た。
『……十分くらいで行く』
十分くらいでということは、今彼がいるのは僕ん家の最寄駅か。そう結論付けた直後、電話は切れた。
僕は携帯電話を耳から離し、ディスプレイをしばし呆然と眺めた。胸の中と指先がざわざわする。
相原に何があったのだろう。彼は大丈夫だろうか。
随分と切羽詰っているようだった。
最後に彼と会ったのは今日、学校でだ。そのときは、ごくごく普通だった。
いつも通り爽やかで、よく笑う相原だった。
ペナントレースの行方とか、次はいつ甲子園に行こうかとか、そんな気楽な話しかしていない。
僕は立ち上がった。部屋でじっとしていることが出来ない。
駅まで迎えに行こうか。いや、行き違いになってしまうかもしれない。
せめて、マンションの入り口まで降りておこうか。そう思って玄関まで行きかけたが、やっぱり居間まで戻って来た。
駄目だ。混乱している。
だって確実に、相原に何かがあったのだ。僕はどうすればいいだろう。どうするのが、相原にとって一番いいのだろう。
ピンポーン、と場違いなくらい明るい音が響いた。やきもきしながらも結局居間で待機していた僕は、大急ぎで玄関に駆け寄った。
「あ、相原っ」
ノブがもげるんじゃないかという勢いで扉を開ける。そこに、Tシャツとジーンズ姿の相原が立っていた。
彼は僕の顔を見ると、「ちーす」と会釈をした。その仕草はいつもどおりだが、声が明らかに暗い。表情も、随分としんどそうだった。
「……ごめんな、吉川。こんな非常識な時間に」
相原の言葉に、僕は首を強く横に振った。
「ええよ、そんなん。とりあえず、中入ろうや」
玄関を大きく開け放すと、相原は身体を縮めてのっそりと中に入って来た。彼はそのまま居間に向かい、床に座り込んでうつむいた。
「だ……大丈夫か……?」
何がなんだか分からないが、僕はそう声をかけた。相原はしばらく黙っていたが、やがて「うう……」と呻きながら右手を額に当てた。
「あかんわ……」
相原は苦しそうにゆるゆると首を振った。先程も電話で、そんなことを言っていた。
「どうしたん、相原。何があかんの」
「あかんねん。ほんまに、あかん」
うわごとのように繰り返し、彼は何度も首を横に振った。 とりあえず、何か飲み物でも用意した方がいいだろうか。
そう思って台所に向かおうとしたら、相原が突然
「吉川」
と僕を呼んだ。
「……うん?」
僕は振り向き、相原の側に腰を下ろした。
「……あのさ。おれん家、家族仲がいけてないって言ってたやん」
突然投げかけられた爆弾に、僕は身を固くした。やっぱりそこか。そこなのか。それしかない、とは思っていた。
「あ……ああ、うん。言うてたな」
つっかえそうになりながら、頷いた。
「あれやねんけど……」
そこまで言って、相原は言いにくそうに口を閉じた。見ると、視線がうろうろとあちこちをさまよって、落ち着かない。
「……吉川、引かへん?」
「引かへんって、前も言ったやん」
そう言うと、彼は「そうやな、そうやんな……」
と消えそうな声で呟いた。しばしの沈黙の後、相原はきっと顔を上げ、やけにはっきりとした口調でこう言った。
「兄貴と妹ができてる」
「……はい?」
思わず聞き返した。できてる。その言葉の響きからは、僕はひとつの事柄しか思い浮かべることが出来ない。
「できてるって……そういう意味で?」
そういう意味も何も、他の意味なんて一切思いつかない。だけど、確認せずにはいられなかった。
「……そういう意味で」
「そ、そういう意味か」
「やってる」
「お」
「セックスしてる」
「お……う」
直接的な言葉が返ってきて、僕は何故か背筋を伸ばして居住まいを正した。
頭の中に、香織ちゃんと浩一さんの顔が浮かぶ。
あの二人が、できてる?
全く結びつかない。
浩一さんはちょっと不思議な感じがしたけれど、香織ちゃんは普通の女の子に見えた。深夜に、僕に麦茶を注いでくれたことを思い出す。冷えていて美味い麦茶だった。
いや、そうじゃない。そんなことを考えてる場合じゃない。
「ええと……その、やってるって、家で……?」
言ってから、思い出した。相原の部屋の壁、一方向のみにやたらと貼られたポスター。
「あ、魔除けって……」
「……ああ、ポスターな。あの壁の向こうが、妹の部屋やねん」
相原はそう言って、笑った。蔑むような笑い。僕の知らない相原の顔だ。
「……やってんねん、あいつら。大抵は妹の部屋で。
たまに、兄貴の部屋でも。あいつらは、おれが気付いてないと思ってんやろうけど、聞こえんねん。声が」
恐らく無意識の仕草だろう、彼は耳に手をやった。そして、辛そうに顔を歪める。
「見たこともあるし」
「えっ」
僕は身をすくませた。
「うん、夜中に妹の部屋で……。……あかん、これ以上言ったら思い出す」
相原は、息も絶え絶えと言ったふうだった。本当に、苦しそうだ。何だか僕も、息が苦しくなってきた。喉が詰まって、空気が上手く通過していかない。
「……どうしていいか、全然分からへん。親にだけは、絶対気付かれたらあかんやん」
相原おかんの顔が、脳裏をよぎった。健全で善良な、本当に良いおかんだ。
確かに、彼女にだけは知られてはならないと思う。
「でも、あいつらが近親相姦してんのに、何でおれが気い遣ったらなあかんねん、ってムカつくのもあんねん。でも、でも……。どうしたらいいんやろ、ほんまに……」
そう言って、相原は頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
僕は、返事をすることが出来ない。頭の中が真っ黒に塗りつぶされて、何も考えられなかった。彼の言うことを、理解するのが精一杯だ。
「今日、親どっちも家におらんねんけどな、妹の部屋から声が聞こえてきてな。
なんかもう、あかん、あかん、これはあかん、って思って、気が付いたらおれ、中学んとき使ってた金属バット手に持っててさ……」
僕は息を呑んだ。相原は、自分の掌をじっと見つめている。
金属バットを?
まさか、まさか、まさか。
……多分そのときの僕は、ひどい顔をしていたのだと思う。僕の方を一瞬見た相原が、ぎょっとしたように首と手を振った。
「いや、殴ってへん。殴ってへんで」
その言葉に、大きく息を吐き出した。首筋から汗が吹き出す。
良かった。一瞬、物凄く嫌な想像をしてしまった。良かった。心からそう思う。
「……でも、無意識にバットを取ったのは事実やねん。
それ思いっきり握り締めとってさ、そこでハッと我に返ってん。
あれ……おれ、何しようとしてるんやろ、って。
自分でも分からんねんけど、あそこで我に返らへんかったら、おれ、兄貴と香織の頭カチ割りに行ってたんかな……」
何処かぼんやりとした表情で言う相原に、泣きそうになった。
彼に秘密があることは分かっていたけれど、ここまで苦しんでいるとは思わなかった。相原が兄妹の関係に気付いたのが何時なのかは分からないが、もしかしたら、僕と親しくなり始めた頃には既にこの秘密を抱えていたのかもしれない。
こんなに苦しみながら、ニコニコ笑って僕を気遣ってくれていたのだと思うと、たまらなくなってくる。
「……ごめん」
唐突に、相原が頭を下げた。何を謝ることがあるのだろうと思ったら、もう一度「ごめん」と言われた。
「……ごめんな。引くよな」
「何で引くねんな。引かへんって言ったやん」
つい、怒ったような口調になってしまった。何に腹を立てているのか、自分でもよく分からない。
「いや、ええねん。あかんな。ほんまあかんわ、おれ」
そう言って、相原は立ち上がろうとする。考えるより先に手が伸びて、僕は彼の腕を掴んでいた。
「ちょ……相原、何処行くねん」
「帰る。ごめんな、ほんま」
「え、いや、ちょっと待てって。引いてへんってば」
相原が勇気を出して打ち明けてくれた魂の叫びに、何を引くことがある。そう思うのだが、僕も大概混乱していて、脳と舌が上手く噛み合ってくれない。
相原は何度も「ごめん」を繰り返しながら、僕の手を振り払おうとする。
駄目だ。ここで彼を帰してはいけない。だけど、どうやって止めればいいのか分からない。力じゃ負ける。
彼が本気で僕を突き飛ばすなりすれば、一瞬で振り切られてしまう。
「あ、相原、相原っ。待てって」
引き止めないと。なんとかして。
頭の中と視界が回る。なんとかって何だ。分からない。だけど何とかしないと。
何とかしろ。
何とかしろ。
何とかするんだ、吉川四郎!
「おれ、ゲイやねん」
僕の口から飛び出したのは、よりにもよってそんな言葉だった。
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