■きみが涙を流すなら 15■


「ま、魔除けって……」

 全く想像していなかった展開に、僕はどう反応して良いか分からなかった。彼はまた、タオルで頭をがしがしやり出したので表情が見えず、本気か冗談か判断しかねた。

「いやあ、それがさ」

 相原はタオルを首にかけ、こちらを見た。その顔は冗談でも本気でもなく、普通……言うなれば「素」の表情だった。

「おれも吉川と一緒で、家族との関係がちょっといけてなくてさあ」

 彼はそう言って、テヘッと照れ笑いを浮かべた。その笑顔にときめいてしまって、反応が一瞬遅れた。

「お、お……う」

「何やねん、その微妙な反応」

「い、いや……。納得も出来るし意外でもあるしで……なんて言おうかな、と思って」

「何それ、どゆこと?」

 相原が身を乗り出す。一瞬迷ったが、正直に答えることにした。

「相原さ、家族……っていうかぶっちゃけ香織ちゃんやねんけどさ。彼女がおらんときに、香織ちゃんの話をしたら、何か態度が変じゃない? 彼女がおる前では、全然普通の兄貴やのに」

「えっ」

 彼は絶句し、両手で自分の頬を揉み始めた。

「うっそ、おれ、そんな顔に出てた?」

「うん、割と」

「……でも、香織の前では普通やった?」

「むっちゃ普通」

「そっかあ……」

 相原は息を吐きながら、天井を仰ぎ見た。僕もつられて上を見る。だけど蛍光灯の白い光がまぶしくて、すぐに目をそらした。

 やっぱり、相原の家にも色々あるんだ。
 本当に香織ちゃんは「鬼門」だった。

 本人の口からそれを聞くことが出来て、僕はちょっとほっとした。頭の中でモヤモヤしていたものが、少しだけだが晴れた気分だ。

「……そのいけてない家族関係は、深刻なん?」

 僕は迷いに迷ったが、夕食前に相原に言われたことをそのまま口にしてみた。彼はまだ、天井を見ている。

「深刻……かもなあ」

 そう答えて、僕の方をを向く。まともに目が合い、ドキッとしてしまった。

「なあ、吉川さあ」

「うん?」

「うちの、いけてない家族関係やねんけど……」

 そこまで言って、相原は僕から視線を外した。そして、首筋を掻きながらがっくりとうなだれる。

「あっかん、言う勇気が出えへん……」

「べ、別にそんな、無理に言わんでも」

 僕がそう言うと、彼は首を横に振った。

「ちゃうねん、言いたいねん。聞いて欲しいねん。でも、吉川に引かれたくないわけよ……」

「引かへんよ」

 相原が言うことなら、何を聞いても引かない。僕はそう確信していた。なんてったって、僕はこいつにどっぷりとハマッてしまっている。引くわけがない。

「……そうやな。多分引かへんよな、お前やったら」

 それは非常に嬉しい評価だった。お前やったら、というのがまた。
 真剣な話をしているときに何だが、僕の胸は少し躍った。

「……おれって意外とヘタレやねん」

 相原は片膝を立てて、その上に顔を乗せた。やっぱり、今日の彼はいつもよりも無防備だ。それに、僕が思っていたよりもずっと深刻に、家族のことで思い悩んでいるように見える。

「ええやん、おれもヘタレやで」

「あと、多分ネクラやわ」

「うん、おれもばっちりネクラや」

「吉川はええ奴やなあ……」

 ええ奴。甘美なようで、絶望的な響きだ。

 彼にとって僕は「ええ奴」で、それ以上には絶対なれないのだ。でも僕は馬鹿だから、今この瞬間はそれで充分だと思ってしまう。ええ奴と言われてこの上なく嬉しい。
多分、後でまたへこむんだろうけど。

「あかんわ」

 突然勢いよく、相原は顔を上げた。夢から覚めたような表情だった。

「何か勢いで話し始めてもうたけど、いつ家族が入ってくるかも分からんのに、おれは何を言ってるんやろ」

 目をぱちぱちさせながら、独り言のように言った。

 確かに、家に家族がいる状況で、「家族仲がいけてない話」はしにくい。僕も全く、そのことに気付かなかった。

  相原は僕に向かって、両手を合わせた。

「ごめん、吉川! こんだけ話引っ張っといてなんやけど、今日はやっぱ無理!」

「お、おう。ええよ。つうか、ほんまに別に、無理に言わんでも」

 本当は死ぬほど気になっていたけれど、そう言った。
 僕だって結局、家族について詳細な話はしていない。彼も聞かなかった。だから僕も……と思ったのだが、相原は「いや」と首を振った。

「今度、お前ん家で話すわ。ていうか、話してもいい?」

「うん、それはいつでも大丈夫やし」

 頷くと、彼はほっとしたように笑った。その表情に、僕も安心した。

 だけど、僕が引くかもしれない、家族のいけてない事情って何だろう?
 しかも、あの快活な相原がずいぶんと思い悩むような。香織ちゃんが絡んでいることは間違いないが、それ以外はさっぱり分からない。

 ……まあ、いいや。彼は話してくれると言っているし。それでOK。後は、そのときを待つのみだ。


 きれいに話がまとまったその時、僕の携帯電話が鳴った。色気も遊び心も何もない、機械的なベルの音だ。

 携帯電話を手に取って、画面を確認した。直後、どんよりとした気分になった。
 そんな僕を見て、相原が首をかしげる。

「吉川、電話? 出えへんの?」

「親父からかかってきた……」

「お、ほんまか」

「相原、出る?」

 冗談でそう言ってみたら、相原は、

「おう。そんじゃ出る」

 と軽く頷いて、僕の手から携帯電話を取った。
 えええ? と驚いている間に、彼は迷わず通話ボタンを押して耳元に電話を持って行く。

「もしもしー。……あ、どうも。や、おれ、相原と申します。吉川くんのクラスメイトっす。どうも。あ、いえ、こちらこそ。はい、はい」

 相原は、軽快に受け答えをしている。親父の声は聞こえないが、自分の父親と相原が会話をしているというのは、何だか変な感じだった。

「はい、今おれん家で……。あ、今日泊まってくことになってて」

 その言葉を聞いて、唐突に気付いた。

 僕は、同性愛者であることはカミングアウトした。恋人がいることも。
 だけど、その恋人が何処の誰かなんて話は一切していないし、別れたことも言っていない。

 今の会話だと、親父、相原が僕の彼氏だって勘違いしてしまうんじゃ……。

「相原ごめん! ちょい代わって!」

 僕が突然声をあげたので、相原は一瞬目を丸くした。しかしすぐに、

「そんじゃ、吉川くんに代わりますねー」

 と言って、携帯電話をこちらに差し出した。

「ご、ごめん相原。ちょっと外行って来るわ」
「お、おう」

 相原の戸惑った顔を極力見ないようにしながら、僕はダッシュで部屋を飛び出した。
 階段を駆け下りて玄関から外に出る。夜の生暖かい空気が、首を撫でた。

 僕はハアハア言いながら、電話を耳に当てた。

 夜の住宅地は、思いの外静かだった。まだ二十二時にもなっていないのに、人通りが全くない。家のすぐ目の前だと、相原家の家人に聞こえてしまうかもしれないので、歩きながら話すことにする。

『も……もしもし?』

 受話器の向こうから、困惑しきった親父の声が聞こえてきた。

「もしもし、おとーさん? 四郎やけど」

『お、おお。四郎か。い、今の子って四郎の恋……』

「ちっがう!」

 案の定誤解されていたようで、僕は全力で否定した。その声が大きく響いてしまい、慌てて声をひそめた。

「ちゃうねん。あいつはほんま、ただの学校の友達で」

『そ、そうなんか』

「おとーさん、あいつに変なこと言ってへん?」

『え?』

「あいつは何も知らんねん。その……こないだ話したこととか、そういうの全部」

『友達には、言うてないんか』

「言えるかいな」

 溜め息混じりに即答した。両親とあれだけの悶着があった後なのに、友達なんかに言える筈がない。僕は確かに馬鹿だけど、そこまでじゃない。

『そうか、友達には言うてへんのか……』

 親父は何故か、神妙な口調で頷いた。

「なあ、おとーさん。ほんまに何も言ってない?」

 僕はしつこく確認する。でないと、安心出来なかった。

『言うてへんがな』

「ほんまに? 匂わせるようなこともアウトやで?」

『言うてへんって。普通に挨拶しただけや』

 親父はそう言うけれど、実際に会話の内容を全部聞いたわけではないので、すぐにホッとすることは出来なかった。嫌がらず、最初から自分で電話を取るべきだったと、今更ながら反省する。

「……そんで、今日はどしたん」

 声の調子を落としてそう言うと、親父は我に返ったように、

『……おお』

 と呟いた。

『いや、元気にしてるかなと思って』

「うん、普通」

『飯食ってるか』

「うん」

 この問答は、毎回一言一句違わず繰り返される。月に一回か二回、僕と親父はこうして同じ会話を機械のように繰り返す。それは何か意味があるのだろうか。

『学校はどうや』

「うん、普通。……おかーさんは、元気?」

『おう』

 ……これで、テンプレートは終了。後は決まりの結び文句、「そんじゃ、おとーさんも元気で」を添えて電話を切ろうと思ったら、親父が定型文にないことを言ってきた。

『お母さんに、代わろか?』

「えっ」

 つい、言葉に詰まってしまった。急に何を言い出すんだと思った。
 そしてその瞬間、苦しそうに顔を歪めて、トイレにうずくまる母の姿が脳裏をよぎった。

「いや、ええわ」

 咄嗟に、そう言ってしまった。言ってから、息子としてその返事はどうなんや、と激しく後悔した。

「あの……今、相原……友達の家の外に出て来てるんやんか。早く戻らんとあかんし……」

 後からそんな言い訳を付け加えても、白々しく響くだけだ。

 親父は黙っている。その沈黙が胸を刺す。だけど、「そんじゃやっぱ、おかーさんに代わって」とは言えなかった。話をする勇気がない。第一、何を話せって言うんだ。

『……そうか』

 低く、親父は言った。物凄く暗い声だった。父親にそんな声を出させる、僕はどれだけ親不孝者なんだろう。

 僕はいたたまれなくなって、 「そんじゃ、また」  と早口に言って、一方的に電話を切った。
 その直後にまた、何でそんな感じの悪い切り方をすんねん、と自己嫌悪に襲われる。

「何でこんなに、会話すんのが難しいんやろ……」

 僕は携帯電話を閉じながら、泣きそうになった。

   ああ、でも。親父に「相原に言うてない?」と詰め寄ったときは、割と自然に会話出来ていたような気がする。
 あのときは、親父に対して気負うこともなく、するすると言葉が出てきた。ここ数ヶ月で、あのやりとりが一番親子らしかったんじゃないだろうか。

「……それもどうなんやろ」

 息を吐いて、夜空を見上げた。さすが郊外。市内と違って、星が見える。

 白く瞬く星を見ながら、ああ、三者面談のこと言うの忘れてた、とぼんやり考えた。