■きみが涙を流すなら 14■


 気が付けば、テーブルの上はあらかた片付いていた。

 食べる前は、こんなドカ飯食いきれるはずがないと思っていたのだが、よくここまで駆け抜けたものだ。自分の潜在能力に驚いてしまう。やれば出来るもんだなあ。僕の身体は、満足感と達成感でいっぱいになった。

 壁にかかっている時計をちらりと見る。十九時過ぎ、といったところだった。
香織ちゃんはとっくに食べ終わって、二階に引き上げて行った。相原おとんおかんの部屋で、テレビを見るらしい。

「おばちゃん、ご馳走様でした」

 僕は、台所で洗い物をしている相原おかんに声をかけた。

「どういたしまして。おばちゃんのご飯、どやった?」

 手元をバチャバチャ言わせながら、彼女は振り向いた。

「むっちゃ美味しかったです」

 本心からそう告げると、

「ほんまにい。良かったわあ」

 と、嬉しそうにころころ笑う。

 僕はすっかり、このおかんが好きになっていた。良いおかんだ。
相原おとんは出張で、今日は帰って来ないらしい。残念なようなホッとしたような、微妙な感じだ。

「そんじゃ相原、おれ、そろそろ帰るわ」

 テレビに釘付けになっている相原の肘をつつくと、彼は面食らったようにこちらを見た。

「えっ、帰んのっ?」

「そ、そら帰るよ」

 何を言い出すのだろう、と思いながら返事をしたら、「ええー」を顔をしかめられた。どきっとする。

 何だ、帰るなってか。帰るなって言いたいのか。

 僕は、口の端をもぐもぐさせた。ニヤけてしまいそうなにるのを堪えるのが、むちゃくちゃ難しい。

「かーえーるーなーよー」

 相原は、僕の腕を掴んだ。悲鳴をあげそうになった。

 なんてことを。なんてことするんだ、この男は。

「な、何やねん相原。お、お前酔っ払ってんのか」

 声がブレてしまうのを、止めることができない。あああ、相原おかんの前だと言うのに。彼女がこちらに背を向けているのが、唯一の救いだ。

「いっくらなんでも、ウーロン茶では酔われへんぞー」

 彼は僕の腕を掴んだまま、屈託なく笑う。自宅にいるということで、気が緩んでいるのだろうか。
なんだか、いつもよりも無防備というかなんというか……殺傷力が増しているような気がする。

「最後まで試合見てけよ」

「いやでも、遅くなるし……」

「泊まってったらええやん。明日土曜やし」

 無邪気な笑顔で、恐ろしいことを言う。
この男は、一体どれだけ僕を動揺させたら気が済むのだろう。

 いくらなんでも、それは駄目だ。いや確かに試合は最後まで見たいけれど、それでも駄目だ。駄目だろう。それはほんまにあかん。

「い、いやいやいや……」

 あははと曖昧に笑いつつ、やんわり相原の手をほどこうとしたら、彼は更に力を込めた。ドキドキを通り越して腕が痛い。

 見ると、相原の眼は笑っていない……ように見えた。
その妙に真剣な眼に、僕は息を呑んだ。体温が一気に下がる。

 え、何? 何で? 何でそんな、マジなん? 何これ? 何なん?

「なあなあ、ええやんな?」

 相原は僕にではなく、彼のおかんに向かってそう言った。

 相原おかんは水を止め、

「ええよー。布団は自分らでもって上がるんやで」

 と軽い口調で即答した。

「って、おかんも言うてんねんけど」

  僕は彼の笑顔に弱い。とことん弱い。
 更に僕は大馬鹿だから、

「な?」

 と促されたらついつい、

「……うん」

 と頷いてしまう。
まったくもって、僕はどうしようもない大馬鹿だ。


 ……第一の試練は、風呂だった。
いや、風呂に入ること自体は何の問題もない。いい湯だった。

  平常心が試されるのはその後、着替えだ。

 下着は、相原おかんが新品のものをくれた。なのでオーケー。しかし服は、相原が貸してくれたTシャツとハーフジャージだ。
何の変哲もない、黒いTシャツと黒に白のラインが入ったジャージ。

 しかし、相原の服を着るというのが、何か、もう、駄目だった。

 自分でも訳が分からないくらいに、恥ずかしい。そして、そんな風に恥ずかしがっている自分が恥ずかしい。僕はこんなに変態くさかっただろうか。

 Tシャツを睨みつけたまま、僕は結構な時間脱衣所で固まっていた。しかし、このままずっと半裸でいるわけにもいかない。
客だということで一番風呂をもらってしまったので、早く出ないと後の人たちがいつまで経っても入浴出来ないのである。

 ひとつ深呼吸をしてから、僕は勢いよくTシャツをかぶった。

 意味不明の羞恥心が怒涛のように押し寄せてくるが、立ち止まらずにジャージも履く。もう一度深呼吸をした。

  以前相原がうちに泊まりにきたときは、自分の服を彼に貸した。彼が僕の服を着ているということに、しみじみ嬉しくなりはしたが、そのときはここまで動揺しなかった。

 なのに今、僕の心は日本海の荒波よりも激しくうねりをあげている。こんなことで躓いていて、無事に夜を越えることが出来るのだろうか。甚だ不安だ。

 僕は自分の頬を軽く叩き、気合を入れてから脱衣所を出た。


 部屋で待っていた相原に、

「吉川、結構長風呂やねんなあ」

 と言われた。半分くらいは着替えに費やした時間だが、勿論そんなことを言えるはずがないので、あははと笑っておいた。

「そんじゃ、おれ風呂行って来るから、その辺に散らばってる雑誌とか漫画とか適当に読んでええで」

 そう言い残して、相原は部屋を出て行った。

 ひとり残った僕は、改めて部屋の中を眺めてみた。やっぱり雄々しい部屋だ。

 ベッドに面した壁に、沢山ポスターが貼ってある。八木とか新庄とか亀山とか、ほとんどがもう引退した阪神の選手のポスターだ。
亀山のスリムさに泣けてくる。今の彼は力士のような体型だ。悲しいことこの上ない。

 他にも、甲子園のチケット半券や、去年のオールスターの投票用紙なんかがごちゃごちゃと貼られていた。ぼんやりと眺めているだけでも、無意識にテンションが上がってくる。そしてまた、甲子園に行きたくなった。

「何かええなあ。おれも、こんな風にしよっかなあ……」

 そう呟いたら、部屋のドアが開いた。

「ただいまー」

 相原だった。
首からタオルを下げ、紺のTシャツと灰色のジャージに着替えている。

「えっ、はや!」

 僕は反射的に時計を見た。彼が出て行ってから、10分と経っていない。正にカラスの行水だ。

「え、こんなもんやろ?」

 彼はそう言って、濡れた髪の毛をがしがしとタオルでこすった。

 風呂上りの相原……などと、変に意識してしまうのを防ぐため、僕はとにかくしゃべることにした。

「こ、これ、ポスターとか、ええなあ」

「お、これなあ。ええやろ? 新庄のは、ガキの頃阪神百貨店でむっちゃねだって勝ってもらってん」

「ああーおれも、阪神百貨店でむっちゃ頼み込んで、桧山の下敷き買ってもらったわー」

「下敷き! なっつかしいなー。持っとった持っとった!」

「相原は、誰の下敷き持ってたん?」

「八木と新庄」

「八木と新庄好きやなーお前! おれも好きやけど」

 僕は笑った。そして間髪入れずに次の話題を出さなくては、と思い、部屋全体をぐるっと見回した。
ベッド沿いの壁は、色んなものが貼ってあって賑やかだが、それ以外の壁には何も貼られていない。なんというか、はっきり言ってしまうと随分とバランスの悪いレイアウトだった。

「……何か、この壁にだけやたらと集中して貼ってんねんなあ。何でなん? 周りにも分散させたらええのに」

 軽い気持ちで疑問を口にしたら、相原から思いもよらない答えが返ってきた。

「ああ、うん。ええねん。このポスターたちはな、魔除けやから」