■きみが涙を流すなら 13■


「吉川くん、いらっしゃい。今日は、なんぼでもお代わりしてねえ」

 相原のおかんは、ニコニコしていて小さくて丸くて眼鏡で豹柄だった。とても基本に忠実なおかんだ。彼女と顔を合わせた瞬間、僕の心にあった緊張が一気に吹き飛んだ。

 相原家の食卓には、肉料理がぎっしり並んでいた。

 鶏のから揚げに豚キムチにサイコロステーキに野菜の肉巻きに焼き鳥にトンカツに……。とにかく肉づくしで、大迫力だった。

「うわ、すげえ」

 テーブルにドカンと乗った肉の数々に、相原が目を丸くした。僕は言葉が出て来ない。代わりに腹が鳴った。これ以上に、食欲をそそる夕飯もないと思う。

「あんたら食べ盛りやねんから、これくらいイケるやろ。ほら、座り座り。吉川くんは、誠の横に座ったらええわ」
「あ、はい。どもっす」

 僕は小さく会釈をした。相原がテレビに一番近い席に座ったので、その隣に腰を下ろす。

「こんな豪華な飯、見たことないわ」

 相原は食卓の肉たちを見回し、息を吐いた。

 相原おかんは、大きな茶碗に白飯をてんこもりに盛って、それを僕に差し出した。受け取ると、ずっしりとした手ごたえがあった。こんなに食えるんだろうか。

「だって今日は、吉川くんが来てくれたんやもん。吉川くん、いっつも誠がお邪魔してごめんねえ。うちのアホは空気読まれへんから、毎日のように入り浸ってるやろ。吉川くんも大変やのに」
「いやいや、そんなことないっすよ。一人でおってもすることないし、むしろ来てくれて有難いっていうか」

 言いながら、あれ、この発言はやばいか? という思いが一瞬胸を掠めた。

 来てくれて有難いとか、変、かも? いや、やばいことなんて何もないよな。友人として普通の発言だ。

 僕は何を、一人で焦っているのだろう。やっぱり、少しテンションがおかしくなっているのかもしれない。要注意だ。不用意な発言は避けなければ。次から、よく考えてから喋ることにしよう。

「吉川くん、ご飯とかどうしてんの?」
「自分で作ることもあるけど、大体適当に買ったり……」
「ああ、お前ん家、カップラーメンむっちゃあるもんな」

 相原が、横槍を入れてきた。確かにそれは事実だけど、今ここで言わなくても。僕は、にわかに恥ずかしくなってきた。

「それはあかんわ!」

 相原おかんに大声で言われ、僕はびっくりしてしまった。

「ちゃんと食べなあかんでしょ!」
「は、はいっ」

 おかん丸出しの口調で、怒られた。何だか、実の母親に叱られているような気分になってくる。それから彼女は一転して、人の良さそうな笑顔になった。白い歯がこぼれて、とてもかわいらしい。

「そやな、今度から、ちょくちょくご飯食べに来たらいいわ。今日は肉ばっかりやけど、今度からおばちゃんが野菜もしっかり食べさしたるから」
「え。あ。あ、りがとうございます」
「おばちゃん、好き嫌いは許さへんからね」
「は、はい」

 僕は完全に圧倒されていた。さすが大阪のおかん。凄まじい強引さだ。

「おお、ええやん。いつでも来い来い」

 相原は、楽しそうに笑っている。いつでも来い。なんて甘美な響きだろう。彼がそう言うなら、いつでも行こうと思った。

「さてと、今日は何チャンやろ……」

 相原はテレビをつけてチャンネルを次々変え、野球中継のところで止めた。試合はまだ始まったばかりだった。

「かーおーりいー! ご飯ー! はよ下りて来なさいー!」

 相原おかんは廊下に顔を出し、よく通る声を張り上げた。腹にびりびり来る声だ。

「ごめんなあ。うるさいやろ、うちのおかん」

 相原は顔をしかめて、小声で囁いた。

「ええやん、おもろいやん」

 僕は素直な気持ちを述べた。相原のおかんはおもろい。それは素晴らしいことだ。大阪では、「おもろい人間」が一番なのである。


「……うわっ、何これ」

 ダイニングに入ってきた香織ちゃんは、肉満載のテーブルを見て絶句した。気持ちはよく分かる。

「肉ばっかりやんか」

 溜め息と共に相原の向かいの席につき、テレビ画面に目を向ける。そして、思い切り顔をしかめた。

「誠くん、また野球見んの? おもんないやん、こんなん。変えようやー」
「……な? こいつがこんなん言うから、吉川ん家で野球見て帰って来るんやって」

 相原はおかんからご飯を受け取り、(こちらも凄い量だった)リモコンを守るように手元に引き寄せた。
相原おかんは、呆れたように肩をすくめた。


 肉乱舞の豪勢な食事は、物凄く美味かった。作りたての温かい手料理を食べるのが久し振りだったので、不覚にも泣きそうになった。
全く自覚していなかったが、お袋の味というやつに飢えていたのだろうか。
僕はしっかりと、野菜の肉巻きを噛み締めた。

  香織ちゃんはお母さんに、学校のことや友達のことなんかを話している。

 相原おかんはそれを聞きながら、ダイナミックに肉を食べている。

 相原は、手と口は休みなく動いているが、目はテレビの方に固定したまま動かない。CMの間だけ僕の方を向いて、投手の調子や相手バッターのことなんかを話す。

 ああ、家族の食卓って、そういえばこんなんだったなあ。
 そう思うと、また泣きたくなってきた。


「……あ、お兄ちゃん帰ってきた」

 おかんとのおしゃべりも一段落し、食事に集中していた香織ちゃんがふと顔を上げた。  えっと思って、テレビから目を離す。

 お兄ちゃん? 相原?

 思わず相原の横顔をまじまじと見てしまった。それからすぐに、ああそうだ、相原の上にもうひとり兄貴がいるんだった、と思い直す。

  それにしても、何か物音がしただろうか。僕にはインターホンの音も、扉が開く音も、何も聞こえなかった。

「香織ちゃん、耳ええねんなあ」

 僕は感心して、彼女の方を見てそう言った。
すると彼女は、恥ずかしそうに目をそらし、

「いえ……」

 ともぞもぞ呟いた。

 ……やっぱり、距離感が掴みづらい。

「何やの、香織。吉川くんの前ではえらいかわいこぶって」

 相原おかんが、豪快な笑い声をあげた。

「かわいこぶってへんよ! もーお母さん、訳分からんこと言わんといて!」
「うーるーさーいー。ふくもっさんの解説聞こえへんやんけ」

 きゃあきゃあ騒ぐ女性陣に、野球狂の次男坊が不満の声をあげた。今日の解説は「世界の盗塁王」こと福本豊さんだ。
毒舌だが何処かほのぼのした解説で、ファンからの支持は高い。僕も大好きだ。

「ただいま」

 静かな声と共に、背の高い男の人がリビングに顔を出した。歳は多分ハタチくらい。色白で細身で、物静かそうな人だった。
相原とは、全然似ていない。相原が陽ならば、この兄さんは陰という感じだ。

「おかえりー」

 相原おかんと香織ちゃんは、声を揃えて返事をした。相原は野球に集中しているので、一拍置いて

「りー」

 とだけ言った。
それが僕のときめきのツボに入り、悶えそうになるのを堪えるのに苦労した。

「……誠の友達?」

 テレビから聞こえる歓声の間を縫って、相原兄貴の静かな声が聞こえた。そうだ、挨拶しなくては、と彼の方を向いたらまともに目が合った。
そのまま真顔で見つめられて、背筋が緊張でヒクつきだした。

「ど、どうも。相原と同じクラスの吉川、っす」

 持っていた茶碗を置いて、ぎこちなく会釈をした。相原兄貴は、まだこちらを見ている。僕は何かしただろうか。

「浩一、そんなじっと見ぃへんの。吉川くん、びっくりしてるやんか」

 相原おかんの苦笑いに、浩一さんは何かに気付いたように「ああ」と頷いた。

「ごめんな、目ェ悪いねん。睨んでるわけじゃないから」

 素っ気無い口調で、そう言われた。あまり愛想のいい人じゃないようだ。顔だけでなく、中身も相原とは似ていない。
ともあれ、敵意を持たれている訳ではないと分かって、とりあえずほっとした。

「お兄ちゃん、ご飯は?」

 そのまま立ち去ろうとする相原兄貴を、香織ちゃんが呼び止めた。

「食ってきたから、いい」

 そう言い残して、さっさと浩一さんは行ってしまった。

 その後もしばらく、僕はなんとなく彼が立っていた場所を見ていた。
 なんというか……不思議な感じのする人だな、と思った。

 そのとき、テレビから大きな歓声が聞こえた。相原が、「おっしゃ!」と叫んでガッツポーズを作る。

「えっ、何、何っ?」

 慌ててテレビ画面を見ると、守備中だった阪神の選手がベンチに引き上げて行くところだった。実況が、

「下柳、素晴らしい球で三振を奪いました!」

 と、興奮気味に叫ぶ。
その素晴らしい球を見逃すなんて、なんという不覚。

「何や、吉川。見てんかったん? むっちゃいい球やったのに」
「うお、マジでか! 何で見てんかったんやろ!」

  しかもこういうときに限って、放送時間の都合なのかリプレイが流れない。

 うおおお、と呻く僕に相原が大笑いする。そんな僕たちを見て、相原おかんがニコニコ微笑んでいた。