■きみが涙を流すなら 10■
数日後、家族揃っての夕食時。
僕はとうとう決行することにした。
それまでに、何度も何度もシミュレーションをした。
その結果、かしこまって話をするのではなく、雑談に紛れてサラッと言ってしまうのが一番なのではないか、という結論に達した。
その後は、ちゃんと話し合う。両親の意見もちゃんと聞くし、自分が思っていることも全部言う。
うん、それで行こう。
大丈夫。きっと上手く行く。大丈夫。大丈夫。
僕は食卓につき、何度も何度も心の中で繰り返した。
夕食はお袋ひいきの、デパ地下惣菜屋のハンバーグだった。箸を持ち上げた瞬間、ハンバーグがぐにゃりと歪んで見え、慌てて頭を振った。
何度も唾を飲み込む。
ああ、駄目だ。テンパりすぎだ。もっと気楽な感じでいかないと。
僕は味噌汁をすすった。思いのほか熱くて、吹き出しそうになる。
「何やってんの」
お袋が、呆れたように言った。
本当に、何をやっているのだろう、僕は。
「明日、雨やってよ」
テレビの天気予報を見ながら、親父が呟いた。
僕も、テレビに視線をやる。近畿地方は雨マークだらけだ。
お天気キャスターのお姉さんが、
「明日の大阪は、雷を伴う強い雨が降るでしょう」
なんて言う。なんとなく嫌な気分になった。
「ええー、明日、雨やの。あたし朝から出かけるのに。あっ四郎、明日お弁当なしでもいい?」
「あ、うん。ええよ別に」
ハンバーグをつつく手を止め、頷く。そして、
「そういえばさあ」
と、思い出したような口調で切り出してみた。少し間を空けて、お袋が、「んー?」と、生返事をした。
両親の視線はテレビに向いていて、全く僕の方を見ない。
首筋と足の裏が、そわそわする。
がんばれ。がんばれ、おれ。
「……今、付き合ってる人がおんねんけど」
そう言うと、二人同時に凄い勢いで振り向いた。僕は唾を飲み込んだ。
「え、ほんまか」
「あっらあ、ほんまにい」
親父は驚き、お袋は嬉しくてたまらないという顔をした。僕は下を向きそうになる顔を、懸命に持ち上げた。心臓は、先ほどから大暴れだ。
「そんなら四郎、一回家連れて来なさいよ」
「お前なあ、何でもトントンで話進めようとするなや。いきなり家なんか呼んだら、彼女緊張するやんけ。かわいそうやろが」
「何でよお。この子の彼女やで? どんな子か、見たいやん。そんで四郎、その子名前なんて言うの」
「いや、あのさあ!」
叩きつけるようにして、箸を食卓に置いた。
和やかに進んでいく会話に、心臓が押しつぶされそうだった。
「なんやのん」
お袋が、怪訝そうに首をかしげる。
箸の上に置いた、自分の手が小刻みに震えているのが分かる。
ああ、僕は言うんだ。とうとう、言ってしまうんだ。
どうしよう。どうしよう。
どうしようもなにも、ここまで来たらもう引き返せない。
言うしかない。
言うんだ。
言う。
言え!
言え!!
「……付き合ってる人って、男やねんけど」
軽い口調で言うつもりだったけど、無理だった。
全身がみっともないくらいに震えていて、舌を噛みそうになった。
両親は箸を止め、呆然とした顔で僕の顔を見た。ここまでは、予想通りだ。
この後、どう出るか。泣かれるか、殴られるか、それとも……。
そのときお袋が、勢いよく立ち上がった。少し遅れて、椅子が倒れる大きな音がする。
僕は殴られるのだと思って、硬く目を瞑って肩をすくませた。
しかしお袋は、そのまま走ってダイニングを出て行った。
「お……おい!」
親父が、慌ててその後を追う。訳が分からなくなりながら、僕も彼の後に続いた。
母は転びそうになりながらトイレに駆け込み、そして嘔吐した。
予想外だった。
そして それは、泣かれるより殴られるより何百倍ものダメージを僕に与えた。
僕は、怒りや悲しみではなく、吐くほどの不快感と嫌悪感を母親に与えてしまったのだ。
だって家族だから。家族なのに。まさか吐くなんて思っていなかった。
頭の中と足元がグルグルして、気が付けば僕は床に膝をついていた。
母の苦しそうなうめき声が、耳にへばりつく。
僕は馬鹿だ。本当に大馬鹿だ。
……その後のことは、あまりよく覚えていない。
カミングアウト後は両親としっかり話し合う、という予定を立てていたが、両親とはほとんど話をせず、お袋に至っては目すら合わせない日が続いた。
僕は毎日毎日、一分一秒ごとに、言わなきゃ良かった言わなきゃ良かったと、そればかりを考えていた。
家族だから大丈夫だなんて、どうして考えたんだろう。どうして、せめて自分が自立するまで待てなかったんだろう。
あんなに上手くいっていたのに、僕の一言で全部終わってしまった。
カミングアウトしたら、もっとすっきりするのかと思っていたのに。
肩の荷が下り、晴れやかな気分になるのだと。
なのに、現実はどうだ。
両肩は以前よりも更に重く、後悔ばかりが胸を埋める。
言わなきゃ良かった。
言わなきゃ良かった。
言わなきゃ良かった。
このとき既に親父は博多への転勤が決まっていて、春から単身赴任する予定だった。しかしカミングアウトの数日後、親父にこう言われた。
「お母さんも、博多に来ることになってんけど……」
ああ、そうか。そうやんな。
転勤の話が出たときは、あたしは絶対大阪から出えへんとか言ってたけど、うん、そうなるわな。当たり前だ。
親父も、この数日で老け込んだ気がする。僕はそんな親父を見るのが辛くて、下を向いた。
「……お前はどうする?」
どうするも何も。僕は目を閉じた。ものすごく疲れた。
これで、おれもついていく、とか言ったらどうなるんやろ。ドン引きされるやろうな。空気読めっつう話や。
「……大阪、残ってもええかな」
僕はちゃんと空気を読んで、そう言った。親父が息を吐く。安堵の溜め息のように聞こえたのは、僕の被害妄想ではないと思う。
家族崩壊の瞬間って、こういう感じなんやな。と、ぼんやり思った。
「……あの、お母さんな。あのとき、元々体調悪かったんやって。だから、お前のせいって訳じゃ……」
「いや……ええよ、そんな……」
どう考えてもおれのせいやし、と吐息に近い声で呟いた。
親父は何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。
そんなわけで両親は福岡に引越し、僕は大阪で一人暮らしをすることになった。
親父からはたまに電話がかかってくるけれど、お袋とは、あのとき以来全く口をきいていない。
親父とも、そういう話は全くしないし、会話もまだぎこちない。
言わなきゃ良かった。
言わなきゃ良かった。
言わなきゃ良かった。
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