■きみが涙を流すなら 11■


 昼休み。

 吉川はいつもように、僕の席まで弁当を持って来た。
近くの空いている席から、適当に椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。

「なあなあ吉川、今日ひま?」

 机の上に弁当箱を乗せ、彼は何気ない口調で尋ねてきた。

「うん、ひま」

  僕はパンの包みを開けながら頷いた。
また、『帰りお前ん家寄っていい?』とかそういうことだろうと思った。
彼はこのところしょっちゅう、僕の家に来る。嬉しいのだけど、なんとなく複雑だ。

「そんなら、おれん家にメシ食いに来おへん?」

「え、え?」

 予想していたことと全く違うことを言われて、舌を噛みそうになった。

「相原ん家に?」
「そう。おかんに吉川の話をしたら、お袋の味に飢えてるやろうから、一回連れて来いってうるさいねん」
「お、おれの話ってなんやねん。変なこと話してへんやろうな」
「変なこと、ってなんや。一人暮らししてる友達がおる、くらいしか言うてへんって」

 他に何を言うねん、と彼は笑った。僕はそっと息をついた。
それもそうだ。それ以外何を言うっていうんだ。

「そんなん恥ずかしいから嫌やーって言ってんけど、ほんっまうるさいねん。毎日言ってくるしさ」

 相原は顔をしかめて、耳の後ろを掻いた。

「ま、いっつもおれが吉川ん家行ってばっかやし、一回くらいうちにも来いよ。おかんの料理、あんまうまないけどな」

 彼はそう言って弁当箱を開けた。そんなことを言う彼の弁当は、いつも豪華だ。たまにおかずを少し分けてもらったりするけど、丁寧に作ってあって美味い。良いおかんなんやろうな、と思う。

「で、吉川。来る?」

 相原は小首を傾げ、卵焼きを口に放り込んだ。そのあどけない仕草に、僕はいともたやすくノックアウトされてしまう。

「行く」

 頷くと、彼は白い歯を見せてニッと笑った。

 そんな顔をするのは反則だ。


 放課後、僕たちは並んで校門を出た。
七月の太陽が眩しい。瞬時に、首周りに熱気がまとわりついてくる。暴力的な暑さだ。正直もう、暑いのはお腹一杯だ。早く秋になればいいのに。

「昨日、野球観とった?」

 相原が、声をかけてきた。

「観てた観てた。矢野がホームラン打った試合って、負けへんよなあ」
「そうやんなあ。でももうちょっと、タイムリーも見たいよな」

 相原は首を振る。僕もそこは同感だった。ホームランは勿論嬉しいけれど、やっぱりランナーを溜めてじわじわとチャンスを作り、タイムリーヒットで走者を還す……というスタンダードな野球も観たい。
みんな、考えることは同じらしい。

「スコアリングポジションには行くねんけどなあ」
「あと一本が出えへんよなあ。残塁多すぎやろ」

 溜め息をついてから相原はこちらを向き、おっさん臭いなおれら、と笑った。
確かに、JR大阪駅地下の串カツ屋で、一杯ひっかけてるおっさんのような会話だ。僕も笑った。彼と一緒に笑うのは、この上なく心地がいい。

「相原ん家って、何で行くん。JR? 阪急? 御堂筋線?」
「阪急。十三で乗り換えて箕面線」
「へえ、そっち方面ってあんまり行ったことないわ」
「何もないとこやからなあ。猿しかおらへんし。人より猿の方が多いんちゃうか、ってたまに思うわ」

 箕面の名物は猿山だ。僕もそこには、小学生の頃に遠足で行ったことがある。
山の至るところに猿がいて、奴らは大きな目を光らせて常に食べ物を狙っている。
なので箕面の山には、「猿が狙っていますので、食べ物や飲み物は鞄の外に出さないで下さい」という看板があちこちに立っている。
子ども心に、それが物凄く恐ろしかったのを、よく憶えている。

「箕面の猿はすごいよな。むっちゃ攻撃的というか、逞しいというか」

 歩道の脇にどっしりと座り込み、せんべいをかじっていた猿の姿を思い出しながら、僕は言った。

「そうそう。あいつら、小銭拾って自販機でジュース買いよるからな」
「マジで?」

 僕は吹き出してしまった。賢いというか、そこまで行くと人間臭すぎて笑ってしまう。

「相原は、ずっと箕面なん?」
「うん。吉川は、ずっと市内?」
「ううん、幼稚園くらいまで神戸やった」
「どっちにしても、都会っ子やなー」

 そんなとりとめもない話をしながら、一旦大阪まで電車で出た。それから、阪急電車に乗り換える。


 電車に乗っている間、相原が何度も何度も「なんもない田舎」と言うので、どれ程かと思ったが、地元の駅に着いてみたら意外と賑やかだった。
人通りも車も多いし、駅前にはコンビニも薬局もスーパーも百均もマクドも本屋もある。

「何もないとこやろ、ほんま」

 何処か恥ずかしそうに、彼は言った。

「いや、こんだけ栄えてたら充分ちゃう? 結構何でもあるやん」
「うんまあ、最近ちょっと開発されてんねんけどな。でも、ツタヤが遠いねんなあ……。チャリで十五分くらい行かんとないねん」
「それくらい、漕げやー」

 ワガママ言うなや、と僕は笑った。

 辺りを見回す。ここが相原の地元かと思うと、なんとなく感慨深い。

「……相原ん家、ここからどれくらい?」
「もう、すぐやで。五分くらいかな。あ、そこ右な」

 相原が指差す方向に曲がると、和風の家屋が立ち並ぶ閑静な住宅街が現れた。道一本入るだけで、随分と印象が変わる。
平成から、昭和にタイムスリップした感じだ。

 なんかこういう雰囲気って、いいなあ。
 僕は眼を細めた。ずっとマンション住まいだったので、こういう風景には憧れる。

「はい到着」

 相原が足を止めた。本当にすぐだった。

 彼の家は、二階建ての和風家屋だった。小じんまりした門の奥に、緑が生い茂る庭が見える。

 門柱に視線をやると、表札の下に「相原 憲次・より子・浩一・誠・香織」と書かれた花柄トールペイントのプレートが提げられていた。
おかん作だろうか。相原に見えないように、僕はそっと微笑んだ。

 相原は門を開けて、「どうぞー」と手招きをした。

「お邪魔しまーす」

 そう言って門の中に足を踏み入れた瞬間、急に、手と首に嫌な汗が滲んできた。
背筋がきゅっと絞られ、口の中が乾いてくる。

 ここに来るまでどうも思わなかったのに、突然緊張してきた。心臓が、どぶん、どぶんと鈍い音を立てる。

 相原の家に行っちゃうんだ、おれ。それってすごくないか。すごいことなんじゃないのか。いや、全然すごくないか? 何だか、よく分からなくなってきた。

「おーい、暑いし早く入れよー」

 気が付けば、相原が玄関で手招きしていた。

「お、おう!」

 と、僕は返事をして、小走りで彼の元に向かった。