■きみが涙を流すなら 08■
その日も平日だった為、僕たちは一緒に登校した。
このシチュエーションは、果てしなく僕を舞い上がらせた。
学校に着くまでの間、僕は顔中の筋肉を総動員して、ニヤけないように努めていた。
昨日の試合すごかったよなとか、今日の時間割なんだっけとか、そんな話をしている内に学校に着いた。
何だかあっという間だった。
校舎の中に入り、教室に向かっていたら
「誠くん!」
という声がした。
見ると、前方から小柄な少女が手を振りながら走ってくる。
ブラウスの襟元に、臙脂色のリボンが結ばれている。臙脂は、一年生の学年カラーだ。
僕はすぐにピンと来た。
この子は恐らく、相原の妹だ。
相原とはあまり似ていないけれど、なんとなく分かる。
「香織」
相原の言葉に、僕はやっぱりと思った。
相原の妹は清純派、という感じの可愛い子だった。さすが相原の妹。
僕は別に女嫌いではないので、可愛い女の子は素直に可愛いと思う。
それ以上はどうも思わないけれど。
犬や猫を可愛いと思うのと同じだ。
「昨日、何で帰って来なかったん? むっちゃ電話しててんけど」
香織ちゃんは、不服そうに眉を寄せた。
「ああ、こいつん家に泊めてもらってたから」
相原に、肩をぽんぽんと叩かれた。
そんな何気ない動作にも、顔が熱くなってくる。
それに、いかにも親しげに、こいつ、なんて呼ばれたことも嬉しかった。
「えっ、あ。てことは、昨日、電話の」
香織ちゃんは、背筋を伸ばした。
何となく僕もつられて、姿勢を正す。
「あ、はい。そっす」
もごもごと頷いた。どういう口調で喋っていいのかが、よく分からない。
彼女は年下なのだから、タメ口で喋ればいいのだろうけれど、相原の妹だと思うと、どうしてもかしこまってしまう。
「昨日はすいません……。
誠くんと違う声の人が出たからびっくりしちゃって、あたし、感じ悪かったかも……」
そう言って、香織ちゃんは申し訳なさそうに小さく会釈した。
「いや、全然、そんな。おれも、女の子からかかってくるって思ってなかったから、ちょっとテンパってもうて」
しどろもどろになりつつ、そう返した。そして、相原の方をちらりと見る。
妹、めっちゃ良い子やん。
視線にそういう意味を込めたつもりだったが、彼は気付いていないようだった。
「誠くん。お泊りするんやったら、ちゃんと連絡せんとあかんやん」
「まあまあ、ええやん。一日だけなんやし」
相原は軽く笑った。いつもと変わらない、爽やかな相原スマイルだった。
僕は、心の中で首をかしげた。
この会話だけを聞いていると、ごく普通に仲の良い兄妹にしか見えない。
昨夜、忌々しげに「うっとうしい」と吐き捨てた相原は、僕の夢だったのだろうか。
「誠くん、今日まっすぐ家帰る?」
そう言う彼女の口調は、兄貴にそっくりだった。血縁ってやつは凄い。
「やー、帰らへんと思うけど」
「ほんまに? それやったら、家の鍵貸してくれへん?」
ごめーん、と言いながら、彼女は顔の前で両手を合わせた。
「また忘れたんかい」
相原は呆れたようにため息をつき、ズボンのポケットをまさぐった。
トラのキーホルダーが付いた鍵を取り出し、妹の手のひらに乗せる。
「ごめんな、ありがとう!」
「テレビの上に置いとけよ」
「分かってる分かってる! そんじゃね!」
香織ちゃんは手を振りながら、軽やかに走って行った。
最初から最後まで、爽やかな子だった。さすが相原の妹。
「……むっちゃいい子やし、相原もいい兄ちゃんやん」
彼女の背中が見えなくなってから、僕は相原を小突いた。
すると彼は目を細めて、
「んん……」
と微妙な返事をした。
否定しているのか肯定しているのか、よく分からなかった。
相原が、こんなはっきりしない態度を取るのは珍しい。
僕たちの間に、何だか変な空気が流れた。
もしかして、余計なことを言ってしまったのだろうか。そう思うと、不安になってくる。
だけど謝るのも変だし……。
それに、何がいけなかったのかがよく分からない。
からかうように言ったのが気に障った? いや、そんなことで怒る奴じゃないと思うんだけど……。
「そういえば、吉川は何で一人暮らししてるんやっけ」
今までの会話がなかったことのように、ごく普通の口調で相原はそう言った。
グルグル考え込んでしまっていた僕は、虚を突かれてしまって、すぐに返事することができなかった。
「え、ええと……。親父が九州に転勤になって、お袋もそこについて行って……っていう話、前にせんかったっけ」
「ああ、そういえば、そんなこと言ってたなあ」
ははは、と相原は笑う。全く曇りのない笑顔だった。
さっきの微妙な表情は、何処にも見当たらない。
……気のせいかもしれないけれど、家のことや兄弟の話になると、いつもと違う相原が顔を出すような気がする。
香織ちゃんから電話がかかってきたときも、普段の相原じゃなかった。
「何で、吉川はついて行かへんかったん?」
僕の胸に、ズシンと重いものがのしかかってきた。
流れとしては当然の質問だ。逆の立場なら、僕だってそう聞いていたと思う。
しかし出来れば、そこには触れて欲しくなかった。
それは僕の中にいくつかある、「痛いところ」の内の一つだった。
「いやほら……九州やと、阪神戦の中継やってへんやん? 甲子園にも行かれへんし」
そう言って誤魔化すことにした。
咄嗟に、いい嘘が思い浮かばなかったので、随分お粗末な言い訳になってしまった。
さすがにツッコまれるかな……と、恐る恐る相原の方を見ると、彼は笑っていた。
「お前ほんっま、タイガース大好きやねんなあ!」
どうやら、彼は疑ってはいないらしい。僕は安堵し、一緒に笑った。
……いや、もしかしたら、わざと騙されてくれたのかもしれない。
相原はいい奴だから、そうとも考えられる。
何だか胸の中が、黒々としてきた。
僕は相原に、嘘ばかりついている。隠し事だって山ほどある。
本当のことを言った回数の方が少ないんじゃないだろうか、と思うほどだ。
彼が友人だと思ってくれているのは、僕であって僕じゃない。
半分以上嘘で塗り固められた吉川四郎だ。そんなの、友達と言えるのだろうか。
こんな不誠実な態度で、相原の友人という位置に、のうのうと座っていていいのだろうか。
……もっと、ちゃんと、嘘のない本当の吉川四郎として、相原誠と向き合いたい。
不意に、そんな思いがこみ上げてきた。
相原とこうして並んで歩いたり、喋ったり、笑ったりするのは物凄く楽しいし幸せだ。
だけど、むなしい。
嘘がばれないように、ボロが出ないように適当なことばかり言って、取り繕ってばかりいるのは、本当にむなしい。
それに後ろめたいし辛いし痛いし……とにかく、良いことなんて一つもない。
ああ、だけど。
だけど僕は、もう二度と失敗したくない。
脳裏に、両親の顔が浮かんだ。
それだけで、胸が痛くなってきた。
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