■きみが涙を流すなら 05■


※今回は野球の話しかしてないので、興味ない方は読み飛ばして下さっても支障ないかと……。


「うわあ、久し振りやわ、甲子園!」
 
相原が、嬉しそうな声をあげた。

 僕と相原は、約束どおり甲子園に来ていた。
授業が終わってすぐに直行したので、制服のままだ。
 チケットは結局、前売りで買った。甲子園行くならライトスタンドだよな、と意気投合したからだ。
当日販売だと、ライトスタンドは売り切れている可能性が大なのである。

 まだ試合開始まで一時間以上あるのに、球場周辺はタテジマのユニフォームに身を包んだ阪神ファンで一杯だった。
タイガーマスクをかぶっている人や、黄色と黒のアフロの人もいる。
まるっきりお祭り会場だ。
 彼らを見ていると、身体の奥底から言いようのない高揚感が湧いてくる。
血沸き肉躍る、というやつだ。人が多いせいで一段と暑いが、そんなことも気にならない。

 隣を歩く、相原をちらっと見た。
彼は本当に楽しそうに笑っていて、小さな声で「六甲颪」のメロディを口ずさんでいる。
気が早い。僕は少し笑ってしまった。

 甲子園に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わったような気がした。
 なんとなく、肌がザワザワする。

 売り子の「ビールいかがですかー」という声や、応援団がトランペットを練習する音を聞きながら、座席に向かう。
 グラウンドでは選手たちが打撃練習をしていて、カーン、コーンと快音を響かせていた。
時折ボールがスタンドに飛び込み、それに人々が群がっていく。
 練習球は全球回収だから、返却しなくてはならない。
 それが分かっていても、追い掛けずにはいられないのである。その気持ちは非常によく分かる。

「相変わらず、狭いなあ」

 席に腰を下ろしながら、相原は苦笑いした。「そうやなあ」と相槌を打ち、僕も彼の隣に座る。
甲子園の客席は本当に狭いので、並んで座る僕たちはほとんど密着していると言っていい。

 神様、幸せをありがとうございます。
 僕は、心の中でそっと呟いた。

「よっし、ユニフォーム着よっと」

 相原は、鞄の中をゴソゴソやり出した。
僕も持参したユニフォームを着ようと鞄を開けると、相原がいきなり無造作に制服のシャツを脱ぎ出した。
 驚きのあまり、声も出なかった。
 シャツの下に、もう一枚ランニングを着込んでいるのが見えたけど、それでも直視できなくて目をそらした。
 なんて恐ろしいことをするんだろう、こいつは。

「吉川、お前その上からユニ着るん? 暑くない?」
「い、いや。おれはこれでええよ」

 ははは、と笑って制服の上から、タテジマユニフォームに袖を通した。
 確かに暑い。
 だけど、相原のように雄々しく着替えることも出来ない。

 ああ、僕は何だって、こんなしょうもないことでいちいち動揺しているんだ。
 このモヤモヤを全て吹き飛ばすべく、全力で応援しよう。

 僕は、古ぼけたメガホンを握り締めた。
そうしたら、相原に「お、気合入ってるやん」と笑われた。


 試合は、序盤から両チーム共にヒットの応酬で、乱打戦になった。
こちらのピッチャーも打ち込まれているわけだから、試合の出来としては最高とは言い難いが、見ていて一番楽しい試合展開だった。
 僕は試合前の誓いどおり、声を張り上げて応援した。
ヒットが出るたびに、相原は歓声をあげながら僕の背中や腰や頭をバンバン叩いた。
痛いけど幸せだ、と思う僕は病んでいるだろうか。

 七回裏の阪神の攻撃が始まる前には、恒例のジェット風船を飛ばした。
 五万以上ものカラフルなジェット風船が一斉に夜空に舞う様は、壮観であり感動的でもある。
直後に、しぼんだ風船がボタボタと頭上に落下してくるけれど。
 あらかじめグラウンドにスタンバイしていた球団職員の人たちが、素晴らしいスピードで落ちた風船を拾い集めていくところも、非常に見事である。


 七回裏の先頭打者は、四番打者だった。

「アニキ、ホームラン打ってくれー!」

 相原が叫んだ。僕も笑いながら、「ここまで持ってこーい!」と叫んだ。
それからふたりで顔を見合わせ、へへへ、と笑い合う。
素面なのに、酔っ払いみたいなテンションだ。
僕たちだけがおかしくなってるわけじゃなく、甲子園全体がそんなノリなのである。
 甲子園には、グラウンドだけじゃなく客席にも魔物が住んでいると思う。

 四番打者のバットは、初球のストレートを捕らえた。
 カァン、という、打球音がここまで聞こえてきた。

 打球はぐんぐん伸び、僕たちが座っているライトスタンドに、まっすぐ向かってきた。

「こっち来い! 入れ、入れ!」

 僕は無我夢中で叫んだ。周りもみんな一様に、来い来い来い来い! と叫んでいる。
 
 直後、打球はスタンドに突き刺さった。

 四万八千もの観衆の歓声と、メガホンを打ち鳴らす轟音が、洪水となって聴覚を支配した。
僕も相原も、隣の女性も前のサラリーマンも、みんな飛び上がるように立ち上がってメガホンを鳴らす。

「おっしゃああ!」

 相原が叫んで、僕に抱きついてきた。
 普段の僕だったら、恐らく硬直してテンパって、しどろもどろになっていたはずだ。
しかし今は、アドレナリンが最大出力で放出されている。テンションは上がりきっていて、状態を冷静に分析することが出来なかった。
完全に、まともな状態ではなかったのである。

 もう何がなんだか分からないまま、興奮に任せて僕も相原の背中にがっちり抱きついた。

 後から考えると、えらいことをしたと思う。
 だけど、どれだけ思い出そうとしても、あのときの感触を思い出すことは出来なかった。
それだけ、正気じゃなかったということだ。でないと、そんな大胆に踏み込むような真似が僕に出来るはずがない。

 とにかくこの日、阪神タイガースは勝利した。

 ヒーローインタビューもしっかり聞いた。六甲颪も合唱した。
 僕も相原も、ずっと笑っていた。意味もなく握手をしたり、肩を叩き合ったりした。こんなに楽しくて幸せな気分は、随分久し振りだ。

 甲子園を出てからも、歓声とメガホンの音がまだ耳に残っているような気がした。