■きみが涙を流すなら 04■


「お邪魔しまーす」

 相原は歌うように言いながら、部屋の中に入った。

 僕の心臓は、さっきからバコンバコン鳴っていた。
落ち着け落ち着け、とお経のように何度もくり返す。

「適当に座っとって。何か飲み物……」

 冷蔵庫を開けて、僕は心底情けなくなった。
冷蔵庫の中には、牛乳とバターしか入っていない。
折角相原が部屋に来てくれたのに、ロクなもてなしも出来ないとは。
帰りにコンビニでも寄って、何か買ってくれば良かった。

「牛乳しかないねんけど、ええかな」
「おお、牛乳むっちゃ好きよ」

 笑い混じりの声が返ってきて、少しほっとした。
コップに牛乳を注いで振り返ると、相原はきょろきょろと部屋の中を見回していた。

「ここって、一人暮らし用?」
「うん、そうやけど」

 テーブルの上にコップを置き、相原の向かいに腰を下ろす。
相原は、まだ熱心に室内を観察している。
何か変なところでもあるだろうか。別に、普通だと思うのだけど。

「大阪って、家賃高いよなあ」

 いきなり、相原はそんなことを言ってきた。
話題がそっちに転がるとは思っていなかったので、一瞬返事が出来なかった。

「ああ、うん。そうやな」

 僕が頷くと、相原はこちらに視線を向けた。
やけに、真剣な表情をしている。
いつもと違った印象の彼に、どきっとしてしまった。

「敷金とか礼金とか、いくらくらいなん?」
「えっ?」

 思わず聞き返してしまった。彼は、やっぱり真面目な顔をしている。

「……ごめん、親に借りてもらってるから、細かいことはよう分からんねん」

 なんとなく相原に気圧されつつ、僕は答えた。すると、彼の表情から力が抜けた。

「あ、そうか。そうやんな……ごめんごめん」

 相原は、僕から目をそらして首の後ろを掻いた。
何だろう。相原の真剣さが、なんとなく気になる。

「……相原は、卒業したら家出るん?」

 僕は、牛乳を一口飲んだ。そういえば、賞味期限がギリギリだった。
こんなもの、相原に出して良かったのだろうか。

「んー、そうかなあ。……うん、そうやな。ほんまは、もっと早く出たいねんけど」
「そうなん? 地方の大学行くとか、そういうの?」
「いや、大阪の大学行くつもりやけど、家は出たいかなって」

 軽い調子で返事が返ってきて、僕はそっと息を吐いた。
良かった。地方の大学に行くって言ったら、どうしようかと思った。

「でもやっぱ、金かかるよなあ……」

 相原は、溜め息をついた。どうも、本気ですぐに自立したがっているようだった。

 ……何で? 何かあんの?

 僕は、心の中でそう呟いた。
 相原にも、色々あるに違いない。色々。
その「色々」の詳細が、正直むちゃくちゃ気になる。だけど、聞けるはずがない。
相原とはまだ、知り合いの域をちょっと超えたくらいで、友人ですらないのだから。

  調子に乗るなよ、おれ。知りたくても、そこは我慢だ。
人間関係で一番大事なのは、距離感だ。
いきなり距離を詰めようとしてはいけない。

  ……僕は一度、それで大きな失敗をしている。
同じ失敗は、二度と繰り返すまい。
折角相原と親しくなる機会を得たのだから、それを壊したくない。

「お、メガホンやん」

 相原が、声をあげた。もう、いつもの明るい声に戻っている。
彼は、部屋の隅に転がっていた黄色いメガホンを手に取った。野球の応援用メガホンだ。
出しっぱなしにしていたのを、すっかり忘れていた。

「阪神ファンなん? おお、和田のステッカーとか貼ってある」
 球団ロゴ入りのメガホンを軽く振りながら、相原は笑った。

「うん。ガキの頃からずっと」
 僕が頷くと、彼は顔を輝かせた。

「マジで! おれもむっちゃファンやで。ニ〇〇三年に優勝したとき、どんだけ泣いたことか」
「うわ、同志発見や!」

 僕は反射的に、右手を差し出した。すぐに相原が、その手を力強く握り返してくる。
がっしりとしていて密度のある手の感触に、僕の心臓は跳ね上がった。
  うわ、どさくさ紛れに手を握ってしまったよ。

「吉川は甲子園、よく行くん?」
「ああ、昔はよく行っててんけど、最近はあんまり……やなあ……」

 それは、小林が野球に興味がなかったからだ。
一度無理矢理甲子園に連れて行ったけれど、
「あんなうるさい掃き溜めみたいな場所、二度と行きたくない」
 と言われ、
「てめえ、聖地になんてことを!」
 と、大喧嘩になった。それ以来、一度も球場に足を運んでいない。

 いらんことを思い出してしまったばっかりに、語尾が萎んでしまった。

「そんならさ、今度一緒に行こうや!」
「えっ」

 僕は、無意識の内に下向きになっていた顔を、勢いよく上げた。

「甲子園。学校帰りにでも、行こうで」
 相原の笑顔が眩しい。

「行、く!」
 つい、声が切れ切れになってしまった。みっともない。

 心臓が、ズコンバコンと高鳴っていた。自分でも、体温が上昇していくのが分かる。
 僕はさりげなく、手の甲を自分の頬に当てた。赤面してはいないだろうか。

 嬉しい。尋常でなく、嬉しい。

 だがそれ以上に、あまりの展開の早さに、脳がちょっとついて行けていない。
良いのか? こんなトントンと話が進んじゃって、本当に大丈夫なのか?
 共通の趣味を発見しただけでも嬉しいのに、いきなり一緒に野球観戦とは。上手く行き過ぎて、不安すら覚える。

「おれの周り、野球に興味ない奴ばっかでさあ。うわあ、むっちゃ嬉しいわー」
 相原はそう言って、豪快に牛乳を呷った。


 この日を境に、僕と相原はぐっと親しくなった。
学校でもよく相原が話しかけてくれるようになったし、一緒に昼食を食べたりするようになった。
そしてちょくちょく、彼は僕の家に遊びに来た。
何をするでもなく、漫画を読んだりゴロゴロしたり雑談したりして過ごす。

 どうしようもないくらい、僕は幸せだった。

 多分相原は、僕のことを友人だと思っていてくれているのだと思う。
それを喜ぶべきなのかどうか、よく分からない。

 やっぱり自分は彼のことが好きなのだと、今では明確に自覚していた。
 僕は自分の気持ちを、隠し続ける自信がなかった。
相原本人に気付かれなくても、周囲の誰かが気付くかもしれない。
それが、恐ろしくてしょうがなかった。

 だからといって、折角相原と親しくなれたのに、この関係を断ち切ることもしたくなかった。
自分を追い詰めるだけだって、分かりきっているのに。