■きみが涙を流すなら 03■
自宅のマンションには、誰もいない。
一人暮らしなのだから、当たり前だ。
がらんとした部屋を見るのは、慣れっこのはずだった。
だけど今日は、ひっそりとした部屋が僕の孤独感を煽る。
僕はひとりだ、という実感が足元から這い上がってきて、先ほどまでの浮ついた気持ちを覆ってゆく。
寂しい。
ものすごく、寂しい。
出来れば認めたくなかったが、事実だった。
僕は今、この上なく寂しい。
わき目もふらず、寝台に潜り込む。
眠気は全く感じなかったが、何としてでも眠ってやる、と思った。
失恋ごときで、眠れぬ夜を過ごすなんて悔しすぎる。
……僕は今夜、夢を見るだろうか。
ベッドの中で眼を閉じながら、そんなことを思った。
見るとしたら、小林の夢だろうか。それとも、相原の夢だろうか。
出来れば、どちらも見たくない。それ以外だったら、どんな悪夢でも引き受けよう。
スプラッタだろうがホラーだろうが、何でもどんと来いだ。
そんなことを考えながら寝返りを打っていると、だんだんまぶたが重くなってきた。
よし、と内心ガッツポーズをした。
何だ、余裕じゃないか。失恋したって、眠れなくなるなんてことはない。
それ見たことか。失恋、おそるるに足らずだ。
満足して眠りについた僕は、小林の夢を見た。 最悪だ。
しかも、夢の中でもう一度ふられた。
場所もご丁寧にあのときのホテルで、セリフも何もかも忠実に再現してくれた。
「別れよう」と言われたときの体温が下がっていく感じなんか、うんざりするくらいリアルだった。
本当に、最悪だ。
何が悲しくて、同じ男に二度もふられないといけないんだ。
「グッバイダーリン……なんて言うたるかボケ! 死ね! 孤独死しろ! そんで大阪湾に沈め!」
控え目に言っても汚すぎる言葉を吐きながら、僕はホテルを飛び出した。
現実とは違い、相手を罵ることが出来て少しだけスッとした。
だけど、罵るだけじゃなく、殴ってやれば良かった。顔の形が変わるくらい、ボコボコに。
それくらいしても、バチは当たらないはずだ。
夢の中なのに、暑い。生ぬるくて粘ついた空気が、物凄く生々しい。
本当に、嫌になる。
深層心理も、こんなところでいい仕事をしてくれなくても良いのに。
相原。
これが今日の再現なら、相原が声をかけてくれるはずだ。
相原に会いたい、と思った。
あの笑顔に、癒されたい。あの声で、元気出せや、と励まされたい。
そう思ったとき、誰かに肩を叩かれた。僕は、ほっとした。相原。相原が、来てくれた。
僕は、振り向いた。そして、凍りついた。
そこにいたのは、相原じゃなかった。
「……小林」
声が震える。
ひどい、と思った。
今まで完璧に今日の出来事を再現していたのに、ここにきてこんなアレンジを加えるなんて反則だ。
深層心理は、僕に何か恨みでもあるのだろうか。
しかも今目の前に立っているのは、別れるときの、僕の顔を見ようともしなかった卑怯な彼じゃない。
まだ付き合っていたときの、僕のことを愛していると言ってくれていたときの、彼だった。
小林は、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべている。
ああそうそう、この笑顔に惚れたんだった。
やや我が強くて、嫉妬深くて子供っぽいところもあったけれど、優しくて嫌味がない、いい男だった。
色んな所に、一緒に行った。
旅行もした。
数え切れないくらい、セックスをした。好きだった。
僕は彼のことを、本当に愛していた。
ああああ。
……眼が覚めた。
心臓が、爆発しそうだった。手も震えてくる。何て夢だ。こんな恐ろしい夢、初めて見た。
汗を拭こうとして、眼から頬にかけてびっしょり濡れていることに気が付き、自分自身に失望した。
涙で枕を濡らすなんて、冗談じゃない。
自分がそんな女々しい人間だなんて、思いたくなかった。
「最悪や……」
呟く声が波打っていて、僕は更にどん底に陥った。
こんな夢を見たことも、それで傷ついていることも、どちらも僕を激しく落ち込ませた。
眼からまた、塩分が出て来た。勿体無いことこの上ない。
部屋の中は、既に明るくなっていた。
枕元に放り出してあった、携帯のディスプレイを覗き込む。七時半。いつも起きる時間だった。
今日は何曜日だったっけ。そうだ、月曜だ。
信じられないことに、今日から新しい週がスタートするらしい。僕は昨日の時点で、全てが終わっているというのに。
緩慢な動作で身体を起こした。死ぬほどだるい。
しかし、学校をさぼろうとは、全く思わなかった。家で一人でいるのは嫌だ。
それに学校に行けば、相原に会える。
そこまで考えて、僕は溜め息をついた。
「……別れた男を忘れたいからって、相原に惚れたふりすんのは、やめろや」
ぽろっと、そんな言葉が出て来た。
何も考えずに言ったことだったが、ああそうかそういうことか、と妙に納得した。
だって本当に相原に恋したのなら、小林の夢なんか見るはずがない。
あまつさえ、その夢に打ちのめされたりするはずがない。
小林のことを卑怯だ卑怯だと言いながら、僕だって充分に卑怯だ。
相原にしてみたら、迷惑以外の何ものでない。
自分の失恋の後始末のために、善良な相原を巻き込むなんて最低だ。
ああもう、さっさとこの失恋を克服しよう。相原に迷惑をかけないように、迅速に。
僕は心に誓いながら、壁にかけてあった学ランを手に取った。
僕が通っている高校は、急な坂道の中腹にある。
遅刻しそうなときや、体調が悪いとき、そして心の調子が思わしくないときは、非常に忌々しく思える立地である。
のろのろと足を運ぶ僕を、何人もの男女が追い越して行く。
多分彼らにだって悩みや心配事くらいあるのだろうけれど、今の僕には憎らしい程幸せそうに見える。
死にそうな思いで学校にたどり着き、教室の戸を開けた。
相原の姿は見えない。すぐさま、帰りたくなった。
何で自分はこんなところにいるんだろう、という気すらしてくる。
駄目だ。完全に、心に栄養が足りていない。
やっぱり来るべきじゃなかった……と心中で呟きながら、重い足取りで教室の中に入った。
クラスメイトたちと適当に挨拶を交わして、席につく。
暗い気持ちに呑み込まれそうになりながら、机に肘をついてボーッとすること約十分。
ひょっと、相原が教室の中に入って来た。その瞬間、僕の心に花が咲いた。
ああ良かった。学校に来て、本当に良かった。
自分でも呆れてしまうくらい、百八十度気分が変わった。
先ほどまで、自分がどんな気分だったか既に思い出せない。
僕はさりげなく、相原の動きを目で追った。露骨にならないように、細心の注意を払う。
相原は教室を横切りながら、彼の友人たちと挨拶を交わす。
あ、笑った。いい笑顔だった。
見ているだけで、幸せな気持ちになれる。
そのとき、相原と目が合った。心臓が大きくバウンドする。
「おっはよー」
彼は僕の席まで来て、にこやかに挨拶してくれた。僕も、自然と笑顔になる。
「おはようー。昨日はどうも」
後半部分は小声で言って、小さく会釈した。
すると相原も小声になって、 「大丈夫?」 と、僕を気遣ってくれた。
「おう。失恋とは、己との戦いであることを知ったわ」
親指を立ててみせた。相原が笑う。
僕の言ったことで笑ったんだと思うと、ガッツポーズでもしたくなる。
「お前、言うことがいちいちかっこいいなあ……! そんなキャラやったとは知らんかったわ」
新しい発見の連続やわ、と相原は何度も頷いた。
僕は普段、学校ではあまり喋らない。
人と話すのは大好きだけど、なるべくおとなしくしている。とにかく、ボロを出すのが怖いからだ。
だけど相原の前では、口が勝手に動いてしまう。多分、浮かれているのだと思う。
しゃべり過ぎは危険だと分かっているが、自分を止めることが出来ない。
「相原、昨日は遅くまでほんまありがとうな。おかんに怒られたりせんかった?」
「全然。うち放任やから。吉川は?」
「おれは一人暮らしやから、その辺は全然」
「えっマジで!」
「うん、両親は去年から転勤で九州に……」
僕は、そこで言葉を切った。
相原の目が、妙に輝いていたからだ。
「……どうしたん、相原」
「え、だってむっちゃかっこいいやん、一人暮らしなんて」
「そ、そうか?」
確かに、高校生で一人暮らしは珍しいかもしれないけれど、そこまで言わなくても。
くすぐったいような恥ずかしいな、妙な気持ちになってしまう。
「なあなあ、お前ん家行ってもいい?」
「え、え?」
相原の言葉に、僕は舌をもつれさせた。
「一人暮らしの家、むっちゃ見たい!」
なあ、行ってもいい? と相原は笑顔で繰り返した。
「う、うん。ええよ」
あの笑顔を見たら、そうとしか答えられない。
「今日でもいいか?」
「うん」
勢いで言ってしまってから、えっ今日? と思い直した。
しかし相原は大喜びで、
「おっしゃ、ほんなら、今日な!」
と、自分の席に戻ってしまった。
その背中が遠くなるごとに、僕の心音は大きくなった。
え、何だこの急展開。いいのか。大丈夫なのか。
いや、大丈夫もなにも、彼は純粋に好奇心で一人暮らしの部屋を覗きに来るだけだ。
何をみっともなく興奮しているんだ。
そう思うが、鼓動はずっと駆け足のままだった。
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