■キリン耳とネコ耳の話 23■


 体の下から、僕を助けてくれた誰かが這い出してきた。
僕自身は、まだ起き上がれない。

「び、びっくりしたあ……!」

 誰か、はメガネだった。
髪の毛はくしゃくしゃで眼鏡はズレ、なんとも間抜けな風体だ。しかし僕は、笑う気にはなれなかった。

 メガネが引っ張ってくれなかったら、間違いなく死んでいた。
 僕は汗でびしょびしょになった額を拭いながら、なんとか起き上がった。
身体が震えている。

「ベリショくん……! だ、大丈夫っ?」

 水無月が、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
その向こうに、桜崎が蒼白な顔でへたり込んでいるのが見える。
 浅葱だけが、「正にドラマだねー」などと笑いながら、パンを頬張っていた。

「お、おう。大丈夫みたい」

 肩や背中が微妙に痛いが、そんな深刻な痛みでもなさそうなので大丈夫だろう。
桜崎に蹴られた腹が、一番痛い。

「よ、良かったあ……」
 水無月も、その場に座り込んでしまった。

 周囲の青ざめた顔を見ていると、だんだん落ち着いてきた。
凍り付いてしまっている桜崎に向かって、

「桜崎、おれは無傷だからな」

 と言って手を振る余裕も出て来た。

「いやあメガネ、お前のお陰で助かっ」

 そこまで言って、僕は言葉を詰まらせた。

 なんと、メガネが泣いている。
彼が泣いているところを、僕は初めて見た。
メガネは顔を歪めて、大量の涙を流していた。いつものポーカーフェイスは、何処にも見当たらない。

「お前、何やってんだよ……!」

 メガネの声は波打っている。そんな声も、初めて聞いた。

「い、いや、香炉を……」
「アホ!」
「いでっ!」

 拳骨で、思い切り頭を殴られた。
目の前が一瞬チカチカするくらい、痛かった。

「ああ、マジでびっくりした……」

 メガネは僕の手を握ってきた。
僕の身体の震えは収まっていたが、別の意味で震え出してきた。

「ベリショが生きてて良かった……」

 本当にほっとしたように、メガネは息を吐き出した。
そんな彼の表情を見ていたら、胸の奥がむずむずしてきた。

「メガネ……!」

 メガネの手を握り返しながら、僕は、死ななくて良かったと心の底から思った。

「何だ、やっぱり二人はラブラブなんだねえ」

 浅葱の笑い声が聞こえたが、外野の音はどうでも良い。
僕は完全に、メガネとの二人の世界に入り込みつつあった。

「……そういえば、ベリショ。香炉は?」

 メガネはまだ涙で濡れている眼を、ぱちぱちと瞬かせた。

「あれ?」
 
僕は自分の手を見た。メガネの手を握っているので、両手は塞がってしまっている。
辺りを見回してみるが、香炉は見当たらない。

「……おれ、掴まなかったっけ?」

 香炉が手に触れた瞬間までは覚えているが、それ以降はいまいち思い出せない。

 その瞬間、ドオンという重い音が響き、窓の外に桃色の、光の柱が立った。

「な……!」

 僕とメガネは、反射的に身を寄せ合った。何だ、何が起こったんだ。

「窓を閉めてください! 早く!」

 ピコカンが、切羽詰ったような声を張り上げた。僕は咄嗟に身体が動かない。
素早く浅葱が動き、窓を閉めた。

「何なに? 何ごと?」

 どう考えてもただ事ではない状況なのに、浅葱の声はウキウキしている。

 妖精は頭を抱え、うううおおおと呻きながら、床を転がり出した。

「うわああっ、なんてこった! 割れた! 割れてやんの! あああっやってらんねええっ」

 ピコカンが、悲鳴のような声で叫ぶ。
僕が掴み損ねた香炉は、やはり割れてしまったらしい。

「じゃあ、さっきのピンクの光は……」

 水無月が不安そうに尋ねた。

「BL香が、一気に噴出したのです……」

 ピコカンの口から、弱々しい声が漏れ出した。
彼はまだ、床から起き上がれないでいる。

「そうなったらどうなるの? カップルがいっぱい出来るのかな」

 浅葱は楽しそうだが、ピコカンの嘆きようを見ると、そんなことで済むとは思えない。
もっと大変なことが起きるような……、不吉な予感がする。

「ほんっとうの本当に、ギャグもBLも萌えも一切抜きの、一大事です」

 ピコカンがゆっくり起き上がった。
一気に老けたような気がする。

 そのときだった。

「うわあああっ!」

 窓の外から、野太い悲鳴が聞こえてきた。
何事かと窓へ向かおうとしたら、

「窓を開けちゃ駄目ですよ!」

 と、妖精の厳しい声が飛んできた。

「今、外は高濃度のBL香が充満しています。吸ってしまったら、大変なことになりますよ」

 今まさに窓を開けようとしていた僕は、慌てて手を引っ込めた。
 仕方がないので、窓に張り付くようにして下を見る。
他の連中もわらわらと寄って来て、窓枠はぎゅうぎゅうになってしまった。

「……うわあ、ダブルだよ」

 窓から下を見た途端、僕はげんなりしてしまった。
下では、地面に寝転がってまぐわっているカップルが、二組も見えた。

「いや、トリプルじゃね?」

 メガネがそう言って、指先で窓をコツコツと叩く。眼を凝らすと確かに、木の陰にもう一組いた。
 今まで僕が遭遇した濡れ場は、まがりなりにも室内に隠れて行われていたのに、青空の下でこんなにも堂々とおっ始めるとは……。
これが、高濃度BL香の影響なのだろうか。恐ろしい。
窓を開けなくて良かった。

「あ、カルテットみたいだよ」

 今度は浅葱が窓を叩いた。
僕は四組目のカップルを探しかけて、すぐにやめた。濡れ場はもうお腹いっぱいだ。

「感情が暴走して、理性がきかなくなってるんです……。
ああ、えらいことに……とりあえずエロが入れば萌えというわけでもないというのに……!」

 ピコカンは床に仰臥し、暗い声でブツブツ呟いている。

「流石に、ここまで風紀が乱れちゃうのは困るなあ」

 生徒会長は軽く眉を寄せ、後ろ頭を掻いた。
彼が生徒会長らしいことを言うところを、初めて見たような気がする。

「おっ、ベリショ見て見て。あそこで喧嘩してるぜ」

 メガネが指さす方向を見ると、小柄な少年が長身の少年に馬乗りになり、殴りつけていた。
その側では、数人が掴み合いをしているのも見えた。なかなか壮絶な光景だ。

「と、止めないと……!」
「でも、外に出たらメイもあんな風になっちゃうよ」

  走り出そうとした水無月だったが、浅葱の言葉にすぐ足を止めた。
 いまや窓の外は、アオカンと乱闘で溢れ返っていた。地獄絵図、という言葉が脳内をよぎる。

「つうか、アオカンはまだ理解できるけど、何でこんなに乱闘が起きてんだ?」

 そう言いながら、僕は外の惨状から眼をそらした。

「BL香で感情が暴走してるってことは……、可愛さ余って憎さ百倍、ってやつ?」

 メガネがピコカンに尋ねると、妖精はうなだれた。

「その通りです……」

 この事態を、彼はどうやって収束させる気だろう。
初めて、ピコカンが少し気の毒になった。

「す……みません……。僕のせいで……」

 桜崎が、掠れた声で言った。口調がすっかり弱々しくなってしまっている。

「……いいえ、過ぎたことは仕方ありません。
あなたには、同情すべき点もありますし。発作的に、ああいう行動に出ようとする気持ちも、分からなくもありません」

 ピコカンは、首を横に振った。
桜崎を責めないとは、意外と男らしい奴だ。清々しさすら感じる。
僕は少し、この妖精のことを見直した。

「……それに何より、ベリショさんの止め方がどんくさかったことが、原因な気もしますし。あそこでベリショさんが、ちゃんと止めていれば……」

 おれのせいかよ。
 過ぎたことは仕方ないんじゃなかったのか。前言撤回だ。
なんて、男らしくない奴だろう。

「ねえねえ、可愛さ余って憎さ百倍ならさあ、普段モテモテの僕やメイはどうなっちゃうの? やっぱ狙われたりする?」

 浅葱はパンの空き袋を、手の中で丸めた。
 自らのことを堂々と「モテモテ」などと形容しても、彼が言うと嫌味な感じがしないのが不思議だ。

「……ええ。正直な話、浅葱さんと水無月さんは大変危険です。ですので、早急に手を打たないと……」
「わあ。僕たち危険だって、メイ」

 呑気な浅葱の言葉が終わらない内に、生徒会室の外から、複数の足音と怒声が聞こえてきた。
大勢の声が入り乱れて、何を言っているかよく聞き取れないが、端々に「姫」や「王子」といった単語が混じっているのが分かった。
声は、まっすぐこちらに向かってきている。

「お、おい……! 何か来てるぞ!」
「うーん、どうしようか。一応、入り口の鍵はかけてあるんだけど」

 浅葱は袋を持っていない方の手を、腰に当てた。
 足音は生徒会室の前で止まり、扉の鍵がかかっていると知ると、乱暴に扉を叩き始めた。
正確な数は分からないが、十人以上はいるようだった。

 怒鳴り声と扉を叩く音に、水無月は身体をすくませた。顔がまた、青ざめてきている。

「こっちは五人いるんだし、応戦できないかな」

 メガネは室内を見回し、武器になるものも沢山あるよ、と付け加えた。

「それしかないかなあ」

 浅葱は指を鳴らし、肩を回した。やる気満々のようだ。

「姫は、奥の部屋に隠れていて下さい」

 桜崎が拳を持ち上げる。彼もやる気だ。
彼は、仮眠室の扉を素足で突破した実績があるので、頼もしく見える。

 僕は生唾を飲み込んだ。
僕だって男だ。
殴り合いの喧嘩くらい、たしなみ程度の心得はある。
 ……しかし、女性の夢が詰まったこの世界の住人(しかも、暴徒化してるときた)とやりあって、一般人の僕に勝てる見込みはあるのだろうか。

「……いいえ、僕に任せてください」

 ピコカンが、何かを決心したように顔を上げた。


「りーまんきょうだいおさななじみ、せいとかいやくざたじゅうじんかく〜」


 妖精は訳の分からない呪文を唱えながら、何処からともなく取り出したステッキを、狂ったように振り出した。

 するとステッキ上部のモニュメントから、光の粒が溢れ出した。
光は一箇所に集まり、人間の掌に乗るくらいの大きさの、小箱になった。
箱には、赤いボタンがひとつ付いている。何だか、ただならぬ気配がする。

「出来れば、これを使いたくはなかったんですが…」

 苦渋の表情で、ピコカンは箱を抱えあげた。

「ま、まさか爆発ボタンとか言わないよな」

 僕は恐る恐る尋ねた。
赤いボタンを押したら建物が崩壊する。万国共通のお約束だ。