■キリン耳とネコ耳の話 24■


「は? いくらBL世界でも、そんなゲーム的なことばっかり起きたりしませんよ」

 ピコカンは馬鹿にしたような表情で、僕の不安を一笑に付した。無性に悔しい。
これだけフィクション要素満載な世界にいるのだから、ゲーム的な思考に走ってしまうのは無理もない話じゃないか。

「……じゃあ、それは何なんだよ」
「リセットボタンです」
「おい! 充分にゲーム的じゃねえかよ!」
「BL香炉が割れてしまったことで、このままだとこの世界はムチャクチャになってしまいます。ですので一旦、この世界をリセット……すなわち白紙に戻し、もう一度最初から作り直さなければ……。
うう、今度は何日徹夜すればいいのか……」

 ピコカンは、重苦しい息を吐いた。
 半ば予想はしていたが、僕のツッコミは完全にスルーされた。

「リセットボタンって……どういうこと?」

 浅葱は、袋から取り出したアンパンを食べ始めた。どれだけ食ったら、こいつは満足するのだろう。

「あまり気にしないで下さい。あなた方やこの学校には、何の害もありません」

 どう聞いても説明不足なピコカンのその言葉に、浅葱は、

「ふうん、害がないならいいや」

 と笑った。そこはもっとツッコめよ、と思うが、彼にそれを求めるのは無理な話だろう。

「浅葱さんたちには害はありませんが、ベリショさんたちが……いえ、何でもないです」

「ベリショさんたちが、何だよ!」
 ピコカンの言葉に、僕はすぐさま反応した。

「外部の人間がいる状態で、リセットボタンを使ったことがないんですよね。
ですから、ベリショさんたちの身がどうなるか分かんないなーっていう、ただそれだけの話ですよ」
「それの何処が『ただそれだけ』なんだよ! リセットする前に、おれたちを帰せばいいだけじゃないのか」
「そんな時間はありません」

 生徒会室の扉は、相変わらず外側から激しくと叩かれている。
怒声も絶えず聞こえていて、危険な空気が押し寄せてくる。
少し前までは、美形だらけの平和な学校だったのに、どいつもこいつもキャラが変わり過ぎだ。

 暴徒化した生徒たちの叫びに紛れて、

「記事にしきれない位、ネタの宝庫だな、白!」
「感動してないで、取材しなきゃ、紅」

 という、幸せそうな声も聞こえた。紅白兄弟は、どんなときもキャラが変わらないらしい。

「姫、危険ですから、早く仮眠室に隠れて下さい……!」
「で、でも……ベリショくんたちが……」

 桜崎に促された水無月は、混乱した様子で僕と桜崎を交互に見た。
そこに、浅葱が絡んでくる。

「雅、僕にも何か言ってよー」
「会長も、隠れるならさっさと隠れて下さい」
「雅ってば冷たい……! そんな子じゃなかったのにっ。メガネくん、今の聞いた?」
「会長さん、何かパンちょうだい。腹減っちゃった」
「メ、メガネくん、そんな呑気なことを言ってる場合じゃ……」
「あ、それじゃあメロンパン食べる?」
「会長、もうちょっと緊張感を持って下さい……!」

 外から聞こえる物騒な声と、一切まとまりのないこいつらの喋りが混ざって、段々頭が痛くなってきた。

「ああもう、訳分かんねえー!」

 頭をかきむしりながら叫んだ瞬間、近くでカチリという音が聞こえた。
まさかと思って顔を上げたら、笑顔の妖精と眼が合った。

「押しました」

 妖精の口からその言葉が出た直後、僕の背筋を物凄い速さで悪寒が駆け抜けて行った。
全身の毛穴が開いていくのが分かる。

「お、お、お前……!」

 予告も何もなしにことを進めるんじゃない、と言おうとしたが、急に激しい眩暈に襲われ、僕は膝をついた。

「ベリショくん!」

 水無月が悲鳴をあげる。
反射的にメガネは大丈夫かと思い、彼の方を見た。そして僕はぎょっとした。
メガネの様子がおかしい。
特に苦しんでいる様子などはないが、彼の身体が写りの悪いテレビ映像のように、揺れたりブレたりしているのだった。

「メ、メガネ! お前……身体にノイズが走ってるぞ!」

 あまりの驚きに、声が裏返る。すると友人は、こともなげにこう返してきた。

「ベリショこそ」

 僕は数回瞬きをし、それから慌てて自分の両手を見た。
確かに僕の手も、メガネと同じくあちこちにノイズが走っていた。眩暈が酷くなる。

「なっ何だこれっ! ピコカン! やっぱ大丈夫じゃねえじゃん!」

 ピコカンの姿を探そうと思ったら、今度は生徒会室全体にノイズが走った。
浅葱や水無月たちも、左右にぶれ始める。

「う、わ……!」

 眼をこすってみるが、やはりノイズは消えない。

「ベリショくん!」

 水無月が駆け寄ってきた。ほとんど泣きそうな表情だ。

「み、水無月……。お前にもノイズが……!」
「う、ううん。僕は何ともなってないよ」

 水無月の言葉に、僕は少なからずショックを受けた。
水無月たちがおかしくなったのではなくて、僕の眼がおかしくなってしまったのか!

「いやあ、やっぱりリセットボタンを押したら、異物は排除されるんですねえ。勉強になりました」

 何処からか聞こえる、屈託のないピコカンの声が憎くてしょうがない。

「排除って何だ、排除って……っ」

 ノイズだらけの視界に、気分が悪くなってきた。怒鳴りつけてやりたいのに、声に力が入らない。

「上手く行けば、元の世界に帰れるかもしれませんよ!」

 何処までも無責任なピコカンの言に、憎悪が募る。
上手く行かなかったら、どうなるんだよ!

「ベ、ベリショくんが消えちゃう!」

 水無月の眼から、透明な涙が溢れ出した。
視界はノイズだらけで、水無月の顔が段々不明瞭になっていく。
多分、僕自身の姿もどん見辛くなっているのだと思う。

 全身が震え始めた。
このまま、僕は死んでしまうのだろうか。

こんな所で、こんな。

  恐怖と混乱の極みに達していた僕は、ほとんど無意識に口を開いた。

「水無月ごめん! おれは、メガネが」

 とりあえずこれだけは言っておかなくては、と思ったのだが、自分でも何を口走っているのか分からない。

 僕の言葉が終わらない内に、水無月の顔が近付いてきて、僕の唇に柔らかいものが覆いかぶさってきた。
ひんやりとした感触にびっくりして、一瞬視界がクリアになった。

「……また、会えるよね?」

 そう言った水無月の顔が、はっきり見える。
もう泣いていなかった。笑っているような、泣くのを堪えているような、微妙な表情をしている。

 僕はその水無月の表情を、純粋に可愛いと思った。

「……うん」

 僕は思わず頷いていた。途端に視界のノイズが復活し、激しい耳鳴りがし出した。
 駄目だ。これは駄目だ。
視界が、様々な色で塗りつぶされていく。

畜生、ピコカン! 覚えてろよ!

 憎悪を込めて心の中で叫んだ瞬間、僕の視界は真っ黒になった。








 ……僕は眼を開いた。

 灰色の床と自分の手が、眼に入った。
視界ははっきりしている。ノイズも耳鳴りも、完全に消えていた。

  僕は心臓に手を当ててみた。やや早い鼓動が、掌に伝わってくる。
心臓は動いている。と、いうことは……。

「生きてる……!」

 これほどまでに歓喜に満ちた自分の声を、僕は初めて聞いた。
生きてて良かったという言葉は、今こそ使うべきだろう、と思った。

 次に、僕はメガネを探そうとしたが、探すまでもなくすぐ側にメガネは寝転がっていた。
ほっとした。
思わず、彼の心臓に耳を当てる。
大丈夫だ、ちゃんと生きている。

「そうだ、ここは……」

 僕は顔を上げた。
床はタイル地で、白い洗面台が三つ並んでいるのが見える。
右端の洗面台の鏡は端が少し割れていて、真ん中の洗面台の横っ腹には「スタンドバイミー」というラクガキがしてある。

 指先が震えた。見覚えがある風景だった。

「学校のトイレ、だ!」

 自分の声にしびれた。思わず両手を、勢い良く突き上げる。

 ここは、僕とメガネが通っている学校だ!
 偏差値は中の中で、可愛い女子が多い、至って普通の公立高校だ!

「メガネ起きろ! 帰って来られたぞ!」

 メガネの身体を、思い切り揺さぶる。
しかし彼は、ううだのおおだの呻いて、なかなか起きない。

「起きろ!」

 五割くらいの力で、メガネの頬をビンタした。
パアンという、小気味のいい音がする。

「……おお、ベリショじゃん」
 やっと起きた。こういうときくらい、サッと目覚めて欲しいものだ。

「メガネ、見ろよ! おれたち、帰って来れたんだぜ!」

 僕は両手を広げた。
メガネは首をぐるりと回し、周囲を確認した。
そして視線を戻し、しばし僕の顔を見詰めた後、

「ベリショ!」

 と、抱きついてきた。

「メガネ!」

 僕も、メガネの背中に腕を回した。
感動だ。正に感動の瞬間だ。
健闘を称える抱擁に浸っていると、急に視界が反転した。

「おあっ?」

 僕の口から、素っ頓狂な声が飛び出した。
メガネの肩越しに、天井が見える。気がつけば、メガネに押し倒されるような格好になっていた。
何だこれはと思っていると、メガネの顔が迫ってきた。

 ここでようやく身の危険を察知した僕は、

「ギャアアア!!」

 と、全力で叫びを上げた。
あまりのことに、ロクな抵抗も出来ない僕の頭を押さえつけ、メガネは僕の唇に自分の唇を押し付けてきた。

「……っっ!」

 しかもあろうことか、メガネのぬめった舌が口の中に入ってきて、僕はそのまま死んでしまうかと思った。
 死ぬ! 死ぬ!
 心の中で叫びながら、僕はひたすらメガネの背中をタップした。

 永遠とも思える長い時間が経過し、(恐らく実際には、せいぜい数十秒のことだったのだろうけれど)メガネは僕から顔を離した。

「はあ……はあ、はあ……っ」

 みっともないくらいに、息が上がってしまっていた。顔が熱くてしょうがない。

「お、お前……! な、何すんだよ!」
「いやー。ほら、さっきメイちゃんがベリショにチューしてたじゃん?
メイちゃんのライバルとしては、やっぱり対抗しとかないと。先を越されたのが悔しいけど」

 にっこり笑って、とんでもないことを言いやがった。

「ア、アホかお前は! 舌まで入れやがって! 水無月以上のことしてんじゃねえよ!」
「おお、メイちゃんはベロは入れてなかったんだ。そんじゃ、そこはおれが先を越したわけね」

 オーケーオーケーと何度も頷き、メガネは嬉しそうに親指を立てた。
その手を、僕は即座に平手ではらいのける。

「正気に返れよ! 元の世界に戻ってきたんだってば。BL香炉も何もない、ノーマルな世界なんだよ!」

 半ば自分にも言い聞かせるように、僕は早口で言った。
顔の温度がやばい。心音の速度もやばい。
ここは普通の世界だ。普通の世界なんだ!

「え、そうなの?」

 メガネは立ち上がり、トイレの出入り口まで走り、顔を外に出した。
「おおーほんとだ、マジで帰って来てるよ、ベリショ!」
 メガネは声を弾ませ、またトイレの中に戻って来た。

「しかもベリショ、何か物足りないと思ったら、キリン耳がなくなってるよ」
「えっ。マ、マジで!」

 頭上に手をかざしてみると、すかっと空を切った。今までは、キリンのツノに手がぶつかっていたのに。
 急いで立ち上がり、洗面台の鏡を覗き込む。
確かに、頭から生えていた二対の黄色い異物が消えている。

「やった……ああ!」

 僕は、自分の頭を何度も触ってみた。
間違いなく、そこには自分の髪の毛しかない。

 やっと、やっとキリン耳がアイデンティティだった日々(一日だけだけど)にサヨナラできるのだ。
こんなに嬉しいことはない。

「おれのネコ耳もなくなってら」

 メガネは僕の隣に立った。
友人の頭からも、茶色いネコ耳は姿を消していた。ネコ耳に見慣れてしまっていたので、なんとなく違和感がある。

「今、何時なんだろ」
 メガネはそう言って、トイレの出入り口に近付いた。

 僕はもう一度、鏡を見た。
先程メガネに蹂躪された口の周りが、唾液でべちゃべちゃになっていた。
手の甲でそれを拭っていると、物凄くきまりが悪くなった。

「……つうか、押し倒す意味は何処にあるんだ……。しかもよりにもよって、便所で押し倒しやがって。汚ないっての……」

 自分にしか聞こえないような小声で言ったつもりだったが、メガネの耳にも届いていたらしい。
メガネはにこっと笑って、こちらを見た。

「じゃあ次は、清潔な床に押し倒すよ」

 ……ここはノーマルな世界なのに、もうBL香炉なんてないのに、このときのメガネの笑顔にキュンとしてしまったなんて、嘘だうそだウソだ気のせいだ!





エピローグ



ベリショさんとメガネさんへ

  こんにちは、お元気ですか?
 僕はとってもとっても、ええもう狂おしいくらいに寝不足です。

 あれから僕は、漏れてしまったBL香の原液を処理し、香を吸ってしまった生徒たちを正気に戻すための作業を、
それはそれは苦労しながらやり遂げました。
四日徹夜という、過酷な仕事でした。

 雅さんが香炉を窓から投げ捨てようとしたあのとき、ベリショさんがきちんと阻止していれば……
むしろ、中途半端にベリショさんが手を出したから、下に落ちたんじゃ……なんてことは、ひとかけらも思っていません。
思っていませんが、これは貸しにしておこうと思います。

 ですから、また何か困ったことがあったら、手を貸して下さいね。
生徒会の皆さんも、ベリショさんたちに会いたがってますし。

愛を運ぶ妖精、ピコカンより。

追伸
その後、お二人の仲はどうなりましたか?
どちらが攻ですか? 今度是非教えてください。



 ……僕は、手の中でその手紙を握りつぶした。

「何て書いてあった?」
 向かい座っているメガネが、ビーフシチューパンにかぶりつきながら、尋ねてきた。

 昼休みの教室だった。
女子の甲高い声と、男子の野太い笑い声が交錯する、いつもの昼休みだ。

「意味不明だった」

 いつの間にか弁当箱の中に入っていた紙切れを、僕は机の上に投げ出した。
メガネはそれを手に取り、きれいに広げてから読み始めた。

 無茶苦茶すぎて、怒る気にもなれない手紙だった。
あのクソ妖精は、どうあっても香炉が割れたのは僕のせいだと言いたいらしい。
しかしどう考えても、香炉を持ち出して僕たちを巻き込もうとした、ピコカン自身が一番悪い。いわゆるひとつの、自業自得だ。

「えー、いいじゃん。おれも、メイちゃんや会長さんや雅ちゃんに会いたいよ」

 メガネはパンを頬張りながら、そう言った。
 
 こっちの世界に帰って来てから、二週間が経っていた。
 桁外れの美形もいなければ、校内で濡れ場に遭遇することもない平和な世界で、僕たちは以前と同じ、爽やかかつ健全な友情を育んでいた。

 ……と、言い切ることが出来ないのが恐ろしい。

 ほんの短い間とはいえ、お互いを変な風に意識してしまった以上、それらをすっぱりさっぱり忘れて何事もなかったように付き合うなど、不可能に近いと思う。
 とはいえ、一応今までどおりの友だち付き合いを続けている。

 ただ、たまに、本当にたまに、メガネにキュンと……いやいや、なんというか……そう、違和感を覚えるだけで。

「ベリショは?」
「何が」
「メイちゃんに会いたいんでない?」

 口に入れたばかりの玉子焼きを、危うく喉に詰まらせるところだった。

「あ、やっぱりそうなの? あらやだ、ジェラシー」

 玉子焼きのかけらが器官に入り、僕は盛大に咳き込んだ。
 こいつはこういう風に、冗談とも本気ともつかない口調で、しばしばそういう不穏なことを言う。
その度に僕は無駄に動揺して、テンパってしまうのだった。

「お前な……!」

 顔を上げてメガネの顔を見た途端、彼の頭から勢い良く、一対のネコ耳が生えた…というか、飛び出した。

 僕は、持っていた箸を取り落とした。

「あ、ベリショ。お前……」

 メガネはネコ耳をひくひくさせながら、僕の頭付近を指差した。
気が付けば僕は、両手を頭に乗せていた。

 柔らかな毛に覆われたツノが、僕の手に当たった。



おしまい

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最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました!
2007.5.18 きりんこ