■キリン耳とネコ耳の話 18■
「メガネ、そいつが持ってるデジカメ、それを取り上げろ!」
「オッケー!」
メガネは素早く身体を起こすと、紅の手からデジカメを奪った。
「あっ、この野郎、返せよ!」
「ベリショ、パース!」
紅につかみかかられ、体勢を崩したメガネは、僕に向かってデジカメを投げてきた。
デジカメは大きく弧を描いたが、到底僕のいる場所まで到達しそうにない。
「おいおいおい!」
僕はダッシュし、すべり込みながらどうにかデジカメをキャッチした。
危ないところだった。こんな高価なもの、壊しでもしたら弁償出来ない。
「精密機械を投げるなんて、どんな了見して……」
「おれはあいつを適当に撒くから、生徒会室前に集合な」
いつの間にか、紅を振り切って僕のすぐ側まで来ていたメガネは、そう囁くと僕の手からデジカメを掠め取った。
そして僕が返事をする前に、風のように走って行ってしまった。
何だか、非常に楽しそうだった。
「カメラは……!」
紅が駆けて来る。
僕は両手をひらひらさせて、自分は持っていないことをアピールした。
紅は舌打ちをして、
「ネコ耳の方か…!」
と吐き捨てた。
「カメラは後で返すよ。写真なんかなくたって、どうせ好き勝手書くんだろ?」
メガネを追って走り出そうとする紅の背中に声をかけると、思い切り睨まれた。
「うるさいな、白が撮った写真なんだ。取り戻さないと……殺される」
どうやら、外からでは分からないが、彼らなりに力関係があるらしい。
僕は、紅の背中を見送った。
メガネのことだ、宣言どおり紅を振り切り、生徒会室前に現れることだろう。
僕は生徒会室に向かう前に、先ほどの空き教室に寄ってみた。
水無月と白を放ってきてしまったので、少し心配になったのだ。
すると丁度、教室の中から水無月が出てくるところだった。眼が合った瞬間、心臓が跳ねた。
「あ……、ベリショくん」
水無月は、瞬く間に頬を紅潮させた。
「え、ええと……白、は?」
彼の顔を見た瞬間に動揺してしまって、滑らかに話すことが出来ない。
一体、どんな顔をすればいいのだ。
「白くんなら、ベリショくんが出て行ってからすぐ、何処かに行っちゃったよ」
どうやら、白に絡まれたりはしなかったらしい。僕は少しほっとした。
「ベリショくん……、写真は……」
水無月は、言いにくそうに切り出した。
「あのデジカメ、今はメガネが持ってるんだ。今、紅を撒いてもらってるとこ。
そうだ、おれ、メガネと生徒会室前で待ち合わせしてたんだっけ……」
あははと笑いながら、僕は身体の向きを変えた。
このまま、勢いで退出してしまおう。
そう思って大きく一歩を踏み出した瞬間、
「……ベリショくん」
と、呼び止められた。
「な、何?」
ぎこちなく振り返ると、水無月は視線を左右にさまよわせた。
「あ……あの……僕も一緒に行っていい、かな?」
「えっ」
何で?
と思わず聞いてしまいそうになった。
が、僕が最後まで言わない内に、焦ったような水無月の声がかぶさってきた。
「いや、そのっ学園祭のことでちょっと用事があって、ぼ、僕も一応生徒会だし」
せわしなく瞬きをしながら、水無月は一息に言い切った。
僕の本能は、
「これ以上彼と一緒にいたら、何かマズイことが起きる」
と告げていたのだが、テンパッた僕の口から出てきた言葉は、
「お、おう。じゃあ、一緒に……」
だった。
不甲斐ないにも程がある。しかしここで、ノーと言える猛者はそうそういないと思う。
そんなわけで、僕たちは並んで歩き出した。僕は頑なに、前のみを凝視して廊下を進んだ。
少しでも水無月の方に視線をやってしまうと、自分がどうにかなってしまいそうで恐ろしかったのである。
廊下は無人で、僕たちの影が長く伸びているのみだった。水無月も僕もお互いに、何もしゃべらない。
沈黙が重い。重すぎる。
「……何でこんなに、人がいないんだろう。皆、宝探ししてるんだよな?」
僕は頑張って明るい声を出し、沈黙を打ち破った。
しかし顔の向きは、相変わらず前で固定している。
「もう時間も遅いし、帰った生徒も結構いるのかも。青磁がいい加減な人間だって、大抵の生徒は知ってるだろうし」
「……浅葱の奴、よく王子になれたな」
僕はそう口に出した流れで、思わず水無月の方を見てしまった。
なんということだ。普通の会話だと思って、油断してしまった。
迂闊な僕の視界に飛び込んできた水無月は、こちらを向いて微笑んでいた。
「ほんとにね。だけど皆、青磁のことが大好きなんだよ」
夕日の光の中で見る水無月の笑顔は、日中の十倍くらいの破壊力を伴っていた。
僕は、彼の輝く笑顔を見てしまったことを、どうしようもないほど後悔した。
「……そ、そうか。確かにあいつ、憎めないもんな、うんっ」
僕は早口でそう言うと、急いで前に向き直った。
もう絶対、何があっても水無月の方は見ない、と誓った。
「……あの」
しばらくして、今度は水無月が口を開いた。
僕は、横は見ない横は見ない、と心の中でお経のように唱えながら、「ん?」と短く返事をした。
「さっきは……ごめんね、いきなりあんな……」
その話題に触れられると、非常に困る。
それどころか、顔を覆ってこの場から走り出したくなる。
「いや……」
僕の口からは、そんな相槌しか出て来ない。
我ながら、冴えない男だと思う。水無月は一体、こんな野郎の何処がいいんだ。
「あの、返事……」
遠慮がちな声が、隣から聞こえてきた。
返事の二文字に、僕の心臓が更に高く跳ねる。試練だ。試練の時が遂にやって来た。
どうする。どうする。どうすればいい。
「返事は、すぐじゃなくていいから……」
「う、うん」
予想外の水無月の言葉に、僕は救われたような気分になった。
猶予期間が与えられるのは、非常に有難い。
「……でも、転校しちゃう前に、ちょうだいね」
「う、うん……」
残念ながら、猶予期間は思ったより短いらしい。
返事。返事か。どうしよう……。
いや、どうしよう、なんて悩むのがおかしい。
だって、返事はノーしかありえない。断るだけなら、今すぐだって出来るはずだ。
僕は唐突に我に返った。
何と言っても、相手は男だ。返事に悩む方がおかしい。
当然、断ることで更に気まずくなるだろうが、返事を先延ばしにする方が水無月に失礼だ。
そうだ、そうだよ。
僕は一体、今まで何を懊悩していたのだろう。
よし、断ろう。サクッと、かつ嫌味のないように!
「水無月」
僕は決心し、水無月を呼んだ。
「うん、何?」
水無月と眼が合う。
軽く小首を傾げて僕を見上げるその仕草に、一旦は落ち着いた心臓が、再度高鳴った。
その後も、心音は激しいビートを刻み続ける。
そしてその瞬間僕は、彼に言うべき断り文句を、瞬時に全て忘れ去ってしまった。
男なのに、こんなに可愛いのは反則だ……!
「い、いや……。ごめん、なんでもない」
このバカ!
根性なし!
ヘタレ!
キリン耳!
僕は心の中で、思いつく限りの罵詈雑言を自分自身に向かって叫んだ。
このチキンっぷりはどうしたことだ。先ほどまでの威勢は、一体何処に行ってしまったのだろう。
僕の心臓は、今もドグドグ言っている。心臓が、心臓がおかしい。
本当に、何処か異常があるんじゃないだろうか。
……そんなことをしている内に、生徒会室の前に着いた。
メガネが先に来て待っていてくれないかな……と願っていたのだが、彼の姿は見えなかった。なんて使えない奴だ。
生徒会室の扉には、
「如何なる理由があろうとも、関係者以外立ち入り禁止」
と、きっちりとした楷書で書かれた紙が貼ってあった。
桜崎が書いたに違いない。筆跡も文面も、いかにも彼らしい。
恐らく、香炉を探す生徒たちが、ここに殺到したのだろう。
「水無月、おれはここでメガネを待っとくけど、お前は中で用事があるんだろ?」
相変わらず前方のみを凝視してそう言ったが、返事が返って来ない。
「水無月?」
後ろを振り返ると、水無月は両手で自分の頬を押さえ、うつむいていた。
「お、おい。どうしたんだよ」
一瞬泣いてるのかと思って焦ったが、どうもそういう訳ではないらしい。
「わ、分かんない……けど、何か……っ」
水無月の声は、掠れていた。
一体、何が起こったのだ。
「だ、大丈夫か?」
僕は、水無月の肩に手を置いた。すると、細い肩がびくりと震える。
「ベリショくん……!」
弾かれたように、水無月が顔を上げた。僕は驚いて、肩から手を離した。
水無月の眼は潤んでいて、勘弁してくれ、と言いたくなるくらい悩ましげだった。
彼の白くて細い手が、僕の学ランの襟元に伸びてきた。
冷たい指が一瞬僕の首を撫で、背筋がゾクッとした。
何を思ったのか、彼は僕の学ランの第一ボタンを外した。
「み、み、水無月さんっ?」
声がひっくり返る。
えっ、何だこれ。何だこれ。
何してんの、この人!
「ベリ、ショくん……。僕にも、よく分かんない……っ」
吐息交じりの水無月の声が、僕の耳の中に絡み付いてくる。
妙なゾクゾク感が、再び背中を駆け上がっていった。
そしてそうしている間にも、水無月の手は僕の学ランのボタンを外して行っている。
きちんと留まっているボタンは、一番下のみだ。
僕は完全に思考停止していた。脳が凍りついてしまったように、全く動かない。
水無月が、最後のボタンを外し終わった、そのときだった。
「ベーリショ!」
明るい声とともに、腰のあたりに重い衝撃を感じた。全く予想外のことに、
「ギャアアアッ!」
という本気の叫びが、口から飛び出した。
「何そのリアクション。待ち合わせしてたじゃん」
僕に抱きついてきた男……メガネは、不満そうに眼を少し細めた。
「メ、メガネくん……!」
水無月も驚いたようで、飛び退くように僕から離れた。
メガネは僕の腰に抱きつき、肩にアゴを乗せてくる。
「やあっほー。メイちゃん、元気?」
能天気なメガネの声で、直前までこの場を覆っていた妙な空気が、どんどん薄くなっていく。
僕は大きく、安堵のため息をついた。こいつが来てくれて助かった。
彼が来るのが後五分遅かったら、どうなっていたか分からない。
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