■キリン耳とネコ耳の話 10■
トイレの洗面台で、久々に鏡の中の自分と対面した。
相変わらず、キリン耳とツノが間抜けだ。
それに加え、泣いたお陰で目と鼻が腫れ放題に腫れていて、ブサイクなことこの上ない。
「うおお、あらゆる意味でカッコ悪すぎる……!」
僕は、洗面台に手を置いて呻いた。
恥ずかしい。
よりにもよって人前で泣いてしまうなんて、ありえない。
お前はいくつだ。十七歳だ。
十七にもなって、あれしきのことで号泣するなんて言語道断だ。
いや、でもあれは泣いても仕方ない。
何せ前触れも何もなく、目の前で濡れ場ライブだ。
しかも男同士の。
青少年には、刺激が強すぎると思わないか。あまりのことに、頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。
しかしやっぱり恥ずかしいものは恥ずかしく、洗面台の前で悶えていると、ピコカンが僕の目の前に飛んできた。
今、一番見たくない顔だ。
「泣くほど感動していただけるなんて、僕も感動です。どうです、素晴らしい世界でしょう!」
誇らしげに胸をそらす青い異物に、殺意がふつふつと沸いてくる。
「どこかだよ! お前な、男子高校生が素で泣くような世界を作ってんじゃねえぞ」
「それは、ベリショさんがヘタレなだけだと思います」
ピコカンの言葉は、ささくれた僕のハートを、ものの見事に貫いた。
確かに、我ながらあれはちょっと、ヘタレすぎたと思う。
「大丈夫ですよ。BL世界にはヘタレ攻とかヘタレ受とか、そういうジャンルも用意されてますから。ベリショさんも全然いけます」
ピコカンが、にっこり笑顔になる。何が大丈夫なのか、さっぱり分からない。
「つうか何だよ、このインモラルな世界は! 保健室でまでやりやがって」
「だって、保健室にはベッドがあるんですよ! そして保険医は白衣なんですよ! 学校内での性生活において、極めて重要なポイントじゃないですかっ」
学校内での性生活、なんて言葉を僕は初めて聞いた。
やるならやるで、もうちょっと第三者に迷惑がかからないように配慮しろよ、と言おうとしたら、トイレの奥からガタッ、という物音が聞こえた。
僕の身体に、緊張が走る。
口を閉じて、音がした方に眼を向けてみた。物音は、個室から聞こえてきたようだった。
個室は全部で三つだが、一番奥の個室だけが使用中である。
まさか、と嫌な予感が胸を走った。
しかし直後に、そんなはずはないさと首を振る。
いくらなんでも、三連チャンはないだろう。純粋に使用中であるに決まっている。
そうさそうさそのはずさ。ははは。
僕は心の中で笑い声をあげた。
ガタガタッ、とまた物音がした。
僕は心の笑いを引っ込めた。普通に使用していて、ガタガタなんて音が鳴るだろうか?
いや、鳴らない。鳴るはずがない。
いやいや、もしかしたら立ち上がった拍子に立ちくらみでも起こして、よろけてしまったのかもしれない。
そういうことだってきっとある。
「……あっ、ん」
微かに声が聞こえた。続いて、ガタガタッ。
……うん、立ちくらみのついでに声も出てしまったんだろう。体調不良ゆえの呻き声だ。
それにしても、この個室を使用している人物は、さっきから何回も立ちくらみを起こしているようだけど大丈夫だろうか?
「……んなわけあるかあっ!」
僕は力の限り叫んだ。胸から腹が、キューッと熱くなっていくのが分かる。
一番奥の個室から、「きゃあっ」「わあっ」という声が上がる。間違いなく、二人分の悲鳴だった。
「ベッ、ベリショくん!」
僕の怒鳴り声を聞きつけたらしい水無月が、慌てた様子でトイレに飛び込んできた。
「ベリショくん、落ち着いて!」
水無月が、腕にすがりついてくる。そのとき初めて、自分の手にモップが握り締められていることに気が付いた。
どこから取ってきたのか、無意識に振り上げていたらしい。一体これで何をしようとしていたのか、自分でもよく分からない。
「これが落ち着いてられっか! 三連チャンだぞ三連チャン!
普通に学校生活を送っていて、三連チャンでアオカンに遭遇するなんてことが、あってもいいのか!」
「だ、大丈夫だよ! 僕の最高記録は五連チャンだから!」
水無月が、フォローになってないフォローをしつつ、羽交い絞めするようにして僕を引きずる。
「学校は、セックスする場所じゃねえぞコラアア!」
僕は引きずられながら叫んだ。腹の中で、怒りがごうごうと渦巻いていた。
怒りで目の前が真っ赤になる、というのを僕は初めて経験した。
視界の端に、個室で睦みあっていたと思われる男子二人が、扉から顔を出しているのが見えた。
男前だからって、何しても許されると思うなよ! と叫びたかったが、水無月に口をふさがれていたので
「むおああああうおっ」
と意味不明かつ中途半端な咆哮しか出てこなかった。
水無月は僕を、空いている教室に引きずり込んだ。
「ベ、ベリショくん、ダメだよ騒ぎは……。僕たちは、授業をサボッてるんだから」
水無月が耳元で、泣きそうな声で言う。
まだ僕の口はふさいだままだ。というか、鼻もすっかりふさいでやがる。息ができない。
離してくれという意思表示のために、水無月の腕をタップした。
「もう騒ぎを起こさない、って約束できる?」
水無月は、眉根を寄せて僕の顔をのぞきこんだ。
そんなことより、息! 息!
「約束できる? 返事は?」
とりあえず、必死に頷いた。彼の手をひきはがそうと手に力を込めた瞬間、水無月は手を離してくれた。
僕は盛大に咳き込んだ。ゲホゲホなんてもんじゃない。グエッホガッハゲッという感じだ。
「お、お前……っ、鼻までふさぎやがって……!」
涙声でそう言うと、水無月は慌てたように僕の背中をさすった。
「えっ、えっ! 僕そんなことしてたっ? ご、ごめん!」
水無月の顔がみるみる真っ赤になっていく。多分、僕の顔も真っ赤だと思う。別の意味で。
「と、とにかく。ベリショくんは転校してきたばかりなんだし、騒ぎを起こすなんてもっての他だよ。分かった?」
「……おう、それは理解した」
僕はうなずいた。呼吸するのに必死で、怒りも少しは収まってきた。
「うん、分かってくれたらいいんだ」
水無月は、ふわっと微笑んだ。
呼吸が落ち着いてから、周りを見回してみた。
教室の壁には池の水質調査の貼り紙があったり、窓際に人体模型が置かれていたりする。どうやら、生物室らしい。
僕たち以外に誰かがいる気配はなく、心からほっとした。
どうやら、四連チャンになることはなさそうだ。
この世界を作ったクソ妖精の姿を探したが、見当たらなかった。
どこに行ったんだと思っていたら、少ししてから疲れた表情で、僕の目の前まで飛んできた。
「この教室には、香炉はないようです……」
その心底気落ちした表情に、僕は本来の目的を思い出した。
そうだ、香炉だ。
畳み掛けるように襲い来る濡れ場ラッシュに、そのことを忘れかけていた。
更に、この学校のことは、ここの生徒に聞くのが一番早いんじゃないか、ということに思い至った。
「水無月さ、ええと……白地に裸の男が描かれてる香炉、この学校の中で見たことない?」
ピコカンから聞いたBL香炉の特徴を思い出しながら、水無月に聞いてみた。
彼は不思議そうに、大きな目を瞬かせた。
「……香炉……?」
「あ、知らなきゃいいんだ、別に。というか、知ってるわけないよな」
「見たことある、かも」
「マ、マジで!」
予想外の返事に、僕は心底驚いた。
まさかこんなところで、目撃証言が得られるとは。胸が躍った。
この手がかりをたどれば、とっとと元の世界に戻れるかもしれない!
「ど、ど、どこで見たんだ?」
興奮して、舌がうまく回らない。
「生徒会室に、そんな感じの香炉があったような気がするんだけど」
その言葉に、僕は水無月の腕をつかんだ。
彼は驚いたように、「わっ」と声をあげた。
「水無月ゴー! レッツゴー生徒会室!」
僕は彼の腕を引っ張った。気持ちがせいて仕方がない。
「え、生徒会室に行くの? もう授業も終わるし、行ったら桜崎くんがいると思うけど……」
水無月が、僕の表情をうかがうような視線を向けてきて、一瞬躊躇した。
あの陰険そうな桜崎か……。
出来れば会いたくない。
しかし、僕はBL香炉を見つけなければならないのだ。
「男には……死ぬと分かってても、行かなきゃならない時があるんだ……」
ちょっと斜に構えて、そんなセリフを吐いてみた。一度は言ってみたかったセリフだ。
水無月は「そんな大げさな……」と苦笑した。
何はともあれ、レッツゴー生徒会室だ!
僕たちは、生徒会室に向けて歩き出した。
生徒会室に入った瞬間、
「何の御用ですか。基本的にこの部屋は、一般生徒は立ち入り禁止なんですけれど」
という、険のある声に迎えられた。
桜崎だった。
彼は円卓の席についていて、何か書きものをしている最中のようだった。
「僕が許可するから入っていいよ、ベリショくん」
思わず入り口で足を止めた僕を、水無月が促す。水無月の姿を見るや、桜崎はペンを卓上に置いた。
「姫がご一緒ということは、昼休みに、キリン耳さんが『姫はおれのものだ!』と宣言し、姫を連れ去ったという噂は本当だったのですか?」
校内では、とんでもない噂になっているらしい。僕は頭をかきむしった。
「あの時は、ちょっと食堂にい辛い雰囲気だったから、ベリショくんが連れ出してくれただけだよ」
水無月は、静かな声で否定した。
「午後の授業に来なかった、とも聞きましたが?」
「それは僕が、さぼろうって誘ったんだよ」
桜崎は驚いたように、一瞬だけ眼を見開いた。そして、眉根を寄せて不満げな顔になる。
「……姫ともあろう方が、さぼりなんて」
そう言ってから、桜崎は口に皮肉っぽい笑みを貼り付けた。
「どうしたんですか。品行方正、純情可憐があなたの売りだったんでは? それとも、別の方向で売り出すことにしたんですか?」
水無月のこめかみが、ぴくりと動く。
「……罰なら受けるよ。適当なことばかり、言わないでくれるかな」
桜崎と水無月の間に、白い火花が散った……ような気がした。
彼らを中心に、にごった険悪な空気が辺りに充満しだす。
この空気は、女子同士が喧嘩しているときの空気に、よく似ているような気がした。
女子の喧嘩は駄目だ。何があっても、それにだけは関わってはいけない。
女子の喧嘩以上に恐ろしいものはない、というのが僕の信条である。
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