■キリン耳とネコ耳の話 09■
そろそろ息も荒くなってきたので、僕は立ち止まった。
いつの間にか、知らない校舎に入り込んでいたらしい。
電気のついていない校舎内は薄暗く、ひとけもなかったので、僕はほっと息を吐いた。
水無月から手を離し、息を整えている内に、激しい自己嫌悪が全身にのしかかってきた。
自分のやったことを思い返すと、なんというか、まるで……。
「いやあ、まるで愛の逃避行みたいでしたね!」
ピコカンの明るい声が、僕の胸をえぐった。言い返せない。
お前のせいだろと妖精を睨んでも、僕のやったことが消えるわけじゃない。文句なしの恥ずかしさだ。頭のキリン耳で、羞恥心も倍率ドンである。
「旅の恥はかき捨て、旅の恥はかき捨て……」
僕は呟きながら、自分を慰めようとつとめた。
旅の恥はかき捨て。なんて素晴らしい言葉だろう。
僕はこれから、この言葉のみを頼りにして生きていこう。
「あの、ベリショくん……」
静かな廊下に、水無月の控えめな声が反響した。
そのとき、キンコンカン、と軽やかにチャイムが鳴り響いた。
昼休みの終わりを告げる鐘の音だ。
僕は、大きく息を吐き出した。何とも濃い昼休みだった。
「五限目、始まっちゃうね」
水無月が、ぽつりと言った。
ということは、教室に戻らなければならない。
学食での出来事が、すでにクラスで広まっている可能性もあるわけで……。
「うわああ。教室に帰りたくねええ」
僕は頭をかきむしりながら、うなだれた。
挑戦者がどうとか、クラスの連中にあれこれ誤解されるのは、もうこの際どうでもいい。
旅の恥はかき捨てだ。
しかし、メガネに知られたら何を言われるか。
向こう十年くらいは、みっちりとネタにされるに違いない。
「ご、ごめんね。僕のせいで色々と……」
「……いや、お前のせいじゃないから」
僕は水無月には笑いかけ、中空を舞う青い物体にはガンを飛ばした。誰のせいかと言えば、全てこいつのせいだ。何もかも、こいつが悪い。
ピコカンは涼しい顔で、
「いやあ、盛り上がってきましたねえ」
なんて言ってやがる。
僕の中に、生まれて初めて本物の殺意が生まれそうだった。
「……さぼっちゃおうか?」
意外な言葉が、水無月の口から飛び出した。
「お前、さぼりは絶対許さない、とか言ってなかったけ?」
「何かもう、どうでもよくなっちゃった」
水無月は、力なく笑った。
気持ちは分かる。姫だの挑戦者だの、周りは騒いで楽しいかもしれないが、当事者にとっては大きなお世話だろう。
それに、僕も体験してみて分かったが、大勢から注目されるということは、それだけで物凄く消耗してしまう。
「そうだな、さぼるか」
同意すると、水無月は嬉しそうに笑った。何度見ても、眩しい笑顔だ。
「じゃあさ、校内を案内してもらっていい?」
僕の提案に、すぐさまピコカンが「ええーっ!」と、非難の声をあげた。
「二人で授業をさぼって、やることが校内見学?
何考えてるんですかベリショさん! いけてないにも程がありますよ。もっと他に、やることが色々あるでしょうが!」
ピコカンは、僕の耳元でがなり立ててくる。なんて鬱陶しい妖精なんだ。
……というか、BL香炉を探すために校内見学を提案したのに、何でこいつはこんなに突っ掛かってくるんだ。
本当に、BL香炉を失くしてピンチなのか?
僕が疑問を抱き始めると、ピコカンはそれに気付いたのか取ってつけたように、
「いえ勿論、BL香炉が早く見つかるに越したことはないんですけどね?」
と言ったが、白々しいことこの上ない。怪しい。怪しすぎる。
しかし、BL香炉を見つけないと元の世界に戻れないと言われている以上、香炉を探すしかない。
「うん、いいよ。それじゃあ、さぼってることがばれないように、校内を回ろうか」
心なしか、水無月は楽しそうだった。
さぼりなんかしたことないだろうから、ちょっとした冒険のつもりなのかもしれない。
「よろしくお願いしまっす」
僕たちは、歩き出した。
真新しい校舎にいささかマッチしていない、古ぼけた立派な木の扉の前で、水無月は立ち止まった。
「ここが、図書室だよ」
「へえ、ここだけ木造なんだ」
「何でも、うちの学校の創設者がデザインした扉らしくて、校舎を建替えたときもこの扉だけは残したんだって。中は新しいよ。入ってみる?」
「え、でも授業中だし、まずいんじゃねえの?」
腰が引ける僕に、水無月は笑った。
「大丈夫大丈夫」
そして何のためらいもなく、堂々と扉を開ける。
水無月の言うとおり、新しい図書室のようだった。壁も床もぴかぴかで、清潔な印象だ。
カウンターに座っている司書が、授業中に入ってきた僕たちを一瞬不審そうな眼をしたが、水無月の顔を見ると笑顔で会釈をした。
「こんにちは、水無月くん。自習ですか?」
「はい、そうなんです」
水無月は答えて、そのまま二人でカウンターを通り過ぎた。なんともあっさりだ。
「ね、大丈夫だったでしょ」
カウンターからある程度離れたところで、水無月はいたずらっぽく笑った。
「日頃の行いってやつは偉大だな」
少し感心した。普段真面目にしていると、こういうところで得をするのか。
僕は、本棚の間を歩き回った。
ついでに、きっちりと整頓されている本の背表紙も眺めてみる。
タイトルだけは聞いたことがある、ベストセラー小説がちらほら目に入った。
異世界なのに、出版されている小説は僕たちの世界と同じらしい。不思議な話だ。
ピコカンは、BL香炉が近くにあれば独特な甘い香りがするからすぐに分かる、と言っていた。僕は胸いっぱい息を吸い込んでみたが、紙の匂いしかしない。
ここはハズレかな。そう思ったそのときだった。
「……駄目だ、って……。人が、来る……っ」
突然吐息まじりの男の声が聞こえ、足を止めた。
ここからでは姿は見えないが、一番奥の通路に誰かいるようだった。
しかも、ただごとではない雰囲気だ。
「いいじゃん。お前のいやらしい声、聞いてもらえよ」
先ほどとは違う、男の声がした。笑いを含んだ声だった。
直後、衣擦れらしき音と
「いや……っ」
という濡れた声が微かに聞こえた。
状況を理解した瞬間、全身の毛穴が開いた。
こいつらはアレだ。明らかに……、や、やってやがる。
源氏物語風に言うと「契って」やがる……!
「ぎ」
僕が悲鳴をあげようとした時、水無月が物凄い勢いで僕の口を手でふさいだ。
反射的に、喉元まで押し寄せてきていた悲鳴を飲み込む。
水無月はそのまま僕を、むりやり図書館の外まで引っ張っていった。
「駄目だよ、図書室で大きな声を出しちゃあ」
水無月は、めっ、という表情で僕を見た。
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろっ。何今のっ。マジで何っ!
誰か夢と言ってくれ……いや、夢でも嫌だこんなのっ!」
僕は完全に取り乱していた。
心臓がハイスピードで高鳴っているし、テンパっていることが自分でもよく分かる。
「ベリショさん、何言ってるんですか。
図書館でアオカンなんて、男性向けでもよくあることでしょう?
ああいうときは、足音をちょっと大きめに立てて近寄って、その後その場から離れてあげるのがセオリーですよ。
適度なプレッシャーに、また萌えるんですよねえ」
ピコカンの言葉に脳みそがかきまぜられて、訳が分からなくなる。
「いや、本で見るのと実際見るのはまた違うだろ!
それに、セオリーって何だよっ。え、ていうか何、ああいうの普通なの? 容認されちゃってるの? この学校」
ピコカンの言うことに思わず反応してしまいながら、水無月に尋ねた。
「い、いや普通ってわけじゃないけど……でも、たまにあるかも……」
水無月は勢いに押されたのか、僕の言葉の前半部分は聞き流してくれたようだった。
しかし、その言葉は僕に絶望を与えた。
「なんてこった……。図書室は本を読む場所だと思ってたよ……。」
「図書館は本を読むところだよ?」
何を今更、と言わんばかりの水無月に、僕は大声で怒鳴りたい衝動に駆られた。
が、そこはぐっとこらえた。
落ち着け自分。ここは異世界なんだ。自分の物差しで物事を計るな。
僕はスーフースーフーと深呼吸を繰り返し、平静になるよう努めた。 スーフースーフー。
駄目だ、落ち着かない。
胸の辺りがどんよりと重く、具合が悪くなってきた。
美形酔いしたときの比ではない、気分の悪さだ。
「うう……無理だ……」
足元がふらつく。
水無月が支えようとしてくれるが、如何せん彼は華奢なので、一緒に倒れてしまいそうになる。
僕は壁に手を突き、どうにか身体を支えた。
ううう、と呻きながら顔を上げると、図書館のすぐ隣に保健室があるのが見えた。
なんてナイスタイミング。
少し休ませてもらおう。でないと、このままショックで倒れてしまいそうだ。
「すんませーん……」
僕は、保健室の扉に手を掛けた。
「ベリショくん、待って! そこは危険……っ」
水無月の静止の声が耳に届いたときにはすでに、僕は保健室の扉を開けていた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、ベットの上でもつれ合う男二人だった。
上に乗っかっているのは白衣の男(長髪で美形)で、下になっているのが細っこい生徒(微妙な長髪で美少年顔)だった。
お二人は、扉が開いたことにも気付かないくらい、盛り上がってらっしゃるようだった。
「せ、先生……先生っ、あ……っああ……!」
甲高い声を聞きながら、僕は静かに扉を閉めた。
「だから、待ってって言ったのに……」
「盛り上がってたとこなのに、何で扉を閉めちゃうんですか」
背後から、気まずそうな水無月の呟きと、不満そうなピコカンの声が聞こえた。
僕は扉の前で項垂れた。気分が悪いのを通り越して、何だか悲しくなってきた。
「うっ」
僕の喉から、嗚咽がこみあげてくる。
視界が波打った。泣いてしまいそうだ。
「う、うえええっ」
僕の目から、涙がびゅっと出た。むしろ吹いた。
もう何がなんだか分からないが、とにかく泣きたかった。
「えっ、ええっ。べ、ベリショくん大丈夫っ」
水無月が慌てた様子で、僕の顔を覗き込む。
「うえ、うく、ううっ」
僕は顔を伏せて、すすり上げた。
今まで僕は、人様に迷惑をかけることなく真面目に生きてきた。
犯罪を犯したこともないし、中学の時に皆勤賞をもらったことだってある。それなのに、この仕打ちはどうだ。何で男同士の絡みを、二連チャンで見ないといけないんだ。
「うっ、うううっ。あ、あんまりだっ」
口から嗚咽が、とめどなくこぼれて出していく。うるんだ視界の端に、おろおろしている水無月がぼんやりと映った。
「ベリショくん、泣かないで」
「ど、どいつもこいつもっ。あちこちでサカりやがって。う、うええうっ」
「あ、あの。校則で取り締まれるかどうか、やってみるから」
「ううええっ、えっ」
「ほ、ほら、僕生徒会だし。会議で言ってみるから。ねっ?」
「えく、う、ううっ」
「だからもう泣かないで、ベリショくん」
水無月が、僕の背中を優しくさする。何でか分からないが、また泣けてきた。
畜生。これも全部、ピコカンとかいうクソ妖精が悪いんだ。畜生、畜生、畜生、畜生。
心の中で「畜生」を五十三回唱え、脳内でピコカンと、校内でサカっていた奴らをボコボコにして締め上げたところで、やっと涙が引いてきた。
顔を上げると、ホッとした表情の水無月と目が合った。急激に決まりが悪くなって、目をそらす。 気が付けば、僕は廊下に座り込んでいた。じわじわと羞恥がこみ上げてきた。
僕は顔をごしごしと手の甲でこすり、勢い良く立ち上がった。
首をめぐらせると、保健室の向こうにトイレのプレートがあるのを見つけた。
「……ちょ、ちょっと、便所行って来るわ」
僕はそう言って、逃げるようにトイレに駆け込んだ。
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