■キリン耳とネコ耳の話 07■


 軽やかなチャイムの音色が、四時間目の終わりを告げた。

「つ……疲れた……」
「大丈夫? 前の学校よりも授業の進行、早かった?」

 水無月が、隣の席から気遣わしげに声をかけてくる。
 授業が早い遅い以前に、僕たちは元の世界で既に、四時間分の授業を受けているのだ。
こちらに来て、更に四時間。疲れない方がおかしい。

 メガネはというと、机の上にうつぶせて、何のてらいもなく熟睡していた。
規則正しく上下する背中が憎い。
僕も眠りたかったのだが、寝たらまた水無月に何か言われるのでは、と思うと寝られなかったのだ。

「おい、メガネ。昼休みだぞ」

 僕はメガネの頭を両手でつかみ、前後左右に激しく揺さぶった。

「何も、そこまでしなくても……」

 水無月は気の毒そうに眉を寄せた。

「いや、こいつはこれくらいしないと起きないから」

 僕は更に激しく、メガネの頭をシェイクした。しかし、メガネは起きない。くそ、しぶとい野郎だ。

「起きろっつうの!」

 僕は右手を振り上げ、メガネの後頭部に全力でチョップを叩き込んだ。
ゴンッという鈍い音と同時に、

「ぐうえっ」

 と、くぐもった声が聞こえた。

「そ、それはちょっと、やりすぎなんじゃ……」
「んなことないって。いつも、このキメ技で起こしてるし」

 僕は右手をブラブラさせながら、不安そうにしている水無月に言った。

  ややあって、メガネがゆっくりと顔を上げた。

「おっはよー。メシ?」

 ぼんやりした口調で、メガネが聞いてきた。僕は頷く。

「メシ。水無月、学食とかってあんの?」
 僕は、ぽかんとしている水無月の方を振り向いた。

「え…あ、うん。案内するよ」

 ということで、僕たちは水無月について歩き出した。

 廊下に出ると、やっぱり周りの連中にチラチラ見られた。

「……メガネくん、頭痛くない? 大丈夫?」

 水無月は、メガネの後頭部をチラチラ見ながらそう言った。
よっぽど、僕の手刀の打撃が心配らしい。そんな心配、するだけ無駄なのに。

 案の定メガネは、何のことか分からない、とでも言いたげに首をかしげた。

「何で? おれ何かしたっけ」
「え……何かって、だってベリショくんがすごい勢いでチョップしてた…よ?」
「あっそうなの? 何だ、前から学校で寝て眼が覚めた後って、妙に頭いてえな寝方が悪いんかな、って思ってたんだけど、お前かよ」

 メガネは、僕の腰を拳で軽く突いて来る。

「だってお前、揺すったくらいじゃ起きないじゃんよ」
「うん、起きない。そんなわけで、今後ともよろしく」

 メガネは欠伸をしながら、やる気のなさそうな声で言った。

 どうやら、この学校で変態的なのは生徒会室だけらしく、学食もいたって普通のつくりだった。普通が一番である。この世界に来て、普通という言葉の尊さを再認識した。

 中は既に多くの生徒でにぎわっていて、熱気が満ちている。
何処からともなくカレーのいい匂いが漂ってきて、僕の食欲を刺激した。

「食堂の前に小さな建物があったと思うけど、そこは購買部。パンとかはそこで買えるよ」
「おれ、カツカレー食おうっと」

 そう言って、メガネはさっさと券売機の方に歩き出した。

「おれはパン買って来ようかな」
「じゃあ、僕は席を取っておくよ」
「水無月、パンでよければ何か買ってくるけど」

 僕がそう言うと、水無月は

「ありがとう、適当に買って来てもらっていいかな」

 と、微笑んだ。

 僕は、購買部の中に入った。
カウンターの前にパイプ机が出され、その上にパンやら弁当やらパックのジュースやらが、うず高く積み上げられていた。

 小さな建物の中は、昼食を買い求める生徒で混雑していた。
何処の世界でも、購買は混むものらしい。
美形たちが押し合いへし合いしながら、パンや牛乳を漁るさまは、何となく異様なものがある。

  男だらけでぎゅうぎゅうの購買……。
こういうシチュエーションが嫌だから、共学校に入ったのに……。

「何でこんな目に合わないといけないんだ……」

 ぼやきながら、人と人との間にできた僅かな隙間に、身体をねじ込んだ。
視線をさっと素早く左右に滑らせ、品物をチェックする。
焼そばパン、メロンパン、カツサンドなどなど……。ごくスタンダードな品揃えだった。

 購買という場所は、戦場だ。
とにかく、戦利品と共に無事生還することが、第一である。何を買うか悩んでいては、あっという間に獲物は売り切れてしまう。

 僕は何も考えず、目の前にあったメロンパンを掴んだ。続いて、ツナサンドとカツサンドを次々に掴み、腕に抱える。
 視界の端に、焼そばパンが残り一個になっているのが映った。すかさず手を伸ばすと、僕と同時に誰かが焼そばパンを掴んだ。

「おっ、キリン耳さんじゃん!」

 相手は、新聞部の紅だった。
辺りに白い頭が見当たらないので、ひとりで来ているらしい。
それにしてもキリン耳呼ばわりかよと思ったが、確かに今の僕はキリン耳としか言いようがないよな、と自嘲気味に納得した。

「キリン耳さんに、聞きたいことがあるんだけどさ」

 焼そばパンに手をかけたまま、そんなことを言ってくる。

「お前な、状況を考えろよ。こんなところで、話なんかしてる場合じゃないだろ」

 僕は焼そばパンを無理矢理引き寄せようとしたが、紅も譲らない。

「今朝、職員室の前で、姫と桜崎さんが何かしゃべってたよな?」
「何でそんなことを、お前が知ってるんだよ」
「追ってるんだよ、あの二人を。色々と面白い噂があるからさ」

 紅はニヤリと笑いつつ、やはり焼そばパンからは手を離さない。僕も思わずムキになって手に力を込めた。そっちがその気ならこっちだって……と思ってしまうのは、僕の悪い癖だ。

「噂?」
「そう、恋の三角関係の噂」

 その言葉に、一気に興味をなくした。
僕と水無月がいい仲になりつつある、という言いがかりをつけられたことを思い出す。

 この世界では、ほんの些細なきっかかで噂になってしまうようなので、紅の言う噂とやらも信憑性は薄そうだ。

「何だよ、疑ってんな。
それじゃあ聞くけど、姫と桜崎さんって、仲良さそうにしてたか? してなかっただろ?」

 まあ確かに、少なくとも親友同士には見えなかった。

「姫と桜崎さんは、ひとりの男を取り合ってんだよ。……我が校の王子を、さ」

 出た、王子。
 盛大に、口からため息が出た。姫もそうだが、王子という言葉を何回聞いても、足の裏がムズムズしてしまう。

 更に、三角関係ときた。男子校で三角関係。この世界は、間違いなく狂っている。
いや、ここはBL世界なのだから、いい加減その手に話題にも慣れるべきなのか。

「まあ、普通に考えたら、王子の相手は姫が有力なわけよ。
王子も姫も、特別な存在だからさ。でも、桜崎さんも負けてないんだぜ。文武両道で、姫の候補にも挙がってたんだから」

「あいつがあ?」

 僕は桜崎の顔を、脳裏に思い浮かべてみた。確かに美形ではあるが、あの陰湿な笑みの印象が強くて、姫、というイメージは何処にもない。

「そう。結局先代の姫からの指名で、水無月さんに決まった訳なんだけど。
それも桜崎さんには面白くないみたいでさ。水無月さんを姫の座から追い立てて、自分が成り代わろうとしてるって噂もあるんだよ」
「へえ……」

 何処までが本当なのか怪しいので、へえ、としか言いようがない。
それよりも、力の入れすぎで焼そばパンの一部が潰れてしまっていることの方が、今の僕には大事である。
これを買うのはちょっと……だが、今更手を離すことも出来ない。

「桜崎が、姫って呼ばれて喜ぶような奴には、見えなかったけどな」

 僕が率直な感想を述べると、紅は「分かってねえなあ」と、肩をすくめた。

「さっきも言ったろ。
王子と姫は特別な存在なんだよ。だから姫の座を手に入れた方が、王子の恋人になるのに有利ってこと」
「なるほど」

 理屈はいまいち分からないが、とりあえず頷いておいた。この世界の理をきちんと理解しようと思ったら、多分日が暮れてしまう。時には、ノリで頷くことも大切だ。

「だからさ、あの二人の動向は、我が校で今注目度ナンバーワンなんだよ。
な、な、あの二人、職員室前で何を話してたんだ?桜崎さんはガードが固いから、近くには行けなくってさ」

 紅は、眼をキラキラさせている。
彼はいつの間にか、焼そばパンから手を離していた。
なんてこった。
僕だけひとり力いっぱい焼そばパンを握り締めていたなんて、恥ずかしいことこの上ない。

「何を話してた、って言ってもなあ…。別に、そんな面白いことは、何も言ってなかったぞ」
「どんな細かいことでもいいから、教えてくれよ」

 ここで僕が何かしゃべったら、彼はそれを校内新聞に書き立てるのだろうか。
……悪趣味な話だ。
水無月には世話になっていることだし、ここは適当にかわしておこう。
僕も、顔のことをどうこう言われたなんてことを、全校に披露されたくないし。

「うーん…。朝の挨拶をして、水無月に桜崎の紹介をしてもらって、桜崎にもおれらの紹介をしたくらいなんだけどな」
「ほんとに?」

 紅は即座に聞き返してきた。その大きな眼が、完全に僕を疑っている。
「ほんとだよ。予鈴が鳴る直前だったし、そんなに長々と話はしないだろ」

 僕の言葉に、紅は「ふーん」と、眼を細めた。

「……まあいいや」

 しばらく僕を疑わしげに見つめていた紅だったが、やがて諦めたように頷いた。

「それじゃ、姫と桜崎さん絡みで何か気付いたことがあれば、おれに言ってくれよな!
情報の質によっては、お礼もするからさ!」

 紅はそう言ってにっこり笑い、いくつかパンを抱えてレジの方に歩いて行った。

 気が付けば、購買部の中にいる客は、僕と紅だけになっていた。
紅はさっさと会計を済ませて出て行ったので、あっという間にひとりになる。彼と長々話している内に、他の客は皆引き揚げてしまったらしい。

 テーブルの上の商品はあらかた片付いてしまっていて、ほとんど残っていない。

「なんてこった……」

 僕はがっくりと肩を落とした。ここに来た時は獲物は沢山あったのに、ことごとく買い逃してしまうとは。何処まで本当か分からない、新聞部の与太話に付き合っている場合ではなかった。

「……ああ、遅かったかなあ。何かいいの、残ってる?」

 僕の隣に誰かが立ち、商品台を覗き込んだ。

「見ての通り、兵どもが夢の跡って感じ」
「やっぱり? 購買は、スタートダッシュが肝心だよねえ」

 隣の人は長い前髪をかきあげ、悲しそうに嘆息を吐いた。

  彼も勿論美形なのだが、あえて言うなら「存在感のある美形」というかなんというか…とにかく、他の人間にはない不思議な雰囲気があるように思えた。
ここに来てから、美形は全員同じ顔に見えていたのだが、こいつの顔は忘れなさそうだ。

 そして彼は、上下ともに小豆色のジャージを着ていた。
上着のファスナーはほとんど全部開いていて、白い素肌が覗いている。
半分以上露になっている胸板は、哀れになるくらい薄く、鎖骨がくっきりと浮いている。
しかし、貧弱という印象は受けない。

 何故にファスナー半開き? 何故に素肌ジャージ?

 明らかにおかしな格好だが、彼の場合は似合っているような気になるのが不思議だ。
男前は、何をやっても男前、ということだろうか。

 更に彼は何故か、右手に大きな紙袋を抱えていた。
その袋から、焼そばパンが覗いている。その他にも、種類は分からないがパンの包みがいくつか見える。わざわざここで買わなくても、そのパンを食べればいいのに。

 ついつい、彼の手元を注視してしまった。
ハッと我に返って顔を上げたら、彼は僕の顔をじっと見詰めていた。
整いすぎるくらい整っている顔が視界のど真ん中に飛び込んできて、僕は思わず眼をそらした。

「キリン耳って、珍しいね!」

 僕は、「はあ」と生返事をした。
 ここに来てから、キリン耳を突っ込まれなかったことがない。よっぽど印象が強いらしい。このまま、これがアイデンティティになってしまったらどうしよう。

「可愛いねー。ツノに触ってもいいかな?」

 瞳を輝かせながら詰め寄ってくる男前にひるみつつ、「はあ」とまた生返事をした。

「わあすごい! ふさふさなんだね。キリンのツノを触ることが出来るなんて、感動だなあ」

 ジャージ男は、僕の角をわさわさと撫でた。むずがゆいような、変な感じがする。

「ねえ君、一緒にご飯食べない?」
「は? いや、連れが食堂で待ってるんで」

 一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。

「そっか、残念。ううん、今日はやけにフラれるなあ」

 ジャージ男は、軽く首を捻った。

 もしかしてこれが、メガネの言っていた校内ナンパだろうか。まさか自分が、男にナンパされる日が来るとは思っていなかった。……ちょっとショックだ。

「まあいいや。それじゃあ、いいものあげるよ」

 ジャージ男は朗らかに笑い、腕の中の袋に手を突っ込んで、ゴソゴソやりだした。

「はい、これ!」

 彼が取り出したのは、キリンの形をしたパンだった。僕は一瞬逡巡したが、礼を言って受け取っておいた。

「それにしても、キリン耳の子なんてうちの学校にいたっけ?」
「ああ、今日転校してきたもんで」
「そうなんだ、どうりで知らないはずだ」

 ジャージ男は合点がいったように、深く頷いた。

「それじゃあ、これもあげるよ」

 彼はまた、紙袋の中に手を突っ込んで、ガサゴソやりだした。そしてまた、パンの包みが出てくる。

「はい、これ。お近づきのしるし」
「あ、どうも……」

 受け取ると、意外とずっしとした手ごたえがあった。

「アップルデニッシュ。
さくさくのデニッシュの中に、甘酸っぱいリンゴの砂糖煮がぎっしりと詰まってるんだ。
密度の高い芳醇なリンゴの味わいとデニッシュの香ばしさは、一口食べたら止まらなくなること請け合いだよ。そんなアップルデニッシュのような、学園生活を送ってね」

 彼の言ってることはよく分からないが、パンは非常に美味そうだったので、有難く頂戴することにした。

「……その袋の中って、もしかして全部パン?」

 僕の疑問に、ジャージ男は「うん、そうだよ」と、笑顔で肯定した。

「焼そばパンとかメロンパンとか、僕のお気に入りを中心に、常に十五個ぐらい」
「じゅ…っ。それ、全部食うの? 一人で?」
「もちろん。食べなきゃ、持ってる意味がないでしょ」

 平然と答えるジャージ男を、僕は信じられない気持ちで見詰めた。こんな薄っぺらい身体に、十五個ものパンが収まる気がしない。

「今日はあんまり品が残ってないから……、いいや、いつものヤツだけ頂戴」

 ジャージ男は、カウンターの奥にいる若い兄ちゃんに声をかけた。
兄ちゃんは「はい!」と元気よく返事をして、大きな紙袋を持ってカウンターから出てきた。
その紙袋からパンの袋が覗いているのが見えて、僕は戦慄した。

「…まさか、それも全部パン?」
「うん、こっちはご飯」
「じゃあ、元々持ってたそっちの袋は?」
「これはおやつだよ」

 平然と言ってのけるジャージ男に、僕は胸焼けを覚えた。
こいつの体内には、血肉の代わりにパンが詰まっているんじゃないだろうか。

 ……いかんいかん。
この世界の珍事にいちいち反応していては、いつまでも僕は昼食が買えない。
メガネと水無月を相当待たせてしまっていることだし、さっさと食堂に戻らないと。

「それじゃあね、キリン耳くん。きみとは、また会える気がするな」

 ジャージ男が去り際に、そんなことを囁いてきた。
細い両手とふたつの大きな紙袋が、非常にミスマッチだ。

 この世界で、変な奴を沢山見かけたけれど、こいつがダントツであるような気がする。