■底に落つ■
真島太一は教科書を抱えて、大股で寮の部屋へと戻る。
自分の部屋の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけたところで室内から聞こえてくる話し声に気付いた。楽しそうに笑い合う、ふたりの声。舌打ちを漏らしてノブから手を離す。そして一歩後ろに下がると、足で思い切りドアを蹴り開けた。バァン、と大きな音が響き、「うわっ!」という声が中から漏れる。
部屋の中にはふたりの男。ひとりは茶髪で細身、もうひとりは黒髪でのっぽだ。茶髪の男は甘えるように、のっぽの男に背後から抱きついていた。
「何だ太一かよ! こっええ! びっくりした! いきなり何かと思った!」
茶髪の方が、太一の姿を見て目を丸くする。彼は太一のルームメイトで、桐生といった。天然なのかわざとなのか分からないくりくりの髪の毛で、異様なまでに肌が白い。
「おれは、太一が帰って来るって分かってたから驚かなかったけど」
黒髪のっぽが、笑顔でそう言う。桐生は、
「えっえっ、何で、何で分かったの、陣内」
と、黒髪のっぽ……陣内の背中にまとわりついた。
「だって、足音聞こえてたもん」
「マージでー? おれ、陣内の声に集中してたから、ぜんっぜんわかんねかったー!」
桐生は目を輝かせて、すごいすごい陣内すごい、と賞賛し、陣内の頭に頬ずりをした。手放しに褒められて、陣内は照れくさそうに笑う。太一はふたりに聞こえるように、思い切り舌打ちをした。
「部屋ん中でいちゃつくな、って何回言ったら分かんだよ」
押し殺した声でそう言うと、桐生と陣内は顔を見合わせ、気まずそうに身体を離した。
「そんなに怒らなくても良いじゃん……」
「ご、ごめんね、太一」
桐生と陣内は、ほぼ同時に謝る。太一はふたりに一瞥を投げ、机に向かった。
大学での寮生活が始まって、そろそろ丸一年。真島太一は、同室の桐生がほとんど毎日、彼の恋人である陣内を部屋に連れて来るのに辟易していた。
彼らは自分たちが同性愛者で恋人同士であることを、周囲に公言している。太一はそれが理解出来ない。普通そういうのって、もっと隠れて行うことじゃないのか。
彼らに対する、周りの反応は十人十色だ。受け入れる者もいれば、無関心の者、下世話な好奇心を働かせる者、嫌悪感を示す者もいる。同級生たちの詮索やうわさ話は、他人である太一ですら、耳にすると気分が悪くなる。
だから周りにバラすなんて愚の骨頂だと思うのだが、桐生曰く「陣内とふたりなら乗り越えられる」らしい。それを聞いて太一は心底呆れた。
「太一、今日機嫌悪いね」
桐生が、陣内の耳元で囁く。恐らく本人は周囲に聞こえないように喋っているつもりなのだろうが、彼らに背を向けてノートパソコンを開く太一の耳にも、しっかりと入って来た。
「いや、まあ、うん。おれたちが原因だと思うけど……。おれ、もう戻るよ」
そう言って陣内が立ち上がる気配がした。が、直後「ええー!」という不満げな桐生の声が部屋中に響き渡る。
「夕飯まで、まだちょっと時間あんじゃん。一緒にいようよー」
「でも、ここにいたら絶対騒がしくしちゃうじゃん。太一に迷惑だよ」
小さい子どもに言い含めるような口調だった。僅かながらに良心が残っている分、陣内の方が幾分かマシだと太一は思う。しかし彼は桐生の勢いに流されやすいので、その辺りは見ていていつも苛々する。
「ねー太一、騒がないから、陣内ここにいてもいいでしょー?」
その問いかけを無視して、太一は片肘をつきニュースサイトを眺める。
「ねー太一ってば、無視すんなって」
そう言って桐生が、肩にのしかかってくる。背中に伝わる体温にイラッと来て、太一は乱暴に桐生を振り払った。それから、肩越しに陣内を睨みつける。
「陣内、お前ちゃんと管理しとけよ、これ」
忌々しげに桐生を指さすと、陣内は柔和な顔に苦笑いを浮かべる。
「ひっで! これ、って何だよ! 陣内、太一が酷いよー。おれのことモノ扱いするよー」
「うっさい。黙れ。騒がないっつたの、何処のどいつだ」
早口で言葉をかぶせると、桐生は口の中で「うう」と呟いてから黙り込んだ。やっと静かになった、と思って机に向き直るが、沈黙は一分と続かない。
「なあ、太一。おれは陣内といちゃつきたいんだよ」
背後から、また桐生の声。太一は返事の代わりに舌打ちをした。
「き、桐生。よしなって……」
「だから、部屋チェンジしよう。お前と陣内が入れ替わるの」
陣内の静止を振り切って、桐生は言う。以前から何度も何度も桐生から提示されているその案に、太一はこめかみを引き攣らせた。
「嫌だ」
即答する太一に、桐生は「ええー」と声をあげる。太一はノートパソコンの画面をひたすら睨みつけた。ニュースサイトの字面を目で追うが、桐生がうるさくて一向に頭に入ってこない。
「何がそんなに嫌なの? 呉、良い奴じゃん。ぜってー、あいつの方が太一に合うよ」
困ったように桐生が言う。
呉は、陣内のルームメイトだ。右足が少し悪くて、いつも杖をついている。いくつか授業が一緒なので、太一も親しくしている。呉は良い奴。そんなことは、よく、知っている。多分、誰よりも太一がよく知っている。
「……あ、いや、おれも太一のことはちょう好きよ? 陣内の次の次くらいには」
「死ねホモ」
「何だよもー。呉は、四階の部屋だと階段がしんどいんだからさ、おれと呉がチェンジするわけにいかないじゃん」
「じゃあ、ここじゃなく陣内の部屋でいちゃついとけよ」
「出来ないよー! ほら、呉の前では何か、いちゃつくのもはばかれんじゃん? 心がキレイすぎるんだもん、あいつ」
「おれの前でもいちゃつくな。うざい」
「だってー、行くとこねんだもん! 金ねえしさあ!」
ちくしょーホテルとかガンガン行きてー! そう叫んで、桐生はベッドに倒れ込んだ。そのまま寝返りを打ちながら、ぶつぶつと独り言を繰り返す。
「あー、やりてー。なあ、陣内」
「え、うん。……っていや、桐生、ここでそういう話はマズイって」
「お前ら、次にそういう発言したら、殴るからな」
太一は拳を握りしめて、ゆっくり振り返る。ただならぬ殺気を感じたのか、陣内と桐生は首を縮めた。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「はーい」
桐生が答え、立ち上がる。太一はパソコンに目を戻した。
「あ、呉。やっほー」
「やっほー。陣内、こっち来てる? あ、いたいた」
柔らかい声が背後から聞こえて、太一の心臓は一瞬だけ震えた。
呉。呉が来た。気持ちを落ち着けるために、細く息を吐き出す。本当はすぐにでも、振り返って呉の顔を見たい。しかし彼は机に頬杖をついたまま、一ミリたりともパソコンの画面から視線を動かさない。自分の胸の内だけは、誰にも知られてはならないからだ。
「陣内、ブイ先輩が呼んでたよ。飯食ったら、部屋に来いって」
呉が、笑いをこらえるように言う。「ええ?」と、陣内は嫌そうな声をあげた。
「うわ、めんどくさいな……。って呉、それ言うためにわざわざ四階まで? メールしてくれたら良かったのに」
「いや、太一に借りてた本を返す用事もあったし。……太一」
呼ばれて、初めて太一はちらりと後ろに顔を向ける。呉の涼しげな顔立ちと細い身体、銀色の杖が目に入る。
「これ、面白かった。ありがとうね」
「ああ。本棚ん中、適当に戻しといて」
それだけ言って、再びパソコンに向き直った。
「もー、太一は無愛想だよなあー。ていうかそっから本棚まで手ェ届くんだから、自分で直せばいいじゃん」
桐生の不服そうな声が聞こえる。呉が笑った。
「あはは、太一はそこが良いんじゃん」
「呉は心が広いよなあ……」
「そんじゃこれ、返しとくね」
呉は、左手に持った文庫本を軽く振った。太一はそれを横目で見て、「おう」と短く返事をする。終始無表情でいながら、頭の中では先程の呉の言葉が反響していた。
太一はそこが良いんじゃん。
そう言ってくれた。呉が。それだけで、生きていけると思った。
「あっ、六時! 飯だ! 飯行こうぜ、飯!」
桐生が文字通り飛び上がり、陣内の腕を引っ張って慌ただしく部屋の外に出た。それから顔だけを部屋の中に戻し、
「先に行って、席取ってるから!」
と、太一と呉に向かって一方的に告げ、走って行ってしまう。
「……桐生は元気だよねえ」
面白いなあ、と呉は笑った。呉はいつも笑っている。太一は溜め息をついた。
「うるさいって言うんだ、ああいうのは」
「あははは、いっつもあのテンションだもんね。あ、太一も先に行ってて」
呉はそう言って、右手に持っている杖を前に出す。それから引きずるようにして、左足を進める。呉の足がどの程度悪いのか、先天的なものなのか後天的なものなのか、具体的なことを太一は一切知らない。知りたい、と思ったこともあまりない。呉が笑ってくれればそれで良い。
太一は何も言わず、呉のスピードに合わせて歩いた。呉も何も言わず、にこ、と笑顔をこちらに向けてくれた。太一は表情を崩さないように、口の端に力を込めた。
「……呉的には、どうなんだ」
ゆっくりと廊下を歩きながら、呉に尋ねてみた。
「ん、何が?」
「桐生と、陣内のこと」
「ああ、あいつら。ふたりが幸せなら、良いと思うよ。最初聞いたときは、びっくりしたけど」
そのときのことを思い出したのか、呉はくつくつと笑った。
「呉は、肯定派なんだな」
「だって、桐生と陣内がお互いのこと好きで幸せなら、おれが肯定するも否定するも無いじゃん」
呉は、さらりと言う。呉は何に対しても否定をしない。ときに正気を疑いたくなるほどに度量が広く、何であっても受け入れる。だけど、自分の呉に対する気持ちだけは、受け入れられないであろう、と太一は理解していた。
「太一は、否定派?」
言いながら、呉は太一をちらりと横目で見た。
「別に……否定はしねえけど。でも、毎日部屋で騒がれんのはうざい」
「桐生も陣内も、太一のこと好きだから。たまには構ってやりなよ」
「勘弁してくれ」
「はは、太一は真面目だもんね」
違う、と即座に否定したくなった。別に、真面目だから彼らを突き放すわけじゃない。ただ、常に直球勝負の彼らを見ていると胸が苦しくなるから、目をそらしていたいだけだ。太一には真似出来ない。桐生も言っていたように呉の心は綺麗すぎて、まともに呉の目を見るのすら逡巡してしまう。言葉を交わすのだって、喉が詰まる。ましてや好きだ、と告げるなど。
太一は黙り込んだ。よっぽど難しい顔をしていたのか、呉は気遣わしげな表情で口を開きかけた。しかし結局呉も何も言わず、廊下には、彼らの足音と杖の音だけが響いた。
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