■底に落つ 後■
真島太一は鞄を肩にかけ、大股で校舎の廊下を歩く。専門科目の教授につかまって、教室を出るのが遅くなってしまった。さっさと寮に戻らないと、また桐生が我が物顔で陣内と共に部屋を占拠してしまう。
ほとんど小走りになりながら長い廊下を突っ切っていると、廊下に座り込む人影が見えた。太一には、それが誰かすぐに分かった。呉だ。
「呉」
声をかけると、呉がびっくりしたように振り向いた。
「あ、太一」
「こんなところで何やって……」
そこまで言って、呉の近くにいつもあるはずのものが見当たらないことに気が付いた。
「お前、杖は?」
呉は困ったように笑い、「分かんない」と首を横に振った。太一の臓腑が一瞬で沸騰する。こめかみが引き攣り、ぎり、と音が鳴るほど奥歯を噛み締めた。
「……何処のどいつだ、そんなガキみたいな」
「あはは、まあまあ。そんな怒らないで」
「怒るだろ、普通」
きつい口調で言ってしまって、太一はすぐに後悔した。呉に当たってどうする。呉は何も悪くないのに。しかし彼は気分を害した様子もなく、歯を見せて笑った。
「杖がなくても、立てなくも歩けなくもないんだよ。ちょっとめんどくさくて、座ってたけど」
おれ結構ダルがりなんだよね、と照れくさそうに呉は言った。そんな彼を見て、太一は胸が締まるような思いに駆られた。
「ほんとに一体、誰にやられたんだよ」
「うーん、誰にやられたのか、分かんないんだよね。後ろからいきなり膝カックンされてさあ。そんで座り込んじゃった隙にワーッて杖取られて、アワワとなってる内にダーッてどっか行っちゃって。いやあ、正に通り魔的犯行だったね」
何でもないことのように呉は軽い調子で説明するが、太一の怒りは勢いを増すばかりだった。
「何でそんな、余裕でいられるんだ」
「だって、太一が来てくれたし。実は今ちょうど、太一に電話しようと思ってたんだよね。ナイスタイミング」
柔らかい声に、太一の心臓は跳ねた。呉の黒い目が、こちらを見上げている。美しい目。息が苦しくてしょうがない。
「……そんなの、何の解決にもならないじゃないか」
呉の目から逃れるように、太一は横を向いて低く呟いた。
「そんなことないよ」
呉は言って手を振る。顔は相変わらず笑っている。なんて透明な笑顔だろうと、太一の胸はむずむずした。
「おれ、杖を探してくる」
太一は早口でそう言うと、小走りで廊下を駆け出した。
「あ、ごめん。ありがとう」
と、背後から呉の声が追いかけてくる。
走りながら、 太一が来てくれたし、という先程の言葉が体内を駆け巡った。太一に電話をしようと思っていた、と言っていた。一番に、頼ろうとしてくれた。太一は首を横に振った。こんな状況なのに、喜びを覚える自分はどうかしている。
杖は存外すぐに見つかった。同じ階の階段の手すりにもたれさせてあったのだった。太一の胸の怒りが再燃する。頭の中で見えない犯人を袋だたきにしつつ、杖を掴む。ひやりとした感触が手のひらに伝わった。そういえば、この杖に触れるのは初めてだ。
アルミ製の、無機質な杖。常に、呉の手の中にあるもの。
呉の白くて細い手を思い出して、一瞬、太一の心臓が波打った。
「……どうかしてる」
太一はもう一度首を強く振り、苦々しげに呟いた。
駆け足で、呉の元に戻る。
「わ、早かったね。すごい」
呉は何が楽しいのか、手を打ってはしゃいでいる。無言で杖を差し出すと、「ありがとう、太一」と笑顔で言って杖を受け取った。そのひとことと笑顔が、太一の胸に染みこんでゆく。
「よ、っと」
呉は杖を両手で持ち、傷めていない方の右足を踏ん張る。
太一の目は、杖を握る呉の手に吸い寄せられた。細い指。薄い手のひら。つややかで丸い爪が、光を反射してときおり白く見える。
この手に触れたい、と思った。
呉に触れたい。桐生のように時も場合も何も考えず、いとしい人を抱きしめて好きだと叫びたい。
「太一?」
呉の声に、太一は我に返った。夢から叩き起こされたような気分だった。
「大丈夫だよ、ひとりで立てるよ。ありがとう」
呉はそう言って、この上なく優しく笑った。それからもう一度「よっ」と掛け声をあげ、勢いをつけて立ち上がる。
一瞬、呉の言う意味が分からなかった。しかしすぐに気が付いた。太一は無意識に、呉の手に腕を伸ばそうとしていたのだった。
全身が、熱くなった。自分は一体、何をしようとしていたのか。衝撃と羞恥に、身を焼かれるような思いだった。しかも呉は、彼が立ち上がるのを太一が手助けしようとしたのだと勘違いした。彼は今も笑顔でいるけれど、太一の行動を侮辱だと感じなかっただろうか。
違う、そうじゃない。そういうつもりじゃなかったんだ。そう言いたいが、真実はもっと奥深く、そして醜い。
太一は息を吸い込んだ。喉元に、冷たい空気が突き刺さる。
「ごめ、ん」
太一は震える声で、ようやくそれだけを言った。身体が震え出す。呉の姿を直視出来ない。太一は唇を噛んで、逃げるように走り出した。
「あ、太一!」
呉の声を振り切って、太一は走る。逃げる。逃げる。
呼吸をする度に、喉に酸素がちくちくと刺さって痛かった。通り過ぎて行く風が、太一の身体を斬りつける。この世に存在する全てのものが、太一に罰を与えているように思えた。
寮の、部屋の扉を開ける。中にいた桐生と陣内が、慌てて身体を離すのが見えた。太一は一瞬、息を止めた。むつまじい恋人同士。視界が真っ二つに裂けたような錯覚に陥る。脳が焼ける。耳の後ろが痛い。胸の内から何かが噴き出してくる。その何かは黒くて熱くて冷たくてどろどろだ。そうかこれが憎悪か、と思った。
太一は荷物を床に叩きつけるように投げ出し、部屋に足を踏み出した。そうした瞬間、陣内が桐生をかばうように身体を前に出した。
「ご、ごめん、太一! 悪いのは桐生じゃなくて、おれが」
陣内の言葉は、最後まで聞こえなかった。太一の憎悪が勢いを増す。
ああ、ああ、こいつらを殺してやりたい。泣き声を上げるまで殴りつけてやりたい。骨を潰してずたずたに引き裂いてやりたい。
……いいや、違う。本当に殴りつけてやりたいのは、自分自身だ。醜くて情けない自分が、憎くて仕方がない。自分への憎悪を、桐生と陣内にすり替えているだけだ。愛し愛される彼らと、ただ存在するだけの自分。嫉妬と憎しみと羨望。今、それを理解した。いや、本当は最初から分かっていたのかも知れない。
だけど、分かっていたって、どうしようもない。
頭の中に、呉の姿が浮かんだ。白い顔。たおやかな腕。ひとりで立てるよ、と言って笑う呉。
太一は瞼に熱を感じた。視界が揺らめき、喉が震える。
「えっ、たっ、太一っ!?」
桐生が声を引っ繰り返す。
太一は、目からあふれ出す涙を止めることが出来なかった。足に力が入らなくなってずるずると床に座り込み、うずくまるようにしてただ泣き続ける。
「た……太一、太一、どうしたの、太一」
「どうしよう陣内、太一が泣いちゃった! 今までこんなこと、一度もなかったのに!」
桐生と陣内が、ほとんど同時に駆け寄って来た。どちらかの手が、太一の震える背中に乗せられる。
「太一、何があったの」
「どうしたんだよ。どっか具合悪いの? ねえ、ねえってば」
「太一、ごめん。ごめんね。おれのせいだよね? 太一が何度も来るなって言うのに、ここに来るから……」
陣内の言葉に、桐生が「えっ!」と、怯えたように叫んだ。
「そ、それ? それなの? それなら……どうしよう!」
「ごめんね太一、おれが悪かったよ」
「違うよ、陣内。おれが悪いんだよ! 陣内は太一のこと考えて、あんまりこの部屋で会わないようにしようって言ってたのに、おれが無理に連れて来たから」
「ごめんね、太一。太一の気持ち、全然考えてなかった」
「おれだろ? おれが太一にいっつも絡むからだろ? でも太一は、太一なら、おれが言うことをちゃんと聞いて、ちゃんと答えてくれるから……だから、つい……」
「太一、太一、ごめんね」
「太一、ねえ何で? 何で泣いてんの? ねえ、何か言ってよ」
桐生が上擦った声で言って、太一の肩を揺さぶる。太一は、涙を流し続けることしか出来ない。熱い涙は、まったく止まる気配がなかった。
「もう太一に甘えないから、ちゃんと言うこと聞くから、だから太一、そんな泣くなよ……っ!」
頭上を、桐生と陣内の声が行き交う。あたふたと陣内が太一の背中をさすり、桐生は何を思ったのか、頭を撫でてきた。泣いているのは太一なのに、ふたりとも泣きそうだった。
頬を流れた涙が一粒、太一の口に滑り込んできた。
涙は喉を通り、太一の底に落ちてゆく。
終
戻
|