■冬ぬくし 02■
宗太は心臓を押さえた。手に、ばくんばくんと大きな振動が伝わってくる。驚いた。心底、驚いた。
「び……っくりした……っ。いつからいたの、お前。」
その場にへたりこみそうになる宗太に、恭次は呆れたように目を細める。昔から、容姿だけは宗太とよく似た弟だった。身長も体型も同じくらいで、声だって電話口ではよく間違われた。しかし、性格は全く似ていなかった。
「ていうか恭次、勝手に入って来んなよ」
声に非難を込めてそう言うも、恭次はそれをあっさりと無視した。
「兄貴、彼女にふられたんじゃなかったっけ?」
「え、何でお前まで知ってんだよ」
そしておれは、その古傷を何度抉られれば良いんだ、と宗太は思った。どいつもこいつも顔を合わせるなり失恋の話題を持ち出して来るなんて、気遣いに欠ける。
「姉さんに聞いた。夕子さんだっけ」
「お姉ちゃん、口が軽すぎるよ……」
宗太は天を仰いだ。口が軽くて忘れっぽい女の、たちの悪さが身に染みる。
「で、さっきの電話は、新しい彼女?」
恭次は宗太の目をじっと見て、詰問するような強い口調で尋ねる。宗太はその視線と声音に、早くも怯み始めていた。しかも、どうも弟は宗太の通話相手が気になるらしい。やばい。葵のことを突っ込んで聞かれたら、どう答えれば良いのだろう。
「な、何でそうなるんだよ」
しどろもどろになりつつ、宗太は答えた。そこに、恭次の声がかぶさってくる。
「だって、兄貴の部屋の大掃除してんだろ? そんな会話だったじゃん。そこまでするのって、彼女かな、って普通思うよ」
「お前、人の話をよく聞いてんね……」
宗太は苦笑いを浮かべ、明確な回答を避けた。このままどうにかぬらりくらりとかわせないだろうか、と思うのだが、弟は容赦なく畳みかけてくる。
「もう、新しい彼女出来たんだ」
そう言われると、返答に困る。新しい彼女? 葵が? そもそも、女じゃない。男と二人で暮らしているなどと、この真面目な弟が聞いたら何と言うだろう。
「か、彼女っつうか……」
視線が泳いでしまうのが、自分でも分かる。何処に目の焦点を合わせて良いのか分からない。大体、自分と葵の関係は一体何なのだ。恋人? え、おれと葵って付き合ってんの? そうなの? マジで? でも最後までやってないよ! いやそういう問題じゃないよ!
……そこを考え出すと、もう頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。普段あまり頭を使わないので、彼の脳はたちまちパンク寸前となった。
「彼女っつうか、の続きは何だよ。またいつもの、彼女っつうかセフレっつうか、て感じか」
弟がとんでもないことを言い出すので、宗太は咳き込むように、
「ちっがうよ! なんちゅうこと言うんだよ!」
と、即座に否定した。恐らくこれまでの宗太の行いを鑑みての発言だったのだろうが、そこだけは、どうあっても誤解されるわけにはいかなかった。あの葵がセフレなどと。恐ろしい。色んな意味で恐ろしい。
「本当に? じゃあ何で、彼女って断言しねえの」
ますます恭次は怪しんだらしい。墓穴だったか、と宗太は言葉を詰まらせる。
「いや、それは」
「兄貴さあ、いい加減ちゃんとしろよ」
頭の中で言い訳を練る宗太に、恭次は厳しい口調で言う。宗太は顔をしかめた。実家にいた頃から、何百回、何千回と聞いた言葉だ。
「またその話かよ」
「だって何回言っても、聞かねえじゃん。いつまでもフラフラしてんなよ。女遊びする暇あったら、ちょっとは祖父ちゃんの会社のこととか勉強しろよ、長男」
「な……っ、言っとくけどな、おれ、最近はすんごい女関係、真面目なんだからな!」
なんせ怖いのが監視しているから、と宗太は胸の内でこっそりと吐き出した。恭次は信用しているのかいないのか、「へーえ」と揶揄するような口調で言う。
「それは、彼女がいるから?」
「い……いや……」
宗太は口ごもった。ああここに葵がいたら、「きちんと肯定しろやコラァ!」と殴られてたのだろうな……なんてことが頭をよぎる。恭次はため息をついた。
「兄貴が、何を隠したがってるのかが分かんねえよ」
「違うんだよ。お前が思ってるよりずっと、事態は複雑なんだよ」
「二股? それとも三股?」
「いや、お前な……」
「もしくは、孕ませたとか」
「二股も三股もかけてないし、孕ませてもねえよ!」
「ほんとに?」
「一体、お前はおれを何だと思ってんだよ……!」
「女癖と頭が悪い駄目兄貴」
宗太は口を閉じた。あんまりな言い様なのに、反論できないのが歯がゆい。
その時であった。扉の向こうから玲奈の声が聞こえてきた。
「恭次くーん、恭次くん、何処にいるのー?」
宗太はホッとした。これは神の声だとすら思った。それと同時に、恭次が舌打ちをする。
「別に兄貴が何しようと興味はないけどさ。家族に迷惑かけんなよ」
吐き捨てるように告げて、恭次は部屋を出て行った。
宗太は、まずは深く息を吐き出した。とりあえず、ピンチを脱することが出来たようで良かった。安心したら、今度は遅れて怒りがやって来た。
弟の、あの口のきき方は何なのだろう。前からきつい性格だったけれど、ここまでだっただろうか。恭次がなんと言おうと宗太は兄なのだから、もっと尊敬されてしかるべきだ。……と思うが、口では絶対に勝てないので、強くは言えない。あまりの情けなさに何だか切なくなり、宗太はため息をついた。
それと同時に、また携帯電話が震えた。再び、葵からだった。宗太は念のため誰も聞いていないことを確認してから、通話ボタンを押した。はきはきとした、葵の声が耳に飛び込んでくる。
『もしもし、宗太さん? 度々ごめんな。台所なんだけどさ』
「うん、どうしたの、葵」
『……宗太さんがどうしたの。何か疲れてねえ?』
「いやあ、弟に叱られて……」
『あっはは、何て?』
「真面目に生きろって」
そう言うと、葵は、笑い声を大きくした。
『弟、良いこと言うね』
「良くねえよー。……ええとそんで、台所だっけ」
『そうそう。調味料入れなんだけど……』
それからしばらく彼らは、大掃除の話やら他愛のない雑談をした。会話が途切れ、そろそろ切ろうかなと宗太が思い始めたところで、葵がぽつりとこう言った。
『寂しい』
短いそのひとことは、宗太の胸に真っ直ぐかつ深くめりこんだ。思わず絶句してしまう。
『寂しい。寂しくて、死にそうだ』
「あ、いや……」
『ひとりで過ごす五分が長い』
「…………」
宗太は言葉を失った。部屋の時計を見る。今は何時だ。下宿を出てから、数時間しか経っていない。それなのに寂しいって、どういうことだ。
……とは、言えなかった。
『帰って来てよ宗太さん』
「む、無茶言うなよ」
『分かってるよ。言ってみただけ』
葵は存外あっさりと引き下がった。しかし宗太の今までの女性経験から言うと、こういう場合の「言ってみただけ」は本気であることが多い。いや、葵は女性ではないけれど。
宗太は咳き込んだ。家にひとり佇む葵の姿が浮かぶ。胸と喉がむずむずして仕方がない。宗太は頭を抱えたくなった。
ああ! 一体どうしろと! 言うんだ!
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