■冬ぬくし 03■
……結局宗太は、元旦の夕方には実家を後にした。毎年正月三が日は、家族揃って実家で過ごすのが暗黙の決まりごととなっていたので、口やかましい祖父と弟には見つからないように、こっそりと家を出た。
自分は何をやっているのだろう、と思った。弟も怖いけれど祖父はもっともっと怖いので、今までこんな風に家族の決まりごとを破ったことなんてなかったのに。後で絶対に叱られる。ああ、嫌だ。
それなのに今、宗太は早足で下宿のマンションへと向かっている。我ながら意味不明だ。負けた。完全に、葵に負けた。
宗太は白い息を吐き、頭をがしがしと掻いた。急に戻ったら、葵はびっくりするだろうか。びっくりするだろうな。いつも宗太の方が葵に驚かされてばかりだから、たまには逆も良い。そう思うと、ほんの少しだけ気分がよくなった。
そんなことを考えていたら、部屋の前に着いた。何故だか分からないが少し緊張してしまって、宗太は深呼吸した。上着のポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
扉を開く。宗太はぎょっとした。中は真っ暗だった。
「あ、葵?」
奥に向かって声をかけてみるが、返事はない。急いで靴を脱いで部屋の中に入った。電気も点けずに、何をしているのだろう。
えっ何、ひとり残した帰省したおれが悪いのもしかして?
と、胸がどきどきした。
「葵!」
勢いよく、寝室の扉を開ける。ここも真っ暗で、何も見えない。恐る恐る、電気を点けてみた。
……誰もいない。
部屋はきれいに片付いていた。宗太の散らかしていた教科書類や雑誌、衣類は何処にも見当たらない。葵が大掃除をしてくれたのだろう。しかし、その葵は何処にもいなかった。声をかけながら家中くまなく探したが、見つからない。
え、何、もしかして出掛けてる? おれ、ちょう急いで帰って来たのに、あいつ、出掛けてる?
葵が帰って来いと言うから帰って来たのに、この盛大な空振りはどうしたことだ。宗太は携帯電話を取り出した。ふつふつと腹の底が熱くなるのを感じながら、葵に電話をかける。
『もしもしー?』
葵は、七コール目で電話に出た。周りがザワザワとしてやけに騒がしい。宗太は、ふっと笑った。何だかもう、笑うしかない。
「もしもし……葵さん?」
宗太は極力声の調子を落として言った。そして寝室を出て、居間の床にどすんと腰を落とす。
『はいはい宗太さん。どうしたんだい』
「……葵さんは、今どちらにいらっしゃるのかな?」
『僕? 初詣に行って、福袋ハントに付き合ってるとこ……って、宗太さんは今何処?』
周囲が騒がしいので、葵は声を張り上げている。対照的に、宗太の周りはこの上なく静かだ。
初詣って。福袋って。何だそれ。何だそれ!
宗太は心の中で叫んだ。急いで帰って来たというのに、なんて理不尽な展開だろう。寂しいとか言ってたのは、何処のどいつだ。めちゃくちゃ年始をエンジョイしているじゃないか。
宗太は心底腹が立った。心配して損した。そんなことなら、もっと実家でのんびりしてくるんだった。
「おれ、もうマンションに戻って来てるんですけど」
ぶすっとして告げると、葵は 『えっマジでっ?』と、声を高くした。
『だってお前、三日に帰って来るって言ったじゃん!』
「きみが寂しい寂しい言うから、帰って来たんだろ!」
たまらずに叫ぶ。受話器の向こうで、葵が息を呑む気配がした。
『うそ!』
葵があまりに大きな声をあげるので、思わず宗太は電話から耳を少し離した。葵は興奮気味に、『うそ! うそ!』と何度も繰り返した。
『やっべえ、早苗ちゃんどうしよう! 僕ちょう愛されてる! 宗太さん、僕のためにもう帰って来たんだって!』
宗太はぎょっとした。早苗ちゃん! 早苗ちゃんと一緒なのか。そういえば、「福袋ハントに付き合ってる」と言っていた。福袋を買うのは、葵ではなく早苗ちゃんか。よく考えたら倹約家の葵が、福袋なんて買うはずがない。そういうことか。そういうことか!
「ばっ、馬鹿! 早苗ちゃんに余計なこと言うなよ!」
宗太はすっかり焦ってしまった。第三者がいるとは思わなかった。しかもそれが、早苗ちゃんとは。彼女に、この会話を聞かれるなんて最悪だ。
『うっそほんと!? 長谷川くんの癖にやるじゃん!』
受話器を通して早苗ちゃんの驚く声が聞こえて、宗太は死にたくなった。違うんだ、と叫びたい。
『分かった、そんじゃすぐ帰るね、宗太さん』
咳き込むように、葵は言った。宗太は慌てて首を横に振る。
「い、いや、良いよ! ゆっくりして来ればいいじゃん!」
『ううん、帰る!』
「良いってば!」
『だって宗太さんが、寂しさで熱出したら困るし! それじゃあね!』
そう言って、葵は一方的に電話を切ってしまった。
……葵は、本当にすぐに帰って来た。いつものように、宗太のジャケットを勝手に着ている。そして彼は部屋に入るなり、飛びかかるようにして宗太に抱きついた。一瞬息が止まる。直後、葵の纏う外気が頬を撫で、宗太はぞくりとした。
「ただいま! ごめんね宗太さん、待たせちゃって」
ここまで走って来たのだろう、荒い息を吐きながら葵は言った。その目が、いつもよりきらきらしているように見えた。宗太はなんともきまりが悪くなって、彼から目をそらした。
「……良いよ、別に。葵はおれを放って、早苗ちゃんと初詣行ってれば良いよ」
「もう、拗ねんなって!」
葵は、一層強く宗太を抱きしめた。
「大体、初詣とかおれも誘ってくれたら良いじゃん。何でそこで、おれをハブるの」
宗太は口を尖らせて抗議した。早苗ちゃんとふたりだけで遊ぶなんでずるい。
「ハブるつもりなんか無かったんだって。長谷川家がどういう風に年始を過ごすのか、分かんなかったんだもん。……でもそうだね、一声かければ良かったな。ごめんね、宗太さん」
葵はにこにこと上機嫌で、いつもよりずっと素直で優しい。そんな葵は珍しいので、宗太はますます落ち着かなくなった。
「きみが寂しいって言うから、帰って来たのに」
とかく文句が言いたくて呟くと、葵は宗太の手を両手でぎゅっと握った。そして額同士を擦りつけるようにして、宗太に顔を近づける。葵の大きな目が視界にまともに飛び込んできて、のけぞりそうになった。
「うん、寂しかった。宗太さんがいなくて、死ぬかと思った」
葵は真剣な表情と声音で囁く。吐息が宗太の肌にかかる。長い睫毛と濡れた瞳が宗太を射貫く。見慣れた顔のはずなのに、どきっとしてしまった。反則だ。そんな顔をするのは、反則過ぎる。
「僕のために帰って来てくれてありがとう。宗太さん愛してる」
「……良いよ、もう」
小さな声で言って視線を横にずらすと、「ああもう畜生! 可愛いなあお前って奴は!」と葵は嬉しそうに言って、勢いをつけて宗太を押し倒した。
「うわっ!」
思い切り背中を床に叩きつけられて、息が詰まった。
「ちょ……っ、ちょ……、待っ……!」
どうやらテンションが上がりきっているらしい葵をどうにか押しのけようと、腕を伸ばす。すると背後で、誰かの声がした。
「あらやだー。ほんとに、何だかんだでラブラブなんだねー」
感心したような声に、宗太はぎくりと硬直した。聞き覚えのある声だった。恐る恐る身をよじって玄関の方に顔を向ける。
「さっ、早苗ちゃんっ!」
宗太は悲鳴をあげた。玄関に、早苗ちゃんが立っていた。千鳥格子のコートがよく似合っている。彼女は両手に福袋を抱えていた。どうやら初売りの成果は上々だったらしい。
「いやあ、葵くんを連れ出したのあたしだから、ひとこと謝ろうと思ってついて来ちゃったんだけど、むしろそれがごめん、て感じ? お邪魔しちゃったね」
「いや……っ、あの……!」
口をぱくぱくさせる宗太に、早苗ちゃんはにっこりと微笑みかけた。
「もーやだ! 長谷川くんてば、ちゃんと葵くん上手くやってるんじゃない!」
「でしょ? 意外と愛されてるでしょ、僕」
葵が歯を見せて笑う。宗太は顔を青くした。違う、という前に、「やだーご馳走様!」と早苗ちゃんが歓声をあげる。
「だけど早苗ちゃん、折角誘ってくれたのにごめんね。これからご飯行くはずだったのに」
葵は宗太にのしかかったまま、彼女に向かってぺこりと小さく頭を下げた。
「良いよ良いよー。彼氏のが大事だもん。思う存分、ラブラブして頂戴な」
「また、埋め合わせするね」
「うん、今度またケーキ食べに行こうね」
「あの……早苗ちゃん……! おれの話も聞い……っ」
「長谷川くん、ほんとごめんね、葵くん借りちゃってて! そんじゃ、あたし帰るから」
「待っ……」
「じゃあねー! ばいばい!」
最後まで宗太の話を全く聞かず、早苗は帰ってしまった。宗太は、閉まりゆく玄関の扉を呆然と見つめた。
「さっ、早苗ちゃん……!」
宗太は涙声で呟いた。すると襟元に葵の手が伸びてきて、思い切り引き起こされた。宗太の脳に危険信号が走り、反射的に身体を硬くする。早苗ちゃんの名前を繰り返していたから殴られるのだと思って、宗太歯を食いしばった。しかし目の前の葵は、にこやかに笑っている。
「それじゃあ、宗太さん。飯にしよう」
「えっ?」
「何が食いたい?」
葵があまりにも目を輝かせるので、それにやや気圧されつつも宗太は答えた。
「ハ……ハンバーグ」
それを聞いて葵は幸福そうに、ほんとうに幸福そうに笑いながら頷いた。
おしまい! 一生やってろ!
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