■いないいない■
きっかけは、よく覚えていない。
宗太と葵は一週間で平均十回から十五回ほど喧嘩をするが、原因はいつも些細なことばかりだった。宗太の帰りが遅いとか、宗太が風呂場の電気をつけっぱなしにしていたとか。そんなことばかりだ。
だから今回も、もしかしたらそういう小さなことが原因だったのかもしれない。
だけどその日は、いつもより激しい口論になった。普段なら葵が宗太を一発殴って、問答無用で言い訳や反論を封殺するのだが、今回は珍しく、殴られても宗太が引き下がらなかった。
「何だよ、いっつも葵は暴力で解決しようとして!」
殴られて腫れ上がった頬をさすりながら、宗太が悲壮な声をあげる。葵はそんな宗太を見て、右頬をひくりと引き攣らせた。
「お前が言っても聞かないからだろうが。ちゃんと僕の言うこと聞くんなら、殴ったりしねえよ」
そう言って葵は、宗太の胸ぐらを掴んだ。宗太の喉から空気が漏れる。苦しそうな顔をしながらも、宗太は葵を睨みつける。
「その、上から目線の物言いが気に食わない!」
「何でお前が逆ギレしてんだ? あ?」
「い、痛い痛い痛い! あ……葵だって、おれの話、全然、聞かな、い癖に」
締め上げられて、切れ切れになりながら宗太が言うと、葵は眉を寄せた。
「聞いてるっつうの」
「嘘だよ……! いっつも一方的に自分の要求通すばっかで、おれの都合なんてお構いなしで」
「ガキか、お前は」
本気で馬鹿にしたような葵の口調と表情に、宗太の頭の中でパチンという音がした。
「出て行け!」
ほとんど無意識に、そう叫んでいた。一瞬、葵がきょとんとした顔をする。
「何だよ、こっちは好意で泊めてやってんのに! 何でおれが指図されなきゃなんないんだよ! そんなに文句ばっか言うんだったら、出て行けばいいじゃん!」
沈黙が流れた。
宗太は拳、もしくは足が飛んでくることを覚悟して肩に力を入れたが、いつまで立っても葵は動かない。それどころか、悲しそうに顔をしかめて細い吐息なんぞ漏らすものだから、宗太は肝を冷やした。
またいつもの、裏声で瞳うるうるでしなを作る、あの気持ち悪いキャラで来るのかと思った。暴力でねじ伏せられないと悟るやいなや、精神攻撃に切り替える気だ、と。
しかし、実際はそうではなかった。葵は宗太からそっと眼をそらすと、静かな口調でこう言った。
「宗太さん、それ、本気で言ってんの」
こっえええ! 葵、すんごい怒ってんじゃないの、これ!
脳に染み入る淡々とした声は、がなり立てられるよりも堪える。これは怖い。本気で恐ろしい。
しかし宗太は、今日ばかりは徹底的に抗戦するつもりであった。主導権の在処を明確にさせなくては、と勇気を奮い起こした。
「……勿論、本気だよ。だから」
追い出されたくなかったら、おれに文句言うな、と続けるつもりだった。しかし宗太がそう言うよりも早く、葵が口を開いた。
「分かったよ」
「え?」
宗太は、眉をひそめた。何だ、新手の精神攻撃か? と、思う。心臓が落ち着かなくなってきた。何だ。今度は一体、どんな方法でおれを苦しめようっていうんだ。
葵が宗太を、真正面から見据えた。つい今しがたまで彼の眼の中でめらめらと燃えていた怒りの炎は何処かに消え失せ、悲しいような、諦めたような色が浮かんでいる。
「分かった、って言ってんの。確かに、僕は居候の身だからな。お前に出て行けって言われたら、出て行くしかない」
葵はそう言って、すっくと立ち上がる。何故か、胸がどきっとした。全く予想だにしていなかった反応に、宗太は口をもぐもぐさせた。
「え、ちょ、葵?」
呼びかけてみても、葵は返事をしない。そして彼は無言で、クロゼットの中から初めて会ったときに着ていた巫女装束を取り出した。それを適当に折りたたんで両手に抱え、葵はそのまままっすぐ玄関へと向かった。
「え、あ、葵」
宗太はおろおろと、葵の後を追う。どうして良いのか、そして何を言って良いのか全く分からない宗太に、葵は礼儀正しく頭を下げた。
「短い間だったけど、お世話になりました」
また、胸がどきっとした。一体この「どきっ」の正体が何なのか、宗太には判別できなかった。葵はゆっくりを頭を上げたが、宗太は彼の眼を直視する勇気がなかったので、下を向いた。
「宗太さん」
「な、何」
名前を呼ばれて、足下を見つめたまま返事をする。
「愛してるぜ」
どきどきっ、と心臓と胃が蠕動した。
宗太が顔を上げるのと同時にバタンと音がして、玄関の扉が閉まった。もう、そこには葵はいなかった。
こうして葵は出て行った。
それから一時間経っても、宗太の胸は、どきどきし続けていた。この、どきどき、の正体が「罪悪感」であると気付くまでに、大して時間はかからなかった。
「え……えーと……。何だ今の……。え、おれが悪い、の?」
宗太は居間のソファに座って、ぶつぶつと独り言を言い続けた。さっきからずっと、そわそわして落ち着かない。すぐ追いかけたら追い着いたかも……と一瞬考えたが、すぐにその考えを打ち消した。
「いやいや、何でおれが追いかけなきゃなんないの。恋人でもなんでもないっての。それに何で、おれが罪悪感を感じなきゃなんないんだよ。葵が勝手に転がり込んで来ただけなんだから、同居する義務なんて何もないんだし」
胸のどきどきを打ち消すために、宗太は一人で喋り続けた。そうしていると、出て行けと言ったのは至極真っ当なことに思えてくる。
「……うん、そうだよ。これが自然な形だよ。彼女と住むために、ってこの部屋借りたのに、何で気がつけば男と二人で暮らしてるんだよ。しかも、葵ってすぐ怒るし殴るしうるさいし……」
宗太は、そこで言葉を切った。今まで葵から受けた、理不尽な仕打ちや暴力が次々に思い出され、段々腹が立ってきた。
「良かったんじゃん。おれ、良かったんじゃん。あんなにしつこかった奴と、スパッと手が切れたんだ。自由だ。自由だよ、おれ。女の子と遊んでも怒られないし、夜も時間気にしなくてもいいし、いちいち報告の電話とかしなくていいし、コンパ行ったって良いんだ!」
すげえ! 自由万歳!
……と、宗太はガッツポーズをした。が、直後、ある疑問が頭の中にポンと落ちてきた。
「……葵、ここを出て、何処行くんだろ」
この家を出たら、路頭に迷う……と、以前葵が言っていたことを思い出した。消えかけていた、胸のどきどきが復活する。
「……ああ、ほら、あれだ。早苗ちゃんと仲良いじゃん、あいつ」
しかしすぐに、早苗が実家暮らしであることを思い出す。流石に、男を住まわすことは出来ないだろう。
その次に浮かんだのは、宗太のかつての恋人、夕子の顔だった。葵は何故か、彼女とも仲が良かった。だけど夕子は今、認めたくないけれど、心底認めたくないけれど、新しい彼氏がいるはずだ。ということは、夕子のところにも行けないのではないか。
どきどきどき。
宗太の心臓が、不穏に揺れ動いた。
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つづきます!
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