■ば■


 葵が出て行って、三時間が経過した。

  時計の針は、夜の十時を指している。宗太はこの三時間、ずっとそわそわどきどきしていた。何で自分がこんな気分にならないといけないんだ、と思うのだが、そわそわどきどきは治まらない。不安と罪悪感と、いややっぱりおれは悪くないよという自己弁護が交互に押し寄せて、たまらなくなる。

  宗太は五分おきに携帯を開くが、葵からの連絡は一切ない。何度か葵に電話をかけそうになったが、いや、こちらから連絡すると葵が鬼の首を取ったように増長するんじゃないか、と思いとどまった。


 葵が出て行って、四時間が経過した。

  宗太は、夕食を食べていないことに気付いた。そういえば、ここ最近は葵が用意してくれていたのだった。葵は料理が上手かった。めんどくせーめんどくせーと言いながら、毎日きっちりと三食用意してくれる。レパートリーも豊富で、飽きが来ないように工夫しているようだった。葵の料理があんまり美味いものだから、宗太は外食する機会が減った。  

  いかんいかん、と宗太は首を横に振った。その思考展開は危険だ。もう少しで、「帰って来て欲しい」などと思ってしまうところだった。それは違う。断じて、そんなことは思っていない。

 ぶつぶつ言いつつ、宗太は携帯を開いた。やっぱり、葵からの連絡は無しだ。宗太は一人で悶々としていることに耐えられず、早苗に電話をかけてみることにした。

  五コール目で、早苗は電話に出た。周囲が騒がしい。屋外にいるようだ。

『もしもし?』

「あのー、早苗ちゃん? 長谷川ですけど」

『はいはい、何ですか』

 早苗の口調は、いつもどおりだった。

「ええーと……、今さあ……。そこに、葵、いる?」

『え、葵くん? いないよ?』

 何でそんなこと聞くの、とでも言いたげな調子である。意外だった。葵はきっと真っ先に早苗に連絡をして、宗太の愚痴を思うさま吐き散らしていると思ったのに。

「ああー……。そう」

 と言うと、すぐに『何かあったの?』と返ってきた。本当に、何も知らないようだった。葵は彼女と一緒ではない。では一体、彼は何処にいるのだろう。

『長谷川くん? 葵くんに何かあったの?』

 早苗の声に、宗太は我に返った。そして、相手に見えるわけでもないのに、勢いよく首を横に振る。

「え、いやいやいや。何もないけど」

『嘘。何もない、って感じじゃないじゃん。どうしたの、喧嘩?』

  早苗は引き下がらない。こうなると、しゃべらないことには彼女は解放してくれない。宗太は観念して、ぼそぼそと言った。

「いやあ、喧嘩っていうか……。話の流れで、出てけって言ったら、ほんとに出て行っちゃった、っていうか」

『えええーっ!』

 彼女の叫びが耳の奥に勢いよく突き刺さって、宗太は反射的に電話を耳から離した。

『長谷川くん、葵くんを追い出したの!?』

 その言葉に宗太の胸がまた、どきっと鈍い音を立てる。

『酷い。信じらんない。最低。そんな人だと思わなかった』

 次から次へと放たれる言葉が、宗太の胸を正確に貫いていく。そこまで言わなくても、と思いつつも、反論することが出来なくて宗太は胸を押さえた。

『それで、葵くんに連絡してみたの?』

「いや、してな……」

『しなさいよ!!』

 電話機が壊れるかと思う程の怒声だった。宗太は再び電話を遠ざけたが、それでも耳と頭がキンキンした。

「早苗ちゃん、怖いよ……! だ、だから、とりあえず早苗ちゃんのとこ行ってないかな、って思って電話してみたわけで」

『私より先に、葵くんに電話しなさい! それで謝って、帰って来てもらいなさいよ』

「や、やだよ! おれ、絶対謝んないから!」

 だってあいつも酷いもん、と続けると、早苗はわざとらしく大きなため息をついた。

『……何か、葵くんも同じこと思ってそう。男カップルは、どっちも譲らないとこが駄目ね』

「あの、早苗ちゃん。おれら、カップルじゃないからね……?」

『でもここは、長谷川くんが折れないと』

 早苗は、宗太の言葉をあっさり無視して続けた。彼女の誤解を解ける日は来るんだろうか、と宗太は不安になった。日々頑張って彼女にアピールしているのに、全く振り向いてくれないどころか、自分のことをゲイだと思われているなんて、悲惨過ぎる。

「でもさあ、あいつもほんとに酷いんだよ。すぐ殴るし。部屋の電気消し忘れてただけで、馬乗りになって顔面殴ったりするんだよ。有り得ないよ。ほんと怖いんだよ」

『その辺は、帰って来てもらってから話し合いなよ。葵くんって、実家から追い出されたんでしょ? その上彼氏からも追い出されるなんて、可哀想すぎだよ』

「えっ? 葵、実家から追い出されたの?」

 宗太は、素っ頓狂な声で聞き返した。そんな話は、全く聞いたことがなかったからだ。彼氏、という部分を否定するのも忘れるくらい、びっくりしてしまった。

『えっ、葵くんから聞いてないの?』

 早苗も驚いたように言い、それを聞いて宗太は何となく胸がモヤモヤするのを感じた。

「聞いてないよ、そんなの」

『あー……。いや、私もそんなに詳しくは聞いてないんだけど』

 フォローするような口調で言われて、宗太は更にモヤモヤした。

  ……何だ何だ、早苗ちゃんには込み入った話も出来るけど、おれには出来ないっていうことか。何だか腹が立つ。

 よく考えたら、宗太は葵のことを何も知らない。生い立ちは勿論、勝手に「長谷川葵」なんて名乗っているけれど本当の名前は何というのか、それに正確な年齢すら知らないのである。

  早苗は、全部知っているのだろうか。そう思うと、ますます腹が立ってくる。自分のことは何ひとつ話さないくせに、宗太に対しては門限や交友関係や行動範囲を隅々まで管理して、少しでも気に入らないことがあれば、すぐに殴る。何て酷い奴なんだ。信じられない。

  しかも葵はそんな理不尽な行いをしておきながら、「愛してる」などと言う。嘘つけ、と宗太は思った。愛してるなんて、絶対嘘だ。

『えーと……。それじゃ私、ちょっと葵くんに連絡してみるね? また、後で連絡するから』

 宗太が黙り込んだので気まずくなったのか、自分の発言を後悔しているのか、早苗はやけに優しい声でそう言った。

「別に良いよ、葵なんかに連絡しなくても」

 宗太は吐き捨てて、通話を切った。そのままテーブルの上に携帯を投げ出し、ソファに寝転んで天井を見上げる。

「ああーもう、心配して損した!」

 考えるより先に、言葉が口を突いた。そして直後、自分が酷く空腹であったことを思い出す。もうあんな奴のことは放っておいて、飯を食おう。そう思って、立ち上がった。

 一人暮らし用の小さな冷蔵庫の中には、葵が買い込んだ食材がぎっしり詰まっている。それを見るだけで胸がむかむかしてきて、宗太はすぐに冷蔵庫の扉を閉じた。棚の中に買い置きのカップラーメンがあったので、それで遅い夕食にすることにした。

 テレビを見ながら熱い麺をすする。しかし、テレビの内容は全く頭に入って来なかった。

 葵くん、実家から追い出されたんでしょ?

 という、早苗の言葉が脳裏に蘇る。そして続いて、宗太が「出て行け」と言った直後の葵の顔が浮かんだ。あのときの葵は、諦めたような表情をしていた。そして、やけにあっさりと出て行った。早苗からあんな話を聞いた後では、あのときの彼の眼は「お前も僕を追い出すのか」とでも言っていたような気がしてならない。

 どき……と、三度宗太の胸は疼いた。手の指先が落ち着かない。自分のことが、にわかに残虐非道な人間に思えてくる。

「い、いやいや! 違うよ。悪いのは葵だよ。そうだよ!」

 宗太はさっさと食事を終えると、もう寝ることにした。

 いつもの癖で、自分のベッドの横に敷いてある布団に入ろうとして、ぶんぶんと首を横に振る。

「何やってんだ、おれは! 自分のベッドで堂々と寝ていいんだって!」

 自分に言い聞かせるように言葉を噛み締めて、ベッドに上がる。大体、何で居候の葵がベッドを使って、本来の持ち主であるはずの自分が、布団で寝ないといけないんだ。おかしい。その辺も、絶対におかしい。そう考えると、また腹が立ってきた。

 宗太がベッドに入ると同時に、早苗からメールが来た。

『葵くんと、連絡取れないよー。何処にいるんだろう……』

 とある。宗太はそれを見てまた、どき……としかけたが、今度は怒りの方が勝った。

『もういいよ。早苗ちゃんも、気にしなくていいから』

 と、さっさと返信して、部屋の電気を消した。


 久々に自分のベッドで、気持ちよく、ゆっくりと寝られる。……はずが、一向に眠れる気配がやって来ない。数秒おきに、出て行く直前の葵の表情が浮かんでくる。更に、外はめちゃくちゃ寒そうだけど、葵は上着を持って行ってたっけ……? とか、そもそもあいつって、金は持ってるのか……? とか、考えなくてもいいことが次から次へと浮かんでくる。

「あーもー消えろー消えろー」

 宗太は暗闇の中でそう繰り返し、葵の姿を追い払うように手を振り回した。しかし葵の幻影は、しつこく宗太の脳にからみついて離れなかった。