■あ■
……翌朝、宗太は熱を出した。
目覚めた瞬間、これは駄目だと一発で分かった。何故だ、と思う。久々に自分のベッドで寝たのに。床で寝るよりも、よほど暖かいはずなのに。納得がいかない。納得はいかないが、出てしまったものはしょうがない。
「う、う……」
宗太は呻きながら、寝返りを打った。関節がミシミシと痛む。よりにもよって一人のときに熱を出すなんて、最悪だ。
意味もなく、手を伸ばしてみた。シーツと空気しか、触れるものがない。水も冷却シートも風邪薬も、何もかもが遠い。泣きたくなってきた。
意を決してベッドから這い降り、そのまま匍匐前進で台所に向かい、どうにかペットボトルの水を手にした。そのまま再びズルズルと寝室に戻り、ベッドに這い上がった。直後、冷却シートと風邪薬を取りに行くのを忘れていたことに気が付いた。しかし、もうこれ以上身体が動く気がしなかったので、諦めた。とりあえず、水をがぶがぶと飲む。冷たすぎて、少しむせた。宗太はまた、泣きたくなった。
布団の中に入り、枕元に放ってあった携帯電話を開いた。着信はゼロ。メールもゼロ。葵からの連絡は無しだ。薄情者! おれがこんなに苦しんでるのに! と、身勝手なことを胸の中で叫ぶ。そして彼は緩慢な動作で、メール作成画面を開いた。頭がガンガンして、ディスプレイを凝視するのも辛かった。
ふと気がつけば、無意識にメールの宛先を葵に設定していた。葵に何てメールするつもりだ、と自問する。謝るのは嫌だ。帰って来てくれ、と懇願するのも絶対に嫌だ。
「ううう……」
意味不明な重低音を口から発する。熱のせいで、頭が全く働かない。結局彼は、
『かぜひいたー』
とだけ打ち込んで、メールを送信した。漢字変換する余裕すらない。葵は物凄く世話焼きだから、これで帰って来るはずだ、と決め込んで眼を閉じた。
……しかし、それから二時間経っても葵は帰って来ない。それどころか、メールの返事すら返って来ない。おいおいおい、と思った。愛してるとか嫁になるとか言ってたくせに、無反応とはどういうことだ。惚れた男の体調を心配して、すぐに飛んで帰ってくるのが筋じゃないのか。もういい。あんな奴、知るものか。宗太はひとりで腹を立てた。
そうだ、看病してもらうのは葵でなくても良いんじゃん。 ややあって、宗太はその結論に達した。
携帯を手に取る。もう一度、念のためにメールセンター問い合わせをしてみるが、やっぱり葵からのメールはなかった。軽く舌打ちをして、今度は早苗に電話をかける。
『長谷川くん、あのあと葵くんと連絡取れた?』
彼女の第一声がそれで、宗太は酷くテンションが下がった。
「いいよ、葵の話は……。あいつは、おれが倒れようが死のうが、どうでも良いんだよ。酷い奴なんだよ」
『何、何の話してんの?』
「早苗ちゃーん……。風邪引いて動けないんだよー。助けて……」
力ない声でそう言うと、早苗からは間髪入れずに
『葵くんは?』
と返って来る。彼女は飽くまでも、葵にこだわる。宗太はため息をついた。
「帰って来てないし、連絡も取れない……」
『そっか……。何処行ったんだろうね、ほんとに……』
「別に、何処でもいいよ」
『何いじけてんの。昨日のこと、まだ根に持ってんの?』
「いじけてないし、根にも持ってないよ」
その直後、宗太は激しく咳き込んだ。受話器の向こうで早苗が、やれやれ、とでも言いたげな息を吐く気配がした。
『はいはい、そんじゃ今から行くね。二十分くらいで着くと思うから、もうちょっとだけ我慢して』
「うん、待ってる……」
宗太は、少し幸せな気持ちになって電話を切った。やっぱり、早苗ちゃんは優しい。誰かさんとは大違いだ。葵なんかより、断然早苗ちゃんと一緒に暮らしたい。
熱で破裂しそうな頭でぼんやりとそう考え、宗太は眼を閉じた。眠っているような起きているようなふわふわの状態で、色んな夢を見た。それは子どものときの夢だったり、夕子にふられたときの夢だったり、葵と喧嘩したときの夢だったりした。
鈍くて熱い浮遊感の中を漂っていると、ひやりとした冷たい手が額に置かれる感触がした。気持ちがいい。そういえば、前にもこんなことがあった。そうだ、そのときは間違えて夕子、と呼びかけて殴られたのだった。今度は間違えないようにしないと、間違えないように……。
「あお、い……」
そう呟いてから、宗太はハッと気が付いた。急に頭がはっきりする。
違う。葵は今、いないんだ。そう、早苗ちゃんが来てくれることになっていたのだった。早苗ちゃんの前で、熱で浮かされてたとはいえうっかり葵の名前を呼ぶなんて、最低だ。違う。違うんだ早苗ちゃん! 今のは誤解だ!
そう弁解しようとして、宗太は勢いよく起き上がった。冷たい手がびっくりしたように引っ込もうとするのを、両手で捕まえる。そしてその華奢な手を強く握りしめて、自分の方に引き寄せた。
「違うんだ!」
大声で言ってから、宗太は自分の目の前にいる人物の顔を見た。そして、固まってしまった。
そこにいたのは、巫女装束姿の葵だった。
葵は大きな眼をぱちぱちさせて、宗太を見つめている。
「あ、あお……い?」
「何だい、宗太さん」
震える声で宗太が言うと、葵はにっこりと笑った。装束と、歯の白さが眩しい。宗太は混乱した。
「え、葵……? え、何で? あれ、葵?」
「うん、葵だよ。宗太さん、ちょっと落ち着けよ」
葵は、おかしそうに言う。宗太は、まだ訳が分からない。ここにいるのが葵だということは理解したが、それ以外のことは、何一つ分からなかった。疑問が次から次へと頭に押し寄せてきて、パンクしてしまいそうだ。
「……今まで、何処にいた、の?」
やっとのことで、それだけ口にする。すると葵は、あっさり答えた。
「ずっと、早苗ちゃんのとこにいたよ」
「え、ええっ? だって早苗ちゃん、葵の居場所は知らない、って」
「早苗ちゃん、演技上手いよねー」
「な」
宗太は絶句した。演技? 昨日の電話で、葵がいなくなったなんて初めて聞きました、というような素振りだったのは、全部演技? 何ということだろう。完全に騙された。早苗ちゃんが、そんなことをするなんて。女って怖い。宗太は低く呟いて、がっくりと首を垂れた。
「で、宗太さん。手を握ってくれんのは嬉しいんだけどさ、とりあえず寝ときなよ」
そう言われて、葵の手を握りっぱなしだったことに気が付き、慌てて手を離す。
「ち、違う! きみの手を握ったわけじゃない!」
「何だそれ。意味分かんねえよ」
笑う葵から眼をそらすようにして、宗太はベッドに潜り込んだ。また、額にひやりとした感触が覆い被さってきたので、一瞬びくっとしたが、今度は葵の手ではなく冷却シートだった。
シートを貼り終わると、葵は宗太の顔をのぞき込んで嬉しそうに笑った。それが何だか落ち着かなくて、宗太は何でもいいから喋ろう、と思った。喋って、この落ち着かなさを何とかしよう。
「……ねえ、葵」
「何だい、宗太さん」
「昨日ずっと早苗ちゃんと一緒にいたってことは、もしかして電話の内容とかも聞いてたってこと?」
「うん、ばっちり全部聞いてたよ」
「さ、最低だ! 盗み聞き反対!」
声を荒げると、ぺちりと額を叩かれた。
「熱あんだから、大声出すなよ。ポカリ買ってきたけど、飲む?」
「……飲む」
宗太は差し出されたポカリを受け取って、ひとくち飲んだ。……美味い。全身に染み渡るようだった。ポカリに感動しながら、宗太は、物で誤魔化されているような……と、ちらりと思った。
「……いやあ、昨日はさあ、宗太さんてば僕より先に早苗ちゃんに電話したじゃん? あのときはもう、どうやって殺してやろうかと思ったよ」
押し殺した口調で言う葵に、宗太の背中に寒気が走った。熱による悪寒とはまた違う種類の、凄みのある冷たさだ。宗太は無意識の内に、ペットボトルを力一杯握りしめていた。しかしそこで、葵は表情をゆるめた。
「でも、その後に宗太さんの可愛く嫉妬するとこが聞けたから、まあ良いんだけどね」
嫉妬って何のことだ、と反論しようとしたけれど、すぐに思い当たった。自分の知らないことを早苗が知っていて、子どものように不機嫌になった、あれのことを言っているに違いない。宗太は死にそうなくらい恥ずかしくなった。何であんな態度を取ってしまったのだろう、と心の底から後悔する。
「あ、あれも、きみらの仕込みかよ……!」
恨みを込めて葵を睨むと、彼は「ううん」と言って否定した。
「あれは本当に、早苗ちゃんがうっかり言っちゃっただけ。でもさ、別に宗太さんには隠しとこう、とか思ってたわけじゃないんだぜ。知りたいんなら、いつでも教える」
「……いいよ別に。興味ないし」
なるべく興味なさそうに言ったのに、葵は笑顔になって宗太の髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜた。
「何だよお前は。可愛いなあ、もう」
それからにやにや顔のまま、葵は続ける。
「ねえ、宗太さん」
「何だよ」
「宗太さんさあ、風邪引いたってことを、早苗ちゃんより先に僕に連絡してきたよね」
それは、熱で浮かされてたから……と言おうとしたが、言葉の代わりに激しい咳が喉を突いた。身体を丸くして咳き込む宗太の背中を、葵は優しくさすった。
「しかも文面がさあ、『かぜひいたー』だよ。これはもう、早苗ちゃんともどもウケたねー」
声を上げて無遠慮に笑いながら、葵はそんなことを言う。宗太は再び咳き込んだ。
「ほんとは一週間くらい消えて、お前の頭冷やそうと思ってたのにさ、あんなメール送られたらもう帰るしかないじゃん」
「別に、帰って来いなんて書いてないじゃん」
「まーた、そういうことを言う。一人でいるのが寂しくて不安で、熱出したくせに」
宗太さんは寂しがり屋だもんなー、と小さい子をあやすように言われて、宗太は憮然とした表情で黙り込んだ。そうじゃない、と百パーセント否定出来ないところが、苦しい。葵はまた、嬉しそうに笑った。
「……ねえ、葵」
「何だい、宗太さん」
「おれのメール見て、何ですぐに帰って来なかったんだよ」
「ごめんごめん。まさか宗太さんが一晩も保たないと思ってなかったから、早苗ちゃんとちょっと遠出してたんだよ。これでも、急いで帰って来たんだぜ」
「何だよ、それ……。ほんとに、心配するんじゃなかった。損した。おれの罪悪感と不安を返せ」
「そんなに、僕がいなくなって心配した?」
宗太の言葉に、葵は声を弾ませた。喜ばせてしまったことが悔しくて、宗太は首を横に振った。
「心配なんかしてないよ、全然。するわけないじゃん」
「何だよ、さっきと言ってること全然違うじゃん」
そう言いながら、葵はにこにこしている。宗太は少しほっとした。何に対してほっとしたのかよく分からなかったけれど、とにかくほっとした。多分、熱で訳が分からなくなっているのだと思う。宗太は、そう納得することにした。
「じゃ、おかゆでも作ろうかな」
と言って、葵は立ち上がりかけた。しかし、天井を見て何かを考えるような表情になり、再びベッドの側に腰を下ろす。
「ねえ、宗太さん」
葵は、宗太の眼を覗き込んだ。その表情からは先程までの笑みは消えていて、宗太は少したじろいだ。大きすぎる彼の眼は、笑っていないと妙な凄味がある。
「な、何」
「僕は、ここにいてもいいのかな?」
「……行くとこないなら、いてもいい、って前に言ったじゃん」
小さい声でそう言うと、葵は満開の笑顔で宗太の髪の毛をかきまぜた。
「僕は、お前のそういうとこが好きだぜ」
おしまい
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