■流れ星 01■


  夜空に瞬く星が、目と傷にしみる。

 冬の冷たい風に吹かれながら、長谷川宗太はとぼとぼと道を歩いていた。白い息を吐いて、頬の引っかき傷にそっと触れる。そこだけ熱を持っていて、じりじりと痛んだ。

「はあ……なんて恐ろしい女なんだ……」

 宗太は同棲中の彼女の、先ほどの形相を思い出して身震いをした。

 トイレの便座を三回連続下ろしていなかった。

 ……という理由で、彼女は突然烈火のごとく怒り出した。
毎日丹念に研いでいる長い爪で宗太の顔を思いきり引っかいた上、馬乗りになって殴ろうとするので、命からがら逃げ出して来たのだった。

「便座が下りてないんなら、下げればいいだけの話じゃん……」

 一際強い風が吹いて、今度は寒さに体を震わせた。
咄嗟にジャケットを掴んで来たのは、我ながらファインプレーだった。
それでも寒いが、これがなかったら死んでいた。

 ……これからどうしよう。

 今戻るのは危険だ。しばらく時間を置いて、彼女の頭が冷えるのを待とう。
ある程度時が経てば、彼女もやり過ぎたと我に返ってくれるはずだ。

 宗太はジーンズの尻ポケットに手を突っ込んだ。
財布が入っていることを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
駅前のマクドナルドにでも行って、しばらくしたらコンビニでケーキを買って帰るか……。

 そこまで考えて、宗太は急激に虚しくなってきた。
トイレの便座ごときで、自分は一体何をやっているのだろう。

 空を見上げる。満天の星……とはいかないが、ところどころで瞬く星が美しい。

 そういえば彼女と付き合うようになって、初めて二人で行ったのはプラネタリウムだった。あの頃は彼女も優しかった。宗太のことを「宗ちゃん」なんて呼んで、手を繋ぐのも恥ずかしがっていた。

  そんな時代もあったのに、一体何が彼女をあそこまで凶暴にしてしまったのだろう。  

  その時、星のひとつが尾を引いて、すうっと空を流れていった。

「あっ! 流れ星!」

 と声を上げている内に、流れ星は消えてしまった。

「あー……。願い事すればよかったなあ。あっと言う間に消えんだもんなあ」

 だけど流れ星はそこがいいよなあーと、宗太は呟いた。寒いので、足だけでなく口も動かさないと辛くてしょうがない。

「なんていうかこう、儚さっていうかさあ……。そう、そうだよ。彼女に足りないのは儚さだよ。あーあ、流れ星、もっかい来ないかなあ」

 彼は舌打ちをした。そしてその直後、再び星が流れた。宗太は、大きな声で願い事を唱えた。

「夕子が優しくなりますように! 夕子が……やっぱ、無理か」

 一回も言いきらない内に、流れ星は消えてしまう。宗太はその場に立ち止まった。

「もいっちょ来い! もうっちょ!」

 威嚇するように、夜空に向かって手をぐるぐると回す。それを見ていた訳ではあるまいが、みたび夜空を星が横切った。

「夕子が優しくなりますように夕子が優しくなりますように夕子が優しくなりますように! っしゃあ!」

 見事三回言い切った宗太は、大きくガッツポーズを作った。
素晴らしい達成感が、胸を満たす。その瞬間だけ、寒さを忘れることができた。

 彼の願い事を聞いてくれた流れ星は未だ消えず、へろへろと夜空を斜めに走っている。

「……うん? 流れ星って、こんなに消えないもんだっけ?」

 不審に思った宗太は、目を細めて星を注視した。
よく見ると流れ星は、まっすぐではなく蛇行しながら空を流れている。
流れ星というのは、そういうものだっただろうか。

 何だこれ、と更に目を凝らすと、挙動不審だった流星がその場でくるくると円を描き出した。

「えっ、うわ! 何だこれ!」

 そうかと思うと、今度は上に向かってひょろひょろと昇っていく。明らかにこれは流れ星ではない。では、一体何だ。

「うわ、うわ。写メしないと、写メ!」

 彼は興奮しながら携帯電話を探すが、部屋に置いてきてしまったようだった。
こういうときに限って、と地団駄を踏んで視線を夜空に戻す。
不審に動き回る星らしき光は、先程よりも大きくなっているようだった。

「大きくなってるっていうか……こっち来てる!?」

 その言葉が終わるか終らないかの内に、握りこぶし大の光が物凄い速さでこちらに向かってきた。
星だと思っていたものは随分と小さく、空よりももっと近いところを飛んでいたようだった。

  光は、宗太の鼻先で止まった。突然目の前がまぶしくなったので、宗太は反射的に目を閉じた。

「あっひゃひゃひゃ、あははひゃひゃ!」

 何処からか、到底正気とは思えない甲高い笑い声が聞こえてきた。

 何だ何だ。何が起こってるんだ。

 意味不明の事態に恐怖を覚えながらも、彼はそろそろと目を開けた。
そこで彼は、信じられないものを目にしたのだった。

 光の中で、手のひらサイズの少年が腹を抱えて笑っている。
まじまじ見詰めていると目が慣れてきて、彼の髪の毛が強烈な青であることが分かった。そして、小さな少年の背中から、美しい蝶の羽根が生えていることも。

  彼の放つ光のおかげで、周囲が昼間のように明るくなった。

「え……な、何……? 妖精……?」

 昔絵本で見た妖精そのままの姿に、宗太は息を飲み込んだ。すると妖精は、両手をばたつかせて大笑いした。

「あっひゃひゃひゃ、どうもどうも! こんばんは!」

 ほの赤い顔で上機嫌な妖精の様子は、ひとことで言うと「酔っ払い」だった。何処からどう見ても、酩酊状態だ。酔っ払いの妖精。一体これは何事だ。

「おれ、頭おかしくなった……?」

 戸惑う宗太を見て、妖精はまた

「あひゃひゃひゃひゃ!」

 と笑い転げた。何が面白いのか、さっぱり分からない。

「大丈夫ダイジョーブ! 世の中みんな頭おかしいからッハッハッハ!」

 妖精の甲高い叫びを聞いて、ようやく宗太の頭に「やばい、逃げないと」という考えが湧いて来た。

  これが幻覚でも幻覚じゃなくてもやばい。速やかにこの妖精を視界から消して、現実に戻ることが先決だ。

「あひゃひゃひゃひゃ!」

 尚も笑い続ける妖精と目を合わせないようにして、宗太は全速力で走り出した。

「ストップ!」

 数歩も走らない内に、妖精の鋭い声が飛んで来た。そしてその声が耳に入った瞬間、宗太の身体はぎくっと固まった。走ろうとしているのに、体が全く動かない。

「まま、逃げない逃げない」

 くすくす笑いながら、妖精がまた眼の前まで飛んでくる。酒の匂いが鼻を突いた。相当飲んでいるようだ。

「何だよこれ、おまえ一体、何者だよ……!」

 口は動くが、それ以外は全く駄目だった。指一本動かすこともかなわない。

  妖精は楽しそうに、機敏な動作で敬礼をした。

「自分はピコカン! 信頼と実績のブランド! 萌えを司る妖精であります!」

「萌えを司る……?」

「そういう貴様は何者だ!」

 ピコカンと名乗る未確認飛行物体は、勢いよく宗太の顔を指差した。

「お、おれは、長谷川……」

 言いかけたところで、ピコカンは大声で

「ああああっ!」

  と叫んだ。宗太は口を噤む。酔っ払い妖精は何処からか書類の束を取り出し、物凄いスピードでそれを繰り出した。

「あなた、さてはアレですね! 限定スペシャル企画、"萌えっ子ドン☆DON"当選者の!」

「は……はあ……?」

「これだ! 石田恭介! 二十一歳独身! そうでしょう!」

 自信満々に言い放ち、赤ら顔の妖精は胸をそらす。

「い、いや……年齢は合ってるけど……。誰よ、石田恭介って」

「あれ、違います?」

「違うよ。おれ、長谷川宗太だもん」

「はせがわそうた?」

「うん」

 宗太は頷こうとしたが、それも出来なかった。
ピコカンはしばらくの間、きょとんとした表情で瞬きをしていたが、やがて爆発したように笑いだした。

「あっひゃっひゃっひゃ全然違うんでやんの! 長谷川! 長谷川だってよ! ひと文字もあってねえよ! あ、恭介と宗太の『う』が合ってっか! あっひゃっひゃっひゃ!」

 見た目は可愛らしい妖精が、裏返った声で狂気じみた笑い声をあげている……。それはとてつもなく異様な光景だった。子どもが見たら泣き叫びそうだ。

「まあいいや、長谷川くんね! そんじゃきみ当選者! ハイおめでとうー!」

「え、えええ? 何の話かさっぱり分かんない……っていうか、あの、体動かないの何とかして欲しいんだけど……」

「あ、そうだったそうだった。逃げても無駄って分かったよね。おとなしくしてなきゃ駄目だよ。そんじゃ……動いていいよ!」

 ピコカンの一声の直後、呪縛が解けた。
強制力を失った宗太の体はその場に崩れ落ちた。寝ている間にベッドから落ちたときの感覚に似ていた。

「あたたた……」

 道にしたたか打ちつけた膝をさすり、宗太は立ち上がった。視界の真ん中を、妖精がぶんぶん飛び回っている。

「そんなわけで長谷川くん、限定スペシャル企画"萌えっ子バン☆BAN"に当選したわけだけど!」

「あれ? さっきはドン☆DONって言ってなかった?」

「やかましい! とにかく当選だ! 分かったか!」

「は、はい」

 勢いに呑まれて、宗太はつい頷いてしまった。そしてすぐに後悔した。
訳の分からない企画に当選しただなんて、金銭の絡む詐欺だったらどうしよう。
妖精が詐欺を仕掛けるか? とも思うが、このピコカンの雰囲気は常軌を逸している。何が起こっても不思議ではない。

「よーし、いい子だ。では早速、長谷川くんにプレゼントを差し上げようと思う!」

「いや、いらないんだけど……」

「やかましい! 萌え属性をひとつ言いたまえ!」

 先ほどから、妖精の口調は有無を言わせない。
どうしてこんな奴につかまっちゃったんだ、と宗太はげんなりしてきた。
北風は容赦なく吹きつけて来て寒いし、腹も減ってきた。

「萌え属性って言われても……」

「何かあるでしょう? ネコ耳とかキリン耳とか」

「キリン耳て何だよ……。んーそうだなあ……」

 宗太は震えながら考えた。とにかくここは、何か答えないと。
そうでないと、いつまでも解放してもらえない。
ジャケットでは防ぎきれないほどに、風が強くなってきた。このままでは、風邪を引いてしまう。

 萌え属性。悪鬼羅刹のような夕子の顔が浮かんだ。
違う。
あれは違う。
もっとこう清楚で可憐で、流れ星のように儚げな……。

「ええとそれじゃ、巫女さんとか……」

 なんとなく思いつきでそう答えると、ピコカンは顔を輝かせた。

「巫女ですね! それでは長谷川くんに、巫女さんを差し上げちゃいますよ!」

「え、差し上げるって……生身の巫女さんを?」

「そうですよう。生身ですよう。触れちゃいますよう!」

「おれ、金ないよっ?」

「プレゼントなんだから、無料ですよそりゃ」

「そ、そんな、エロゲーみたいな展開あるわけ……」

「あるんだな、これが! まあ見てなって!」

 ピコカンは大きく息を吸い込むと、何処からから取り出したステッキをぶんぶんと振り回した。

「ろーしょんわせりんさらだあぶら、まよねーずせっけんだえきにせいえき〜」

 何だか分らないが妙に卑猥な響きの呪文を唱え、ピコカンはステッキを振り回すスピードを上げた。

 するとステッキから無数の光が溢れ出し、それが集まって人の形を作り出した。

「お、おおお……!」

 目の前で起こっている奇跡に、自然と嘆息が漏れた。

  柔らかい光の中から現れたのは、赤い袴に白い着物の、巫女さんだった。
どういう仕組みなのか分からないが、どう見ても生きている人間だ。
小柄で華奢で、顔だって清純そうで可愛くて……。

「……うん?」

 宗太は首をひねった。確かに可愛い巫女さんだけど、不思議な感じがする。 違和感と言ってもいい。
その違和感の正体を考えている内に、ひとつの嫌な結論に到着した。

「……もしかして、男?」

「ええ、勿論!」

 ピコカンはその場で旋回しながら、力強い口調とともに頷いた。

「初めまして、宗太さん。よろしくお願いします」

 巫女少年はそう言って、礼儀正しくお辞儀をした。
所作はとても清楚だが、やっぱり男であることには変わらない。

「いやいや、おかしいでしょ。何で巫女さんが男なの」

「だって僕、ボーイズラブの精ですもん!」

「な」

 宗太は絶句した。

 ボーイズラブ。

 詳しくはないが、ぼんやりとは知っている。
それは、男が容易に踏み込んではならない世界だ。

「ボーイズラブっていうと……腐女子とか?」

「えらく断片的ですねえ。まあ、間違ってはいませんが」

「お、おれ、ノーマルだよ!?」

「はっはっは、知ったこっちゃありません! この子は長谷川くんに差し上げますんで、大事にして下さいねっ!」

「差し上げられても困るよ! 持って帰ってよ!」

 宗太はつい熱が入って、荒々しい口調で吐き捨てた。
それを聞いた巫女少年が、

「そんな……ひどい……っ」

 と、瞳をうるませる。

「あーあ、泣かした泣かしたあー。長谷川くん、ひっどーい!」

「な、何だよ。おれ、知らないよ」

「当選者なんですから、プレゼントは責任持って引き取ってもらわないと」

「当選者って、さっき石田ナントカって言ってたじゃん! それをお前が酔っ払って、勝手におれにしちゃって……」

「酔っ払って何が悪い!」

 突然、ピコカンの方が激昂し出した。

「お前らは勝手に妖精に対して、花の蜜吸ってるとかそんなクソみたいなイメージ抱いてるかもしれないがなあ! 正直うぜえんだよ! 妖精だって酒くらい飲むんだよ! 飲まなきゃやってらんねえんだよ! 言っておくがおれは牛タンが好物だ! 分かったかこの野郎!」

 可愛らしいはずの妖精は、眼球が飛び出すんじゃないかと思うくらいに目を見開き、激しい剣幕でまくし立てた。
表情が完全に正気を失っていて、物凄く恐ろしかった。

「何でおれが怒られ……」

「分かったのか!」

「わ、分かったよ!」

「よーし、なら良い。おれは帰るからな。その子のことは頼んだぞ」

「えっ?」

 ちょっと待て、と言おうと口を開きかけたところに、ピコカンが更に言葉をかぶせて来た。

「そんじゃ! やっぱ帰るのやめて、飲み直して来るわ!」

「ちょ……っ!」

 宗太は妖精に向かって手を伸ばしたが、ピコカンはあっという間に夜空に消えて行ってしまった。


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