■ お前の脳髄を蕩かしてやる 1■


「宗太さん、二月十四日はバレンタインだぜ」

 と、一月下旬くらいから葵がしつこくしつこく言うので、宗太はその度に「ああうん、そうだね」と適当に返事をしていた。本当は、それがどうした、と言いたかった。

  確かに二月十四日はバレンタインデーだ。いわゆるひとつの、女の子からチョコをもらったり告白されたりする日だ。それは、宗太と葵の間では関係のない行事のはずである。

 そんなわけで、宗太は頑なにスルーし続けていた。少しでもバレンタインに対して前向きな発言をしようものなら、瞬く間に言質を取られる。そしてつけ込まれる。それは避けなくてはならない。

  適度に頷いておいて、バレンタイン当日は女の子と楽しく過ごす。それがベストだ。葵がチョコを渡して来たとしても、絶対に受け取らない。絶対にだ。

 などと鉄の決心を固めていたら、二月に入ったあたりから葵の毎日の言葉が、

「十四日、夕方六時までに帰って来なかったらボコって犯す」

 に変化した。そう言うときの彼の眼は、決まって笑っていなかった。

 宗太は絶望した。葵はいつだって本気だ。夕方六時を一分でもオーバーしたら、彼は本当に宗太をボコって犯すだろう。宗太は己の運命を呪わずにはいられなかった。

  毎年楽しみだったバレンタインが、一気に地獄の日と化した。折角の良き日を女の子と過ごすことは許されず、身勝手で一方的に自分に惚れているらしい、よりにもよって男と過ごさなければならないとは。罰ゲームだって、ここまでは酷くない。


 そして、二月十四日朝。宗太が起きたとき、葵はまだ宗太のベッドで寝ていた。

 ……ちなみに、宗太は床に布団を敷いて寝ている。葵が「僕は何と言おうとこのベッドで寝る。一緒に寝たくないなら、お前は床で寝れば?」と言い張ったからである。当然口論になったが、拳で黙らされた。

  ふかふかの布団も毛布も、熟睡出来るお気に入り枕も、すっかり葵の私物と化してしまっている。しかし悲しいことに、もう床で寝るのにも慣れてしまった。男と同衾するよりはなんぼかマシだ。

 ともあれ宗太は葵が寝ていることに、心底ホッとした。良かった、とりあえず朝イチで男からチョコをプレゼントされる、なんて事態は回避できた。このままこっそりと支度をして、さっさと学校に行こう。だから葵を起こさないように、起こさないように……。

「あ、宗太さんおはよう」

 二秒と経たない内に葵は眼を開け、はっきりとした口調で言った。物音なんて、一切立てていないはずなのに。本当に、葵には人智を超越したセンサーでも付いているんじゃないか、と宗太はしばしば思う。

「……おはよう」

 渋々、宗太は挨拶をする。いつチョコが出て来るか、そしてどうやってかわすべきか、びくびくしながら身構えていたら、葵は伸びをしてから起き上がった。彼の体には少し大きなTシャツ(宗太のものだ)がたわむ。

「宗太さん、今日一限から?」

「え、あ、うん」

「そんじゃ飯作るね」

 葵はベッドから降り、さっさと寝室を出て行った。チョコも何も出て来なかった。宗太は、やや拍子抜けしたように葵を見送った。そうしたらしばらくしてから、葵は部屋まで戻って来た。そして、真顔で言う。

「今日は午後六時までに帰って来いよ。門限破ったら、ボコって犯すからな」

 宗太は、生唾を呑み込んだ。そして、思い切って聞いてみることにした。

「ろ、六時に、何があんの」

 すると葵は腕を組み、胸をそらして自信たっぷりの笑みを浮かべた。

「お前の脳髄を蕩かしてやるんだよ」

 宗太の脳内に、「GAME OVER」という文字がチカチカと明滅した。終わった。今この瞬間、宗太のバレンタインは終了した。葵は確実に、間違いなく何かを準備している。それが何かは分からないが、とにかく恐ろしいことが待ち受けているということだけは、はっきりとしている。

 逃げよう。

 そう思った。後がどうなったって構わない。本能が逃げろと叫んでいる。とにかく今日は、帰ってはいけない。

 折角のバレンタインなのだから、女の子と楽しく過ごさないと嘘だ! 逃げても逃げなくても死ぬのなら、逃げて女の子と楽しんでから死ぬ方がマシだ多分!

 宗太は脳内でそんなことをブツブツと繰り返しながら、マッハで朝食を食べて家を出た。


 バレンタインデーというものは、誰も彼もが浮かれる日でもある。

 宗太が大学の構内に入ったところで早速、彼女らしき女子からチョコをもらってニコニコしている男が目に入った。彼女も彼氏も幸せそうだ。

  宗太が彼女を失って、約二ヶ月。胸に鈍い痛みが走った。しかしそれでも、ああ、バレンタインなんだなあ、という実感が湧いてくる。

 にわかに、宗太の頭の中から葵への恐怖が消えた。代わりに、今年はいくつもらえるだろう、という期待が膨らんでくる。宗太は毎年必ずチョコをもらう。収穫がゼロだったことは、今までに一度もない。それが密かな自慢だった。

「長谷川くん、おはよう」

 後ろから、肩をぽんと叩かれた。同じクラスの早苗だった。青いコートがよく似合っている。彼女に少なからず好意を抱いている宗太は、笑顔になった。カップルに見せつけられて冷えた心が、ほんのりと温まるようだった。

  彼女は、去年宗太にチョコをくれた。だから今年も、期待して良いはずだ。

「おはよう、早苗ちゃん」

「いやあ、バレンタインだねえ」

 周りを見回して、楽しそうに早苗が言う。宗太は、うんうんと頷いた。

「そういえばさ、長谷川くん。概論のレポートなんだけど」

 サクッと話題を変えようとする早苗に、宗太はたたらを踏みかけた。てっきり、この流れに乗ってチョコをもらえるのだと思っていたのに。

「えっ、えっ、ちょ、バレンタインの話、それで終わり?」

「終わりだよ? あっ何、もしかしてチョコ欲しかったの?」

「えっ、くれないの?」

 驚いて聞き返すと、早苗は呆れたように手を振った。

「そこで、もらえると思うところが、長谷川くんの長谷川くんらしいとこだよね」

「だって、去年はくれたじゃん」

「去年はねー」

「ええっ、本当にないの?」

「ないよ。だって葵くんにもらうでしょ?」

 葵の名前が出て来て、宗太はウッと怯んだ。早苗は、宗太と葵は付き合っている、と思っている。葵がそのように吹聴したからだ。何回否定しても、早苗は宗太と葵の仲を「応援する」と言って聞かない。

「もうもらった? どんなのどんなの?」

「いや、もらってないけど……。というか、もらわないよ?」

「ええー、何でよ。私先週、葵くんとデパ地下のバレンタインフェア行ったんだけど、すっごいはしゃいでたよ葵くん」

「え、あの、早苗ちゃん。葵とちょいちょい会ってんの?」

「うん、ご飯食べに行ったりするよ」

「おれとは一緒にご飯行ってくれなかったのに……」

 相手に聞こえるように呟いたのに、早苗はそれをあっさりと無視した。

「とにかく、葵くんはバレンタインに相当気合いを入れてるっぽかったよ。そのときは買ってなかったけど……あ、手作りかもね」

「うわあ……」

 宗太は表情を曇らせた。バレンタインフェアではしゃぐ葵。もしかしたら手作りチョコを用意しているかもしれない葵。考えるだけで、恐ろしい。

「何よー。愛されてんじゃん」

「男に愛されても、嬉しくないよー。おれは、早苗ちゃんに愛されたいよ!」

 などとちょっと露骨にアピールをしてみたら、思いっきり睨まれた。そんな顔しなくても良いじゃん、と思うほど鋭利な表情だった。

「チクるよ、葵くんに」

「……すいませんでした。撤回します」

 反射的にそう言ってしまう己が憎い。

 しかし、早苗がチョコをくれないとは。宗太は、胸がチクチクするのを感じた。思いっきり、期待していたのに。この上なく残念だ。

 だけどまあ、他にもチョコをくれそうな子は沢山いるし……。

「そうそう。他の子も多分、誰も長谷川くんにはチョコあげないと思うよ」

 早苗の口から放たれた言葉に、宗太の呼吸は一瞬止まった。

 誰も、長谷川くんには、チョコ、あげない?

「えっ、えぇっ? 何でっ?」

 咳き込むようにして、早苗に詰め寄る。すると彼女は、何故か得意げに胸をそらした。

「葵くんに頼まれて、私が根回ししたから」

 早苗はそう言って、笑顔で親指を立てる。宗太はあまりの絶望感に、二の句が継げなかった。頭の中が黒くなって、その中にポンと葵の顔が浮かんだ。悪魔の笑みを浮かべている葵だ。

「ひ、ひどいよ早苗ちゃん……!」

「何がひどいの」

「え、あ、ちょっと待って。早苗ちゃん、もしかしてみんなに、おれん家に男が住んでるとかそういう話してんのっ?」

「失礼な。そこまで私は無神経じゃないわよ。『長谷川くんには恋人がいるから、チョコはあげないでね』って言っただけだって」

「そう。それなら良かっ……いや良くない。良くないよ早苗ちゃん。恋人じゃないってば!」

「同棲までしといて、その言い草はないよねえ」

 やれやれ、といったふうに早苗は肩をすくめる。

「同棲じゃないってば……! それに、その根回しもひどいよ! おれ、バレンタインチョコもらうの、すっごい楽しみにしてたのに……!」

「だから、葵くんからもらえばいいじゃん」

「やーだーよー!」

 宗太は、だだっ子のようにぶんぶんと首を横に振った。