■ お前の脳髄を蕩かしてやる 2■


そんなやりとりをした後でも、宗太はまだ希望を失ってはいなかった。いくら根回しされたとは言え、本当にゼロってことはないだろう。いっこぐくらい、誰かがくれるだろう。

 そう思って、やや楽観的に構えていた。何だかんだ言って、宗太は結構もてるのである。
なのに。

 全ての授業が終わっても、宗太はチョコをひとつももらうことが出来なかった。

 同じクラスのあの子もあの子も、語学の授業が一緒のあの子もその子も、何度か一緒に食事に行ったことがあるあの子もあの子もあの子、最近仲良くなった若い事務のお姉さんも 、誰ひとりとして宗太にチョコをくれなかったのである。

 その事実は、宗太を失意の底に叩き落とした。まさか本当に、誰もくれないとは思っていなかった。彼は、自分でもびっくりするくらいに落ち込んだ。頭が重くて持ち上がらないので、ずっとうつむいていた。口を開けば、溜息しか出て来ない。もう駄目だ。立ち直れる気がしない。

 葵くんにもらうでしょ?

 早苗の言葉が脳内に蘇った。

「もうこの際、葵からのチョコでも……。い、いやいや、男からチョコなんてもらったら、負けだって……」

 彼は小声で、ぶつぶつと葛藤を繰り返した。平時であれば、男からのチョコなんて死んだって受け取らないだろう。しかし今は、バレンタイン収穫ゼロという有事だ。そんなことも言ってられない。いやでも、ここで葵からチョコを受け取ってしまっては、彼を更に増長させることになるのでは……。

 などと自問自答を繰り返している内に、気が付けば宗太は自分の部屋の前に立っていた。時計を見ると、十七時五十分。無意識に、葵の言いつけを守ってしまっていた自分が情けない。

 ……とりあえず、尻だけは全力でガードしよう。

 宗太はそれだけを己に厳命することにした。チョコを受け取る受け取らないは、その場で判断しよう。どっちにしても、貞操だけは死守しなくては。

「……ただいま……」

 沈みきった声でそう言いながら、宗太は玄関の扉を開けた。すぐに、ぱたぱたと奥から葵がやって来る。

「お帰り、宗太さん」

 宗太とは対照的に、葵の表情は明るい。普段より肌ツヤも良く、イキイキとしているようだった。そんな彼を見て、宗太のテンションは一層下がる。

  宗太は溜め息を吐きつつ靴を脱ぎ、そのままおぼつかない足取りで葵の横をすり抜けた。

「……ちょっと待った」

 葵は、宗太の首根っこを掴んだ。部屋に向かって歩き出そうとしていた宗太は、思いきり首が締まって白眼を剥きかけた。

「な……何だよ……!」

「宗太さん、チョコは?」

 宗太に顔を近づけて、葵が言う。責めるような表情に、宗太はたじろいでしまった。

「な……。一個も貰ってないよ。きみがそういう風に根回ししたんだろ!」

「そうじゃなくて!」

 葵は、焦れたように語気を荒くする。そして互いの睫毛が絡みそうな距離まで顔を寄せ、こう言った。

「僕へのチョコは、って聞いてんの」

「は?」

 宗太は、素っ頓狂な声をあげた。

 葵へのチョコ? 何で?

「僕へのチョコは? 用意してんだろ? してんだよな?」

 そう言いながら、葵は宗太の胸元を掴む。本気でチョコを要求しているらしい葵に、やばい、と思った。

  やばい。チョコなんて用意してない。いや、何で自分が葵にチョコなんて用意しないといけないんだ。おかしい。それはどう考えても、おかしい。

「チョコなんて用意してな……」

 言い終わらない内に、葵は宗太の鼻に噛み付いた。予想外の衝撃と痛みに、宗太は「なああ!」と叫ぶ。

「なーんーで、何も用意してねえんだよお前は! あんだけ、二月十四日はバレンタインだって言ったろうが!」

「い、いやいや何でだよ! あ、葵が、おれに、チョコを用意してるんでしょ?」

「はあ?」

 葵は顔をしかめた。宗太は、雲行きがおかしいことに気が付き始めた。

  あれっ、ちょ、何だこれ、どういうことだ。もしかして……いや、そんなことは……。

 宗太は、おずおずと確認してみることにした。

「え、あの、葵。もしかしてきみ、チョコとか何も、用意してない……の?」

「してねえよ」

「えええー!」

 宗太は絶叫した。唯一のバレンタイン戦果が、プライドを投げうってでも得ようとしていた戦果が、指の間をすり抜けてこぼれて行くのを感じた。

「何だよそれ! 何で何も用意してないのさ!」

「お、ま、え、が、用意しとくもんだろうが!」

 怒りを滲ませた声でそう言って、葵は何の迷いもなく宗太の頬を叩いた。鋭い痛みに、宗太は再び悲鳴をあげる。

「だって、きみ、いっつもおれの嫁だとか何とか言ってんじゃん……!」

「それがどうした」

「だから絶対、おれはきみからチョコを貰えるものだと……」

 宗太の言葉を最後まで聞かず、葵は彼の胸倉を掴んで自分の方に引き寄せた。

「いいか、宗太さん。お前は受だ。そして、僕は攻だ」

「は、はあ?」

「バレンタインは、受が攻にチョコをあげるもんだろう?」

 当然のように言い張る葵に、宗太は泣きたくなってきた。葵にかじられた鼻も、引っ叩かれた頬も、心も、全てが痛い。自分はウケなんかじゃない、と主張する気も湧いて来ない。

「そ、それじゃ葵。早苗ちゃんと先週、バレンタインフェアに行ったっていうのは何だったの」

「ああ、それは単に、見に行っただけ。バレンタインシーズンのデパ地下って、行くだけで腹いっぱいになった気分になるよな」

「何だよそれ! 早苗ちゃんから、きみがはしゃいでたって聞いたから、おれはてっきり……!」

「チョコを見たら、無条件にはしゃぎたくなんだよ」

「じゃ……じゃあ、六時までに帰って来いってしつこく言ってたのは?」

「お前が寄り道したり浮気しないように、門限を早めに設定した」

「じゃあ、じゃあ……朝に、『お前の脳髄を蕩かしてやる』って言ってたのは!」

「お前からチョコを貰うお礼に、脳髄が蕩けるようなセックスをプレゼントしようと思ってたんだよ!」

 葵の発言に宗太はヒッと息を呑み、反射的に自分の尻を手で隠した。

 ……それにしても、何ということだろう。
絶対に、こいつだけは確実だと思っていた葵にすら、チョコをもらうことが出来なかった。怒るべきなのか嘆くべきなのかも分からない。胸の中が寒くなってくる。こんな絶望感は初めてかもしれない。

「紛らわしいんだよ、葵は……」

「ああっ?」

 不満そうな口調で宗太が言うと、葵が最上級に苛立った声をかぶせてきた。そしてふたたび、噛みつかれそうなくらい至近距離まで、顔を近付けて来る。宗太は顔をそらそうとしたが、葵に物凄い力で顎を掴まれて叶わなかった。

「宗太さん、お前は何を逆ギレしてるんだ? お前が! 僕に! チョコを用意してなかったのが悪いんだろ?」

「いや、葵の方が逆ギレなんじゃ……」

「ああっ!?」

「……」

 本気で怒っている葵に、宗太は黙るしかなかった。腹の底に、氷の塊でも突っ込まれたような気分になる。

「……よし、分かった」

 何が分かったのか、唐突に葵は頷いた。そして宗太の胸倉から手を離す。宗太は、玄関先にへなへなと座り込んだ。心臓に胸を当てると、ドグドグと気の毒なくらい激しく脈動していた。葵は本当に恐ろしい。

 葵は大股で奥に消えたが、すぐに玄関まで戻って来た。部屋から取って来たらしいダウンジャケット(宗太のだ)を着込みながら、ぶっきらぼうに言う。

「宗太さん、行くぞ」

「行くって、何処に?」

「デパ地下に決まってんだろ。チョコ買いに行くんだよ」

「あ、うん、行ってらっしゃ……」

 そう言って見送ろうする宗太の背中を、葵は蹴飛ばした。

「お前も一緒に行くんだよ!」

「えええ! 男同士で!? そんなのい……」

「何だって?」

 葵の眼が光り、宗太は言おうとしていた言葉を即座に呑みこんだ。そして、代わりの台詞を絞り出す。

「そんなのい……行く、よ」

 そう言うと、葵はニッと笑って頷いた。宗太は全てを諦めた。




■■■

 二月十四日、夜。

 長谷川宗太と長谷川葵は、それぞれコタツに突っ伏してぐったりとしていた。

「ああー……気持ち悪い……。もう、チョコなんか見たくねえ……」

 そう呻く葵の傍らには、チョコの空き箱が三つ転がっている。どれも、有名なスイーツブランドの箱だ。

「葵が、バカみたいに買い込むから悪いんだ……。しかも、でかい箱ばっか買ってさ。おれは、一個ずつにしようって言ったのに」

 宗太は緩慢な動作で顔を上げると、水を一気飲みした。それでも、口の中のチョコ味が消えない。ふとコタツの上に眼をやると、そこにはまだ開いていないチョコの箱が三つ、重ねられている。一気に吐き気がこみ上げて来て、宗太はチョコから眼をそらした。

「宗太さんが、チョコ売り場に着く直前で『やっぱ無理。帰る』とか言いだしたのが悪いんだよ」

 うつろな目でチョコの包み紙を破り、葵が呟いた。

「だって、どう考えても無理だと思うじゃん! あんな女の子だらけのとこに、男ふたりで入るなんて……。ていうか、それは別に関係ないだろ!」

「あるよ。僕、それにめちゃくちゃムカついてさあ。変なスイッチ入っちゃったんだよね」

「そんで、おれの首根っこ掴んで売り場引きずり回した挙句、大量にチョコ買い込んだって? きみ、どういう育ち方したの……」

「うっさいな。ほら、まだまだ残ってんだから食えよ」

 葵は箱からチョコをひと粒つまみ上げて、宗太の口元に持って行く。宗太は眉をしかめ、必死になって顔をそむけた。

「も……もう無理だよ……! 今おれ、腕切ったら血の代わりにチョコが出るよ」

「僕だって、全身の毛穴からチョコが吹き出そうだよ」

「おれの方がいっぱい食べてるんだから、葵が食べろよ。きみ、途中で水ばっか飲んでたじゃん」

「馬鹿言うなよ。この激甘トリュフを制覇したの、僕だぜ? 宗太さん、こっちのビターチョコばっか食ってただろ」

「そんなことないって。甘いのも食べてるよ」

「いや、僕の方が食ってる」

「おれの方が」

「僕の方が」

「というか、葵が買ったんだから、責任持ってきみが食べろよ」

「何言ってんだよ。僕が買った分は、宗太さんにプレゼントした分だぜ。つまり僕は、宗太さんの分を手伝ってやってる、ってことだ。感謝しろよ」

 言い合っている内にチョコの甘さが喉元にこみ上げて来て、ふたりは同時に口を閉じた。そして再びコタツに突っ伏す。

「……ねえ、葵」

「何だい、宗太さん」

「また明日にしようよ……」

「駄目。ここでやめたら絶対、もう一生、チョコなんか食おうと思わないだろうから、残っちゃうだろ。今、食わないと」

「それはそうだけど……」

  宗太はコタツに置かれたミネラルウォーターのペットボトルを掴み、コップに注いだ。透明な水が、一瞬チョコレート色に見える。相当重症だ。

「ねえ、葵」

「何だい、宗太さん」

「別の意味で、脳髄を蕩かされたね……」

「うまいこと言ったつもりかよ」

 葵は不機嫌そうに言って、チョコを口の中に放り込んだ。宗太もチョコを手にとって、端の方を少しだけかじった。濃厚なカカオの風味に、涙が出そうになる。もう絶対、チョコなんて食わない。宗太は心に誓った。

 こうして宗太と葵の夜は、胸やけとカカオの香りとともに更けて行ったのだった。