■家路へと 14■


 きり丸の足元から、微かに呻き声が聞こえた。先程、耳元で聞いた声と同じだった。その直前に鳴った音は、恐らく火縄銃の銃声だ。少しずつ、煙が晴れてゆく。目の前に、誰かが立っているような気配がした。

「やあ、また会ったな」

 眼前の誰かが言う。山田先生の声だった。きり丸は、目を瞬かせた。鮮明には捉えられないが、覚えのあるいかつい輪郭が闇に浮かび上がった。確かに、山田先生だ。手に何かを抱えている。どうやら、それは火縄銃のようだった。

「はい、曲者の拘束完了しましたよ、っと」

 間近から、またも聞いたことのない声がして、きり丸はぎょっとした。随分と明るい声だった。「曲者」だとか「拘束」だとか、そんな単語が似つかわしくない。半助が、その声の持ち主に会釈をした。

「あ、日向先生も、お疲れ様です。追手の方は如何ですか」

「問題無しです。連れて来た上級生も、引き揚げさせました」

 そう言って誰かは、はっはっは、と楽しそうに笑う。きり丸はやや呆然としてその笑い声を聞いていたが、やがてはっと我に返り山田先生を見上げた。

「……おっさんが、さっきの悪い奴を撃ったの?」

 尋ねると、山田先生は「そうだ」と頷いた。きり丸は、更に質問を重ねる。

「おっさんも、忍者?」

「……本当はそういうことは言っちゃいけないんだがな、まあ、そうだ」

 山田先生は、苦笑混じりに言った。

 煙があって視界のきかない状況で、きり丸を引っ掴んでいた曲者だけを狙い撃ちにする。子どもながらに、それが並外れた腕前であることは分かった。きり丸は半助を振り仰いだ。聞きたいことが山程あった。あの悪者は何なのか。きり丸に恋文(偽物だったらしいが)を託した女と、あの悪者は関係があるのか。半助を囲んでわいわいやっていた連中も忍者なのか。どうして彼らは「先生」と呼び合っているのか。様々な疑問が頭を渦巻いていた。それでも、一番に口を突いて出た質問はこれだった。

「忍者って、儲かるの?」

 恐怖やら戸惑いやらを押しのけて、真っ先に浮かんだのは銭のことであった。きり丸にとっては、何よりも大事なことだ。それを聞いて、半助は目を白黒させて絶句した。

「お前……っ、お前は、何を考えているんだ!」

「ははは、なかなかしっかりした子だな」

 半助は怒り、山田先生はかるく笑った。きり丸は真剣な顔つきで、半助を見つめる。

「だって半助も、山田先生も、他のみんなも稼いでそうなんだもん」

 少なくとも、洗濯や子守よりは金になりそうだと思った。きり丸は毎日身を粉にして働いているが、まだ子どもだということもあり、得られる賃金は僅かだ。一生小銭を稼いで生きてゆくわけにはいかない。いつだってきり丸は、より多くの銭を稼ぐ方法を探していた。

「なあ、どうやったら忍者になれるの」

「何を言っているんだ、きり丸。お前、忍者になりたいとでも言うつもりか?」

「うん」

「ば……っ」

 半助はふたたび、言葉を失った。きり丸の言うことが、信じられないという風であった。きり丸は半助に訊くことは諦めて、山田先生の方を向いた。

「なあ、おっさ……山田先生。どうやったら、忍者になれる……なれますか」

 無礼な口を効いては質問に答えて貰えないかもしれないと思い、きり丸は口調をあらためた。すると山田先生は目を細めて、顎を撫でた。

「そうだな。忍術学園に入れば、なれるかもしれないな」

「忍術学園?」

「そう。忍者を育てる学校だ。わたしも半助も、そこの先生なんだよ」

 忍者を育てる学校。きり丸は、ぽかんと口を開けた。そんなものが存在するだなんて、初めて聞いた。そして、だから彼らは先生と呼び合っていたのかと、ようやく合点がいった。

「そこって、誰でも入れますか?」

「入学金を払えばな」

「じゃあおれ、忍術学園に入る」

「きり丸!」

 半助が、悲鳴のような声をあげた。

「山田先生も、どうしてやすやすと、そんな情報をこの子に与えたりするんです」

「我々は忍術学園の教師で、忍者になりたいと言っている子どもが目の前にいるからだ。それ以上の理由はいらんだろう」

「この子は、短時間の内に色々なことがありすぎて、まともな思考が出来なくなっているだけです! それを真に受けるなんて」

「しかしこの子は機転が利いて要領も良くて、人をよく見ているから忍者に向いていると、お前も手紙に書いていたじゃないか」

 山田先生に言われて、半助は言葉をつまらせた。きり丸は、驚いて半助を振り返る。半助が、そんな風に考えていただなんて全く知らなかった。

「それは……、でも、実際なれるかどうかは、また別の話で……!」

「まあ、本人が行きたいと言ってるんだ。お前も春からは担任で、そうそう家に帰れんのだから丁度良いじゃないか」

「良くな……っ」

 言葉が途中で途切れ、半助の身体がぐらついた。きり丸は半助の腕の中から落ちそうになり、彼の身体にしがみついた。そうしたら素早く山田先生の腕が伸びてきて、半助を抱きかかえるようにして支えた。

「あーあ、子どもの前だからってかっこつけて、平気なふりをするからだ」

「か、かっこつけてなんかないですよ……!」

 半助は心外だという風に言う。大丈夫だという彼の言葉を鵜呑みにしていたきり丸は、驚いて目を見開いた。半助に抱えられたままの格好だったので、こんな体勢では半助に負担をかけてしまうと、慌てて地面に飛び降りる。

「半助、大……」

 大丈夫かと尋ねようとしたら、半助は顔をきり丸のすぐ側まで寄せてきた。暗くても分かる。半助は、物凄く怒っている。

「きり丸、駄目だからな」

 低い声で凄まれても、きり丸は引き下がるつもりはなかった。

「でもおれは、忍者になる」

「お前は、何を見ていたんだ。敵に囲まれて、逃げて、撃たれて、味方の中に敵が入り込んでいて……。全部、現実に起こったことだぞ。忍者の世界とはそういうものだ」

「分かってるよ、実際に見たもん。おれ、忍者になる」

「さっきまであんなに怖がっていた癖に、何を言うんだ」

「怖かったけど、儲かるんなら、怖くない」

 きり丸は断言した。どんなに恐ろしい目に遭おうとも、今、命があるならそれで良しだ。そして、今後も生きてゆくことを考えなくてはならない。その為には、何を置いても銭だ。過去に怖い目にあったからと言って、怯む余裕はきり丸にはない。

「お前は……! 銭と命、どっちが大切なんだ」

 きり丸がその問いに答えようとしたら、「そこのふたり、親子喧嘩はそこまでにして、引き上げだ」という声が割り込んできた。その声の主の顔を見て、きり丸は「うわあ!」と悲鳴をあげた。それは、半助たちが言うところの「曲者」であった。

「大丈夫だよ、きり丸。こちらは本物の野村先生だ。さっきの曲者は、野村先生に変装していたんだ」

 思わず逃げそうになるきり丸の肩を、半助が押さえ込んだ。きり丸は、未だ暴れている心臓を着物の上から押さえた。きり丸には、本物の野村先生と曲者の区別が全くつかない。忍者ってすげえ、と改めて感じた。

「そういうわけで、密書も無事手に入ったことだし退却しますよ、土井先生」

「あ、はい。それじゃあ、山田先生に密書をお渡しして……」

 半助は頷き、懐から巻きものを取り出した。そしてそれを、山田先生に手渡す。山田先生は巻きものを開き、ひとつ頷いてからそれを着物の中にしまい込んだ。

「よし、それじゃあ、皆ご苦労様でした。引き揚げましょう」

 山田先生の一声で、忍術学園の先生たちは闇に向かって歩き出した。

「半助、おぶってやろうか」

 茶化すように、山田先生が言った。半助はきり丸の手を引き、「いいえっ、結構です」と、頑なな声で言う。それから、厳しい表情をきり丸に向けた。

「きり丸、忍術学園の件、絶対に……」

「土井先生」

 言葉の途中で、野村先生の声が入って来た。この人は割り込んでばかりだな、ときり丸はなんとなくそんなことを考えた。半助は、渋々といった調子で野村先生を見た。

「何でしょう、野村先生」

「諦めた方が良いですよ」

「……何が、ですか」

「子どもってのは、大人が反対したら余計に燃える生き物だ」

「そ……そうですけど……っ」

「それに、この件にあの子を巻き込んだのはきみの責任なんだから、ひとつくらい願いを叶えてやるべきだろう」

 半助は、黙り込んだ。野村先生の言葉は、半助にとっての痛点を突いたらしい。

 それから半助は、視線を動かしてきり丸のことを見た。今の彼からは、怒りは感じられない。きり丸は、これは好機だと思った。すかさず両目にぐっと力を入れて、なるべく真摯な表情をつくって半助の顔を見上げた。半助はこれに弱い。いわゆるひとつの、「子どものひたむきな視線」というやつに。そう長くはない付き合いだが、きり丸はその辺りをしっかりと理解していた。

  案の定、半助はウッとなって身体をそらす。きり丸は、引き続き真っ直ぐに半助を見つめた。落ちろ、落ちろ、と心の中で念じ続ける。

「半助、諦めろ」

 じりじりと睨み合っているところに、山田先生が声をかけてきた。どうやら、それがとどめであったらしい。半助は大きく息を吐き出し、肩を落とした。

「……ああもう、分かった。わたしの負けだ」

 きり丸は、両の拳を握り締めた。真夜中なのに、周りがきらきらと輝いて見えるようだった。歓声をあげようとしたら、寸前で半助の手がそれを阻んだ。口を塞がれて、むむむ、というくぐもった声しか出なかったが、きり丸は幸福であった。

  忍術学園に通って忍者になる。

  先の見えない不安を常に抱えていたきり丸が、初めて自分の未来を具体的に思い描くことが出来た瞬間だった。