■家路へと 13■


「あららー土井先生、撃たれましたか。お気の毒にねえ。何処を? 足? いやあ、よく此処まで走って来られましたね」

 間延びした男の声が影から降りてきて、きり丸は目をぱちぱちさせた。今度は別方向から、違う声が聞こえてくる。

「おーい誰か、薬草と包帯を持ってませんか。わたしのは全て使ってしまった」

「ああ、松千代先生が持ってますよ」

「はい……あの、これ……恥ずかしい……」

「松千代先生、恥ずかしいからってわたしの後ろに隠れんで下さい」

 やれやれといった調子で誰かが言う。思いもよらぬ空気の変化に、きり丸は当惑してしまった。

 影のひとつが屈み込んで、半助の身体に手を伸ばす。きり丸は目を凝らして、その男の顔を見ようとした。しかし、いまいち判然としなかった。

「まあまあ、野村先生。松千代先生のお陰で、敵の手の内が把握出来たわけですし」

 誰かがたしなめるように言い、また別の誰かが「そうそう、流石です」と深く頷きながら同意する。

「あ、あんまり褒めないで下さい……恥ずかしい……っ」

「それで、土井先生の傷は?」

「弾は抜けてるみたいですね。まあ大丈夫ですよ、若いし」

「そうそう若いし」

「何せ若いからですからね」

「……冗談はその辺にしておいて、土井先生出血してますけども、匂いを辿られませんか」

「ああ……大丈夫です。かなりきつい香をばらまいておきました」

「流石斜堂先生、抜かりない」

「あとは、日向先生と山田先生がご無事なら良いんですが」

「まあ、あの人らは、殺しても死にませんからな」

 少しずつ、影たちの顔がなんとなく確認出来るようになってきた。楽しそうにも聞こえる声が飛び交い、時折白い歯が見えた。

  笑っている? 

  きり丸は、身の内から恐怖がするすると抜けてゆくのを感じた。影の化け物に見えたものは、どうやらさまざまな年齢の男たちのようだった。唐突に、街で働いているときのことを思い出した。会話の内容は随分と物騒で非現実的だが、街で働く男たちが仕事の合間に雑談をしているときの雰囲気も、丁度こんな感じだ。

「あの、若くても、痛いものは痛いんです、けど……」

 控えめな口調で、半助が訴える。軽い笑いが場を包んだ。和やかと言っても良い空気に、きり丸は戸惑うばかりであった。半助の言うとおり、彼は撃たれているのに。しかし男たちは、何でもないことのように、「何言ってるんだ、若いのに」とか「若さでなんとかしろ、若さで」だとか、そんなことを言う。きり丸は信じられなかった。

「いや、あのね、撃たれてんですよ、わたし……」

「そんだけ喋れりゃ大丈夫ですって。……はい、手当てが終わりましたよ」

「それにしても何時の間に子どもなんかこさえたんだ、生意気な」

 ひとりの男が、きり丸の顔をちらと見てそんなことを言った。呆気に取られていたきり丸は、その言葉に反応することが出来なかった。

「あの子は違いますよ……恥ずかしい」

「知ってますよ。ちょっと言ってみただけじゃないですか。だから隠れんで下さい、って。大丈夫ですよ、暗いんだから松千代先生の顔も見えないですよ」

「みんな夜目がきく癖に……」

「少なくとも、この子には見えてませんって。……と、そういえば」

 そう言って、その男はきり丸の方を見た。きり丸はどきりとして唾を呑み込んだ。眼鏡をかけた男だった。背が高くて、目つきがやけに鋭い。

「きみは? 怪我はないか」

 何気なく問われて、きり丸は咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。すると眼鏡の男は屈んで、顎を撫でながらきり丸の顔を覗き込んだ。

「何処か、痛いところはないか? 気分が悪いとか、そういうのは」

「……あ、いや、おれは、全然」

 やっとのことで、切れ切れの返事をした。男は、そうか、と頷いて立ち上がった。

「あの、半助は?」

 きり丸は思わず、眼鏡の男の装束を掴んだ。彼は振り返り、薄く笑った、ような気がした。

「半助は大丈夫だよ。きちんと手当てをしたし、あの男は、ああ見えて結構丈夫だから」

 そう言って、男はきり丸の肩に手をのせた。存外あたたかな手であった。どういう顔をすれば良いか分からなくて、きり丸はぎゅっと唇を結んだ。

「そうだ、密書の件ですが……」

 少し離れたところで、か細い声がした。この死にそうな声だけは分かる。斜堂先生だ。何度聞いても、心臓が冷たくなる響きである。

「命に別状はないとはいえ、土井先生はこんな状態ですし、誰かが預かっておいた方が良くないですか」

 斜堂先生の言葉に、周囲の人影がめいめい頷く気配がした。きり丸の側に居た眼鏡の男は「そうですな……」と呟いてしばし考え込む。

「それでは、わたしが預かりましょう」

 そう言って彼は立ち上がり、ゆっくりと半助に近付いた。すると突然、横たわっていた半助が素早く起き上がった。きり丸が、えっと思う間もなく、半助は腕を伸ばして鋭い目の男の胸ぐらを掴んでいた。

「きさまが偽物か」

 半助は、低く呟く。小さな声だったが、きり丸の耳にもしっかりと届いた。

「なっ」

  男は戸惑った声をあげた。それから、軽く笑い声をあげる。

「何を言うんです、土井先生」

「わたしが命を落とさない限り、何があっても密書はわたしの手から山田先生に手渡される……という手はずだったはずだ」

「…………」

 眼鏡の男は黙った。そんな彼の周りに、黒い装束の男たちが集まってくる。

「変装はなかなか見事だったけれど、下らんところでぼろを出したな」

「ちなみに斜堂先生のさっきの振りも、予定に組み込まれてたんですよ、偽野村先生」

 気が付けば、先程までの和やかな空気などは何処かへ消え去っていた。男たちの影が、一層大きく見えた。きり丸は震え上がった。状況がいまいち呑み込めないきり丸にも、先程の眼鏡の男が悪い奴だったのだということは理解出来た。意外とあたたかかった、彼の手を思い出す。何が正解で何が間違いなのか。きり丸の頭はすっかり混乱してしまった。

「……流石、侮れない……」

 眼鏡の男は小さく漏らした。それと同時に、彼の手元で火花が散った。直後、地面から物凄い勢いで白い煙が噴き出してきた。たちまち、視界がもやで覆われた。煙が喉を突き、激しく咳き込む。涙も出て来た。

 そのとき突如として誰かの太い腕が首に絡みついてきて、きり丸は吐きそうになった。これが誰の腕かは分からない。しかし、半助の手でないことだけは確かだ。全身が粟立つ。嫌だ、と思った。

「半助!」

 無意識のうちに、きり丸は叫んでいた。その声に、破裂音がかぶさった。きり丸の耳元で、低い呻き声があがる。今までに聞いた、どの男の声とも違っていた。きり丸の首元を掴んでいた人物が、こちらに向かって倒れ込んで来る。その下敷きになりかけたところを、別の誰かがきり丸の身体を両手で掴んで掬い上げた。半助だ、とすぐに直感して、きり丸は彼にしがみついた。

「きり丸、大丈夫か!」

 頭上から、切羽詰まったような半助の声が降ってきた。煙のせいで涙が止まらず、顔を確かめることは出来なかったが、きり丸を抱えているのは間違いなく半助だった。

「だい、大丈夫。半助、は?」

 咳き込みながら、きり丸は頷いた。半助が、ほっと息を吐き出す気配がする。

「わたしは大丈夫だよ」

 力強く半助が言うのを聞いて、きり丸も安心した。

「……いやはや、随分と着くのが遅れてしまったな」

 煙の向こうから、誰かの声がした。深みのある、よく通る声である。きり丸はその声を、何やら懐かしく感じた。何処かで聞いたことがあるような気がする。だが、何処で聞いたのかがとんと思い出せない。

「ご無事で何よりです、山田先生」

 嬉しそうに半助が言うのを聞いて、思い出した。そうだ、以前半助の家を訪ねて来た、山田伝蔵という名の男だ。きり丸は目をこすった。まだ目が痛かったが、少しだけ視界がはっきりしてきた。