■家路へと 12■


 ややあって、半助の足が止まった。ゆっくりと、きり丸の身体が柔らかな草の上に下ろされる。そして、羽織が取り去られた。きり丸を覆う布がなくなっても、やはり周囲は真っ暗であった。側で、虫の鳴く声する。それと草の匂い。うっすらと、こちらを覗き込む半助の姿が見えた。彼は、きり丸の頭に手を置いた。

「ここまで来れば、もう大丈夫だ」

  何処までも優しく半助は言う。彼の声を聞くのが、随分と久し振りのように思えた。きり丸は震えてしまって、声を出すことが出来なかった。

「怖かったろうに、よく我慢したな。偉い、ぞ……」

 その言葉とともに、どさりと半助はその場に倒れた。

「半助!」

 半助に駆け寄りながらきり丸は、どうしよう半助が死んでしまった、と思った。

 幼いきり丸には、火縄で撃たれたということは、すなわち死であるとしか考えられなかった。一気に胸の底が冷えた。次いで、どすんと全身が重くなった。頭の中は真っ白であった。悲しみやら後悔が入り込む余地のない白さだ。何も無い。きり丸には何も無くなった。あんなに醜くしがみついて守ろうとしたものが、いとも容易く消えてしまった。白い。辺りは暗いはずなのに全てが白かった。

 訳も分からず、きり丸は手探りで半助の手を見付けて握りしめた。硬い手のひらだった。いつもきり丸の頭を撫でてくれて、そして時には容赦無くきり丸の頬を張る手だ。

「……半助、半助」

 うわごとのように、半助の名を呼ぶ。すると半助がその手を握り返してくる感触があった。きり丸は息を呑んだ。無色になった頭に、生きている、という言葉が落ちてくる。その響きは随分と熱く、きり丸は身体を震わせた。

「は、半助!」

 返事はなかったが、代わりに一層強くきり丸の手が握り返された。ああ、やっぱり生きてる! 生きてる!

 しかし歓喜したのはほんの一瞬で、次の瞬間には激しい自責の念にとらわれた。きり丸のせいで半助がこんな目に遭ってしまったのだと思うと、いくら後悔してもし足りない。

「ご……っ、ごめん、半助……っ」

 きり丸は、体温がどんどん下がってゆくのを感じていた。自分まで倒れてしまいそうになる。

「……何を謝ることがあるんだ」

 半助は、掠れ声で呟いた。今まで聞いたことのない弱々しい声音に、きり丸はぐっと唇を噛み締めた。

「だ、だって、おれ、おれが……っ」

「謝らないといけないのは、こっちの方だ。面倒ごとに巻き込んで、怖い思いをさせてしまった」

「ううん、だって、おれは、おれが、おれ」

 口から漏れる言葉を、整理することが出来なかった。そして少しずつ目が慣れて、半助の姿もぼんやりとではあるが見えるようになってきた。半助は薄く目を開いて、こちらを見ている。

「ごめん、おれ、だって悪いこといっぱいした。盗みとか、色々」

「……でもそれは、もうやらない、と言ってくれただろう」

 半助が不思議そうに問うので、きり丸は勢いよく首を横に振った。胸の底からどんよりとした嫌な思いが這い上がってくる。目の前に、白い顔をした美しい女と文の面影が現われて、たまらずにぎゅっと目を閉じた。

「違う、違う、違う。だっておれ、捨てちまったもん。いけないって分かってたのに、捨てた! 川に投げ捨てた!」

「……捨てた?」

「そう。おれ、捨てたんだ。半助あての恋文。絶対に渡して、って言われてたのに!」

 震える声を絞り出した。言い終わってから、ああどうしてこんなことを口に出してしまったのだろうと思った。胸が苦しくて仕方ない。罪の告白をしたからだろうか、舌が痺れるようだった。きり丸は激しく咳き込んだ。頭の奥が痛くて、吐きそうだった。

「ああ、あれはお手柄でしたねえ」

「……っっ!」

 突然隣からか細い声が聞こえて、きり丸は背筋を伸ばして声なき悲鳴をあげた。全身の毛が逆立つ。見るとすぐ側に、背中を丸めた斜堂先生がひっそりと座っていた。そういえば、完全にこの人の存在を忘れていた。何時からそこにいたのだろう。

「な、な……っ」

 口をぱくぱくさせるきり丸を、斜堂先生はゆらりと見やった。所作も表情もやっぱり不気味で、きり丸は先程までの苦しさを全て忘れてしまった。

「きり丸くん、と言いましたか。あれは恋文ではありませんでした」

「えっ?」

 静かに、そして淡々と斜堂先生が告げた言葉に、きり丸は目を見開いた。どうしてこの人は、恋文のことを知っているんだろう。そして、あれが恋文でなかったとは、どういうことだろう。

「でも、きれいな女の人が、妹が半助のことを好いていて、恋文を書いたから渡してくれって……」

「その女は忍者です」

 間髪入れずにそんな返答が返って来て、きり丸は口を開けた。あの美しい女が、忍者。そう言われても、全くぴんと来ない。呆然とするきり丸に、斜堂先生はぼそぼそと続ける。

「すみませんねえ、しばらくきみのことも監視させて頂いておりまして」

「おっ、おれを?」

 驚いて、きり丸は声を裏返した。しかし同時に、この人に監視されていても全く気が付かないだろうな、と妙に冷静に納得した。

「忍者は疑り深いものなのです」

 斜堂先生はゆっくりと頷いた。それから、また小さな声で話し始める。

「土井先生に想いを寄せている妹がいるだとか、そういった話は全て作り話です。きみを信用させる為の」

「うそ、だった?」

「そうです。土井先生のことを好いている女なんていなかった」

「ちょ……っ、斜堂先生、その言い方はあんまりなので、は……」

 きっぱりと断言する斜堂先生に、苦笑混じりの半助の声が重なった。

  きり丸は、何度も瞬きをした。きり丸が捨てたあの文は恋文ではなかった。半助を好いているという、あの美しい女の妹は存在しなかった。それが本当ならば、きり丸のやったことはなんだったのだろう。

「後で調べて分かったことですが、あの文には毒が仕込まれていました。土井先生を暗殺するための。ですから、きみがあのとき恋文を川に捨ててくれて良かった」

「なん……何で……?」

 きり丸は首を横に振った。全く意味が分からない。毒だとか暗殺だとか、本当にこの世の話だろうかと思った。だってきり丸は毎日地道に働いて、生きてゆくための銭を得て、それだけの日々だったのに。そこに突然、忍者やら毒やら暗殺やら言われても、全く頭に入って来ない。

「忍者の世界には色々ありまして」

「だって……」

「とかく、きみが恋文を捨てたのはお手柄だった、ということです。きみが、土井先生の命を救ったのですから」

 命を救った、と言われてきり丸は頬を紅潮させた。しかしすぐに首を振る。それよりも、分からないことの方が多い。

「で、でも……」

 斜堂先生は白い手を持ち上げて、口を開こうとするきり丸を制した。それから、横たわる半助の身体を指さす。

「その前に、土井先生の手当てを致しましょう。致命傷ではないようですが、放っておくのも危険です」

「何かもう、わたし、完全に忘れられてましたよね……」

 薄笑いを浮かべて、半助が呟く。

「ご、ごめん、半助! 大丈夫?」

 きり丸はおろおろと半助を見下ろした。全身真っ黒だから、何処から血が流れているのかよく分からない。それに手当てって、どうしたら良いのだろう。

「皆さん、隠れてないで手伝って下さい」

 斜堂先生は後ろを振り返って、そう呼びかけた。それを合図に、木の陰や茂みの中からいくつもの黒い人影が音もなく滑り出してきた。そしてこちらに向かって来る。それらは、きり丸の目には影の化け物のように見えた。

「大丈、夫……。皆、味方、だから……」

 きり丸の不安と恐怖を感じ取ったのか、半助が吐息混じりにそう告げた。味方ということは、この影たちも忍者なのだろうか。しかしきり丸は安心出来なかった。斜堂先生と相対したときと同じく、怖いものは怖い。

 影たちはどんどん近付いて来て、きり丸たちを取り囲んだ。大丈夫と言われても、それはやはり不気味な光景でとても恐ろしかった。影たちが今にも襲いかかってきそうで、きり丸はびくびくした。真っ黒な頭がこちらを覗き込む。きり丸は、身体をすくませた。