■家路へと 11■


 半助が忍者? まさか!  

  ……と、驚く時間も疑う余裕も一切与えられなかった。早く此処から出なければならないから、と言って半助は黒い羽織をきり丸に手渡した。

「これを、頭からかぶっていなさい」

「え、ええと……こう?」

 半助に聞きたいことは山程あったが、そんな場合ではないらしいということはきり丸にも分かる。きり丸は素直に、随分と大きなその羽織を広げて頭からかぶった。視界が真っ暗になって何も見えなくなる。すると次の瞬間、きり丸の身体がふわりと浮いた。何事かと思って、きり丸はぎょっとしてしまった。脇と膝の下に、手が差し入れられている。半助に抱え上げられているのだと分かり、きり丸は大層戸惑ってしまった。きり丸はもう九つなのに、幼子のように抱えられて気恥ずかしくもあった。

「えっ、半……っ」

「静かに」

 半助は何時になく鋭い声で、きり丸の言葉を制した。きり丸は反射的に口をつぐむ。半助はきり丸に顔を近づけて、吐息と紛うような声で言った。

「絶対に、何があっても声を出すなよ」

 ただならぬ半助の声音に、きり丸は唾を呑み込んだ。恐る恐る羽織をどけて半助の顔を見ようとすると、半助の手が伸びてきて羽織を引っ張った。再び、視界が黒一色に染まる。

「顔を出してもいけない」

 半助の言葉に、きり丸は黙って頷いた。

 半助と離れなくて済むと分かったら、次は銭のことが気に掛かった。床下に隠してある、きり丸の銭。此処に来てから必死で溜めた銭だ。本当はあれを持って行きたいが、何があっても声を出すなと言われたので口にすることが出来なかった。

 おれの銭。おれの命の銭。あれが悪い奴らに盗られてしまったらどうしよう。

 きり丸は、どうしようもなく心配になった。半助の胸の中で、彼の着物を軽くつかむ。そうすると、不安が少しだけ薄れた。

 音もなく、半助は歩き出した。いつもは彼が歩く度に床が軋むのに、今は静かだった。まるで体重がないみたいだ。それできり丸は、ああ半助は本当に忍者なんだと思った。胸がどきどきした。そうか、半助は忍者なのか。それならば、色んなことが納得出来る。一番最初に会ったとき、スリを見抜かれたのも逃げ切れなかったのも、半助が普通の人間ではなかったからか。

 そんなことを考えていたら、突然半助が走り出した。風で羽織が舞い上がりそうになり、慌てて布を掴む。いつの間にか、外に出ていたらしい。何も見えないので、全く状況が分からない。耳の側を通り過ぎる風の音と自分の心臓の音以外は、何も聞こえなかった。半助の足音は勿論、息づかいでさえも。敵とやらが追いかけてきているのかどうかも、きり丸には判然としなかった。本当に、何も聞こえない。

  きり丸の胸に、不安がこみ上げた。何も見えない、声を出せないということが、こんなにも心細いことだとは思わなかった。自分を抱きかかえているのは、本当に半助だろうかという気にさえなってくる。頭からかぶっているこの布を持ち上げて、半助の姿を確認したい。一目でいい。そうすれば安心出来るのに。

 きり丸は唇を噛んで羽織を握り締めた。しかし、駄目だ。半助の言いつけは守らなくてはならない。何があっても、声を出してはいけないし、顔を出してもいけないのだ。もうこれ以上、半助のことを裏切ってはならないのだと思った。

 そのとき、唐突に静寂は破られた。何処からともなく、長く尾を引く破裂音が聞こえてきたのだった。瞬間、半助の身体ががくりと傾ぐ。それと同時に、きり丸の身体はずり落ちかけた。

 声をあげそうになって、きり丸は咄嗟に手で口を押さえた。駄目だ、駄目だ、声を出しては駄目だ、と何度も自分に言い聞かせる。依然、周囲は黒一色だ。

  一体何が起こったのだろう。心臓が大きく跳ねる。もしかしたら、先程のは火縄の音だったのではないか。そして、半助が撃たれたのでは。きり丸の身体は震え出した。恐ろしくて、そして不安で不安で仕方がなかった。外の様子を窺いたい。半助の名を呼びたい。彼の無事を確認したい。

 半助は一瞬だけ体勢を崩したものの、数秒もしない内にまた走り出していた。それまでと、走る速さもきり丸を抱える腕の力強さも、何もかも変わらない。きり丸はそっと、息を吐き出した。彼が撃たれたというのは、きり丸の思い過ごしだったのかもしれない。

 ……しかしきり丸は程なくして、間近から漂ってくる血の匂いに気が付いてしまった。それと、先程まで風の音以外は何も聞こえてこなかったのに、僅かに半助の苦しそうな呼吸が耳に滑り込んでくる。

 半助、やっぱり、撃たれ……。

 反射的に、きり丸は自分の指を噛み締めた。身体の震えが大きくなる。半助、半助、と胸の中で何度も繰り返した。鼻腔に、鉄臭さがこびりついて離れない。

 おれが、半助と離れたくないと言ったからだろうか。半助はあの家に残ると言ったのに、おれが無理を言ったから。

 それからきり丸の脳裏に、今まで彼が行った悪事のすべてが蘇った。畑から作物を盗んだ。店先から商品を掠め取った。他人の財布をすった。半助宛の恋文を捨てた。これは罰なのだろうかと思った。日頃の行いが、こんな形で帰って来てしまったのだろうか。きり丸は一層強く、指に歯を立てた。