■家路へと 10■


「さて、あまりよくない状況です」

 斜堂先生は、儚い吐息とともに言った。半助は口をぎゅっと結び、姿勢を正す。

「そのようですね」

「密書の奪取に失敗したので、敵は強硬手段に出たようです」

「……参るなあ、明日はドブさらいの当番なのに」

 半助は、情けない声をあげた。きり丸は、彼らの会話に全くついてゆけなかった。頭上を飛交う言葉をきちんと頭で認識する前に、耳の外にするりと抜け出てしまう。

「ご愁傷様です。夜明けまでには片を付けましょう」

「ところで、何処の手の者でしょう」

 半助は表情を引き締めた。斜堂先生が、身を乗り出して半助の方に顔を寄せる。自然、半助にくっついているきり丸にも接近する格好になって、きり丸はヒッと息を呑んだ。

「松千代先生の情報では、……の手の者でほぼ間違いない、と」

 斜堂先生の声は細く、一部きり丸の耳では聞き取れなかった。しかし半助はきちんと内容を把握したようで、神妙な顔で頷いた。

「成程……。それは、厄介ですね」

「土井先生、例の密書は」

「今日、指定の場所で間者から受け取りました」

「結構」

「一応、追手は撒いたし偽書も仕込んだんですけどねえ」

「間者の方が捕らえられて、口を割ったようですよ」

「ああ……。だから護衛をつけましょうか、って言ったんですよ、わたしは」

 半助は、悔しそうに拳を握った。きり丸は、そんな彼の顔を見上げた。先程から、半助はきり丸の知らない表情ばかりをする。どうして良いのか分からず、きり丸は半助の体温を確かめるように彼の腕に触れた。

「実技の先生方がこちらに向かっておられますが、山田先生と日向先生が足止めを食らっているようです。少し、時間がかかるかもしれません」

「そうですか……。では、此処に長く留まるのも危険ですね」

「そうなりますね。さて、土井先生。如何しましょうか」

「わたしだけなら良いのですが、この子が……」

 半助は、きり丸の背に手を添えた。突然自分の話が持ち上がって、きり丸は反射的に背筋を伸ばした。斜堂先生が、ゆら、とこちらを見る。その幽霊のような所作も少し見慣れたが、それでもやっぱり怖かった。

 半助と斜堂先生が何を話しているのか、きり丸にはほとんど分からなかった。しかし、何やらただならぬ事態が起こっているらしい、ということは何となく理解出来た。それと、そのただならぬ事態に、半助が関わっているらしいということも。

「斜堂先生、わたしはここで応援が来るまで持ち堪えますので、この子を連れて先に逃げて頂けませんか」

 そう言って、半助はきり丸の背を押した。えっ、と思ってきり丸は半助を振り仰いだ。

「そうですね、それが良いでしょう。後方には、松千代先生と安堂先生もいらっしゃいますし」

 斜堂先生が頷く。きり丸は、ぐるぐるする頭の中を何とか整理しようと努めた。しかし、考えれば考えるほど目が回りそうだった。

「きり丸」

 半助がきり丸の両肩に手を載せ、視線を合わせてきた。

「詳しい説明をしている時間はないんだが、とかく、此処は危険だ」

「危険……って何だよ。……戦?」

 きり丸は、震える声で尋ねた。危険といえば、それが真っ先に思い浮かんでしまう。半助は痛みを堪えるような顔になり、しばし黙った。それから、首を横に振る。

「……いや、戦では、ない」

「ほんとに?」

「本当だ。ただ……なんて言うかな、悪い奴らがこの家の周りに潜んでいて危険なんだ」

「危険……」

 きり丸は、小さな声で繰り返した。次にきり丸の頭に浮かんだのは、野盗の類だった。もしそうならば、まず銭を守らなければと思った。

「だからお前は、こちらの斜堂先生と一緒に……」

「嫌だ!」

 きり丸は、考えるよりも先に叫んだ。叫んでから、半助と離ればなれになるんだという認識が頭に到着した。半助はきり丸を安心させるように微笑んで、ゆっくりとした口調で言った。

「大丈夫だ、怖くない。斜堂先生はお優しいし、こう見えて頼りになる方だから」

「嫌だっ!」

 やはり、きり丸は首を縦に振らなかった。別に、斜堂先生と一緒に行くのが嫌なわけじゃない。確かにあの人は怖いけれど、そういう問題じゃない。

「きり丸」

「半助と一緒じゃないと嫌だ!」

 きり丸は、半助に縋り付いた。声が波打つ。半助は、眉を寄せて苦しそうな顔をした。

「……駄目だ。人数が多いと、敵に察知される可能性が高い」

「じゃあ、おれも残る」

「きり丸、それは駄目だ」

「此処が危険なら、何で半助は残るんだよ。一緒に逃げなきゃ駄目じゃんか」

「わたしも、後から行くから」

 その言葉を聞いて、身体の底がぞわりとした。嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、とそればかりが頭を占める。

「嫌だ」

「きり丸、聞き分けなさい」

「嫌だ!」

「きり丸!」

「だって、父ちゃんも母ちゃんもそう言って帰って来なかった!!」

 こらえきれず、きり丸は叫んだ。半助が、息を呑む気配がする。きり丸は俯き、震える手で半助の着物を握りしめた。絶対に、何があってもこの手を離すものかと思った。

 しばし、静寂が降りた。

 やがて半助が、深い深い息を吐き出した。

「斜堂先生、あの、すみません。自分で言い出しておいて何なのですが……」

「では、三人で参りましょうか」

 半助の言葉が終わらない内に、斜堂先生はそう言った。半助は、申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません」

「構いませんよ、わたしはどちらでも」

 ふたりの会話に、きり丸は勢いよく顔を上げた。半助の手が、きり丸の頭にのせられる。

「そういうわけだ、きり丸。わたしも一緒に行くから」

 優しい声音で言う半助に、きり丸の目から涙が落ちそうになった。しかし慌てて、袖口で目元を乱暴にこする。

「それじゃあ、ちょっと着替えてきます。……きり丸、手を離しなさい」

 そう言って半助は、きり丸の肩に手を置いた。めいっぱい彼の着物を掴んでいたことを思い出して、慌てて手を離した。半助はふっと笑い、部屋の隅に歩いて行った。

  ……かと思ったら、すぐに戻って来た。ほんの僅かな時間で、半助は着替えを済ませていた。見たことのない着物だった。墨に浸したように真っ黒で、さらに同じ色の頭巾までかぶっているので、闇との境目がよく分からない。

「……半助、忍者みたいだ……」

 きり丸は呟いた。すると半助は困ったように目を細めて微笑んだ。

「だって、わたしは忍者だもの」