■家路へと 09■
「きり丸、もう食わないのか?」
半助の声が頭上から降ってきて、きり丸は我に返った。顔を上げると、不思議そうな半助の顔が視界の中心に飛び込んできた。手の中には、飯の椀がある。それで、今は夕飯を食っている最中なのだと分かった。
いつの間に家に戻ってきたのか、全く覚えていない。川にいたときから今まで、時がぷつりと途切れてしまったみたいだった。
「きり丸?」
半助の表情が、心配そうなものに変わった。きり丸は、彼の顔を直視出来なかった。見れば、手放した恋文の白さと「絶対に渡して頂戴ね」というあの女の声が蘇る。
「……ご馳走様」
きり丸は、傍らに茶碗を置いた。胸が苦しくて、食欲など欠片も湧いてこなかった。半助が、驚いた様子で目を丸くした。
「お前が飯を残すなんて珍しいな。具合でも悪いのか」
「いや、ちょっと……」
きり丸は言葉を濁した。一層、きり丸は苦しくなった。気遣わしげな半助の顔を見るのが辛くて、顔を伏せる。
半助は、腕を伸ばしてきり丸の額に手のひらをあてがった。大きな手の感触に、きり丸は肩を震わせた。
「熱はないようだがなあ」
半助は首を傾げた。優しい声音に、きり丸は叫び出したくなった。半助の手の温かさが、きり丸の身体に染みこんでゆく。
「きっと、働き過ぎだな。熱心なのは良いけれど、たまには休まないと駄目だぞ」
軽く笑って半助は言う。
ああ、ああ。おれはなんということをしたのだろう。おれは、半助のことも裏切ったんだ。
だけどきり丸は、このぬくもりが欲しかった。どんなに卑怯な真似をしてでも、この熱を手に入れたかった。
「きり丸」
半助の呼ぶ声がした。彼は奥の部屋から顔を出して、手招きをしている。いつの間にそちらに移動したのだろうと思っていると、半助はこう言った。
「きり丸、布団を敷いたからもう寝なさい」
うつむいて、きり丸は唇を噛んだ。しばしそのまま下を向いて、こみ上げてくる涙を呑み込む。
「……うん」
頷いて、きり丸は立ち上がった。
布団に潜り込んでも、まるで眠れる気がしなかった。黒々としたもやのようなものが頭の中を支配して、きり丸は何処までも暗い気持ちになった。
闇の中に、ほのかな灯りが見える。その灯りで、半助がこちらに背を向ける格好で書物を読んでいる。きり丸は、彼の背中を見つめた。特別体格が良い訳ではないけれど、きり丸にはとても大きく見えた。
「……なあ、半助」
きり丸は、半助の後ろ姿に声をかけた。
「うん?」
短い返事と共に、彼はこちらに顔を向ける。
「半助はさあ……」
言いかけて、きり丸は口を閉じた。何を言おうとしたのか、自分でもよく分からない。半助は穏やかな表情で、きり丸の言葉を静かに待っている。
「……半助、おれは」
絞り出すように、きり丸は言った。半助が目を瞬かせる。喉が締め付けられるようだったが、きり丸は震える唇を動かして続けた。
「おれは本当に、ここに居ても良いの」
その言葉に、半助ははっとしたように息を呑み込んだ。きり丸は、自分の体温で温んだ敷布を握り締める。
「……お前、そんなことを気にして……」
半助は小さな声で呟き、そこで言葉を切った。口元を引き締め、急に真剣な顔つきになる。彼の突然の変貌に、きり丸は戸惑ってしまった。
「悪い、きり丸。その話は後だ」
そう言って半助は片膝を立て、素早く左右に視線を走らせた。そしてそのまま、しばし沈黙する。痛い程の静寂に不安を覚えて、きり丸は身体を起こした。
「……半助?」
恐る恐る声をかけると、半助は深く息を吐き出し、「参ったなあ……」と肩を落とした。
「すまない、きり丸。お前を巻き込むことになりそうだ」
半助は、ぼさぼさの髪を更にかき混ぜた。やりきれない、といった面持ちである。半助の言う意味が分からなくて、きり丸は眉を寄せた。
「……土井先生」
突然何処からか静かな声がした。きり丸は驚いて、悲鳴をあげそうになった。素早く半助が手を伸ばし、きり丸の口を塞ぐ。きり丸は絶叫を呑み込んだ。
誰かがいる。半助ときり丸しかいないはずのこの家に、誰か他の人間が。
「斜堂先生。周辺の様子は」
半助は、抑えた声で囁いた。しゃどうせんせい? きり丸には、全く意味が分からない。そしてまた、闇の中から不気味な声がする。
「囲まれていますね」
その言葉に、半助はため息をついた。
「……やっぱり。それにしても斜堂先生、よく此処まで来られましたね」
「本気を出したわたしの気配は、決して誰にも悟られません」
暗がりに、ぼんやりと人影が浮かんだ。生気のない、青白い顔をした男が部屋の入り口に佇んでいた。きり丸は、全身の毛穴が一斉に開くのを感じた。悪寒とも痺れともつかないものが、身体を縦断する。
「ゆ、幽霊っ!」
声を引っ繰り返して叫び、きり丸は半助にしがみついた。すると、半助は軽くきり丸の頭を叩いた。
「こらっ。斜堂先生は、ちゃんと生きている人間だ。失礼なことを言うんじゃない」
「生きてるって……嘘だあ!」
きり丸は、一層つよく半助の着物を握り締めた。半助の言葉を聞いても、到底信じられなかった。だってどう見ても、死人だ。
「こちらは、わたしと一緒に仕事をしている、斜堂影麿先生だ」
半助の紹介に、きり丸はごくりと唾を呑んで恐る恐る斜堂先生とやらを見た。何やら真っ黒な着物を身につけているようで、闇の中に青い首だけが浮かんでいるように見えて一層恐ろしい。
そして、彼もまた「先生」らしい。一体、何の先生なんだ。この男が誰かに何かを教えている様など、全く想像がつかない。
「ほ、ほんとに、生きてんの……?」
きり丸は、小さな声で尋ねてみた。すると 斜堂先生と呼ばれた不気味な男は立ち上がって、足を曲げたり伸ばしたりしてみせた。
「生きてますよう。ほうら、足だってある」
きり丸は、彼の下半身を確認してみた。確かに、足はあるようだった。半助も幽霊でないと言っているし、どうやら本当に生きている人間であるらしい。しかしそれでも、不気味であることには変わりない。
「それは良いとして、土井先生」
言って、斜堂先生というらしい男は、半助に向き直った。
土井先生。聞き慣れない響きに、きり丸は目を瞬かせる。斜堂先生に、土井先生。そういえば、以前山田先生と呼ばれている男にも会った。彼らは、一体何なのだろう。半助の仕事に関係あるのだろうか。半助の仕事って何だ。何なんだ。
きり丸は、胸がざわつくのを感じた。不安が大きくなって、半助の袖口を握る手に力を込めた。
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