■家路へと 08■


 それから半月、そろそろ木の葉が色づく季節となった。

 きり丸はまだ半助の家に居た。半助は、何も言わない。何時から仕事が始まるだとか、何時までに出て行けだとか、そういうことは一切口にしなかった。

  しかし最近、半助は家を空けることが多くなった。何処に行っているのかは、分からない。行き先を告げずに朝方ついと家を出て、夕食どきには帰って来る。

「きり丸、ちょっと出掛けてくるな」

 この日も朝早く、半助は寝起きのきり丸に声をかけた。きり丸は布団に抱きついたまま、「んん……」と生返事を返した。頭の中がゆらゆらとして気持ちが良い。海に浮かんでいるみたいな気分だ。このまま、もう一度眠ってしまいたかった。

「暗くなる頃に戻る。火の元には用心しろよ」

「うん……」

 頷きながら目を閉じると、ごつん、という低い音と共に頭に鈍い衝撃が襲ってきた。

「いってえ!」

 きり丸は悲鳴をあげ、飛び起きた。心地よい浮遊感は消え去り、いっぺんに目が覚めた。頭をさすりながら顔を上げると、拳を握ってこちらを見下ろす半助の姿があった。

「ちゃんと聞いてるのか?」

 既に出掛ける支度を整えた半助が、眉を寄せて目を細める。

「聞いてるよ、もう! 火の元だろ、分かってるって!」

 だっていつも同じこと言ってんじゃん! ときり丸は叫んだ。

「分かってれば、よろしい」

 半助は満足そうに言って、腰に差した刀に腕をかける。相変わらず刀は立派だ。しかし着物が薄汚れているので、なんともちぐはぐな印象を受ける。きり丸は度々そのことを指摘しているが、改善しようという兆しは見られなかった。

「それじゃあ、行って来る」

「……あ、半助」

 きり丸は、半助を呼び止めた。玄関に向かおうとしていた半助が、こちらを振り返る。

「ん、何だ」

 どこに行くの。

 と聞こうとして、きり丸は思いとどまった。半助が出掛ける度、それを尋ねようとするが言い出せないでいる。

  ここ最近半助の外出が多いのは、彼の休暇が終わったからではないだろうかときり丸は思う。しかし、確かめるのが恐ろしかった。きり丸が居候し続けていることに対して半助が何も言わないのは、最初の約束を彼が忘れているからではないか。だからここで余計なことを言ったら、半助が約束を思い出してしまうかもしれない。

  このまま黙っていれば、きり丸はこの家にいられる。多分。きっと。……しかし絶対ではない。それはきり丸を大いに不安にさせた。もしかしたら、明日には突然半助が約束を思い出して、きり丸に出て行ってくれと言うかもしれない。きり丸は果たして、この家に居続けて良いのかそうでないのか。

 しかしきり丸は、なるべく明日のことは考えないようにしていた。少なくとも今日は、この家に居ることが出来る。それを感謝して生きよう。きり丸は、掛布をぎゅっと握り締めた。

「……何でもない。行ってらっしゃい」

 そう言って手を振ると、半助も笑顔で軽く手を振り、きり丸に背を向け歩き出した。半助が出て行くのを見送ってから、きり丸は掛布に顔を伏せて息を吐き出した。





 いつものように仕事を探すため外に出たら家の前に、姿勢の良い、美しい女が立っていた。きり丸はどきりとして、一瞬息を止めた。女の、艶やかな黒髪が風で揺れる。以前、髪結い処まで案内した女だった。

「こんにちは、きり丸くん」

 女は濡れ濡れとした瞳でこちらを見た。きり丸は軽く頭を下げた。どんどん鼓動が早くなる。顔が強張りそうになるのを、必死でこらえた。

「わたしのこと、覚えているかしら」

「……覚えてるよ。髪結い処まで案内した」

 彼女の妹が半助に恋をしている、ということは敢えて言わなかった。

「ふふ、覚えていてくれて、嬉しいわ」

 女は口元に手を当て、上品に微笑んだ。それから、半助の家を見やる。

「半助様は、いらっしゃるかしら」

「ううん、出掛けてる」

「あら、そう……それなら」

 そう言って女は、懐から一通の文を取り出した。きり丸の胸が、一層大きく騒ぐ。

「妹が、半助様にやっと恋文を書いたの。何度も何度も書き直して、十日もかかってしまったけれど」

 女は優雅な仕草で文をついときり丸に差し出した。きり丸は、唇をきつく噛んだ。ああとうとう来てしまった、と思った。

「渡して貰えるかしら」

 きり丸はしばし手が出せずにいたが、促すように文をもう一度差し出されて、とうとう恋文を受け取った。ただの紙なのに、やけに重く感じた。

「お礼は、幾ら程渡せば良いかしら」

 女の声に、手の中の恋文を注視していたきり丸は、はっとして顔を上げた。華やかな、女の顔が目に入る。

「い……いや、お代は後払いで良いよ!」

 言って、きり丸は文を着物の中にしまい込んだ。女は「そう?」と首を傾げる。

「それじゃあ、必ず渡して頂戴ね。中身を見ては駄目よ」

 女の言葉に、きり丸は何度も頷いた。息が苦しい。頭もがんがんしてきた。

「じゃあ、おれ、仕事があるから」

 一刻も早くこの場から立ち去りたくて、きり丸は早口で言った。女は笑みを深くする。

「そう、偉いわね。頑張ってね」

「うん、それじゃあ」

 きり丸は、女の顔を見ずに走り出した。後ろから、女の声が追いかけてくる。

「恋文、忘れずに渡して頂戴ね」

 きり丸は前だけを見つめ、腕を振り、速度をあげた。女の透き通った声が、きり丸の耳にまとわりついて何時までも離れなかった。





 気が付けば、きり丸は町外れの川辺まで走って来ていた。仕事を探すはずだったのに、何故こんな所に来たのだろうと思う。太陽の光を受けて、水面がきらきらとまばゆかった。

 きり丸は立ち止まり、肩で大きく息をした。震える手で、着物の中から先程預かった恋文を取り出す。半助への恋文。この半月、ずっと考えないようにしていた一番の懸念が、目の前にある。紙の白さが目に突き刺さるようだった。

 捨ててしまえ

 と、不意に頭の何処かから声がした。


  捨ててしまえ。半助は、自分に懸想している女の存在など知らないのだ。今ここで川に流してしまえば、何もかも無かったことに出来る。またいつもと変わらない、忙しなくも幸福な日々が始まるのだ。しかしきり丸がこの文を半助に渡せば、きっと全てが変わってしまう。

 きり丸は震えながら、首を横に振った。そんなのは駄目だ。だって恋文だぞ。あの人の妹が、半助を想って十日もかけて書いた文だ。恋だの愛だのはまだよく分からないが、大事なものだということは分かる。ちゃんと渡さないと。それに商いは信用が第一。金払いの良い顧客ほど、大切にしていかなくては。

 それに、渡しても何も変わらないかもしれない。この恋文を渡したからって、半助が結婚してしまうとは限らない。

 ああ、だけど、だけど!

 もし、もし半助が結婚してしまったら、きり丸はあの家にいられなくなってしまう。捨ててしまえ。こんな忌々しいものは捨ててしまえ。 駄目だ。駄目だ!

 川面を覗き込む。苦しそうな表情の自分が、透明な水の中で揺れた。

 故郷と家族を失って、きり丸は生きるためにどんな卑怯なことだってしてきた。人の金を盗った。たくさん騙した。今更、恋文を捨てるくらい何だ。

  だけど、半助は「本当はそんなことしたくないだろう」と言った。きり丸もそう思った。ああ、だけど、これさえなければ。

  恋文を握る手を水面にかざした。水が光る。手が、がくがくと大きく震える。歯の根も噛み合わなくなってきた。

 きり丸は色々なことを思い出した。何故か、半助に叱られた記憶ばかりが浮かぶ。彼の家に世話になってから、きり丸はしょっちゅう半助に叱られた。怒ったときの半助は本当に怖い。

 一番怒られたのは、半助に内緒でこっそり合戦場で仕事をしようとしたときだ。結局仕事を始める前にばれて、おまえは何を考えているんだと、思い切り頬を打たれた。顔が焼けるかと思うくらい痛かった。あまりの痛さに泣きそうになったら、半助が泣きそうな顔をしていたので涙が引っ込んだ。

  そんなことを思い出しながら、きり丸は文から手を離した。

  恋文はふわりと水面に落ちた。中の墨が染み出てくる。そして水流に乗って、くるくる回りながら文は下流へと消えて行った。

 文が視界から消えた途端に頭痛と吐き気が酷くなって、きり丸はしばしその場にうずくまった。頭の中が、ぐるぐると回る。視界もおぼつかない。胸が苦しくて、そして痛くて痛くて仕方がなかった。

 それは「罪悪感」というものだということを、きり丸はまだ知らなかった。