■家路へと 07■


 それにしても半助に恋をしているなんて、物好きな女もいたものだ。

 女と別れ、次の仕事へと向かう道すがら、きり丸はそんなこを考えて頭を掻いた。いつも大家さんに頭を下げ、お隣のおばちゃんに叱られている冴えない男なのに。顔だって、まあ悪くはないけれど、一目で恋に落ちるほどの美形でもないと思う。一体、何処が良かったのだろう。

「女の考えることは分かんねえや」

 きり丸は首を横に振った。

「よお、きりちゃん! さっきはえらい別嬪さんを連れてたじゃねえか」

 もと来た道を戻ってゆくと、塩売りのおっちゃんが冷やかしの声をかけてきた。違うよあの人の妹が半助のことを……と言いかけて、ああそうだヒメコイなんだということを思い出す。

「あはは、道案内の仕事だよ」

 そう言って軽く手を振ると、おっちゃっは残念そうに舌打ちをした。

「何だ、そうだったのか。まだちっせえのに、あんな美女を嫁に貰うたあ大した奴だと思ったのによ」

「嫁って、おっちゃん」

 どんだけせっかちなんだよ、ときり丸は声をあげて笑った。しかしおっちゃんと別れてから、ふとあることに気が付いた。

 もしあの女の妹が半助に恋文を渡したら、どうなるのだろう。半助がそれを読んで彼女の気持ちに応えたら、半助と彼に懸想している女は夫婦になるのだろうか。

……なるのだろう。そりゃそうだ。そうに決まっている。だって半助は大人なのだから。

  あの女の妹なら、きっと美しい女性に違いない。それに恐らく、金も持っている。普通の男なら、喜んで縁談を結ぶに決まっている。夫婦になったら、その女の人が半助の家にやって来てそれから……。

 きり丸は足を止めた。

 そうなれば、そこにきり丸の居場所はない。

「そっか」

 ぽつりと、独白が口からこぼれる。

「そっか、そうだよな」

 ごく当たり前のことだ。それなのに、先程から胸にじわじわと広がってゆくこの空虚感は一体何なのだろう。歯の奥が、そして耳の後ろがむずむずしてくる。これは、一体何なんだ。

 ……ぼうやは、あすこのお家の子なの?

 先程の、あの女の声が蘇る。こめかみが締め付けられるようだった。

 きり丸はあの家の子どもではない。たまたま半助に拾われて、面倒を見てもらっているだけだ。だから半助が誰かと夫婦になっても、どうこう言う権利なんて何処にもない。

 いや、そもそもおれは、何か勘違いをしていないか。

 きり丸は思った。半助が嫁を貰おうが貰わなかろうが、半助の休暇が終わったらあの家から出て行かなくてはならないのだ。最初から、そういう約束だった。あまりに日々がせわしなく過ぎてゆくから、すっかり忘れてしまっていた。

 半助は、いつから仕事に出掛けるのだろう。そういえば、聞いたことがない。無意識の内に、聞くことを避けていたのかもしれない。しかし、そう何ヶ月も休暇が続くはずがない。きり丸が半助のところに来てから、もう一月が経った。きっと終わりは近い。

「そっかあ」

 きり丸は顔を上げて、ふたたび歩き始めた。何だか色々と納得してしまった。

「これからどうするか、考えないとなあ」

 淡々とした口調で、独り言を続ける。いつまであの家にいられるか分からないのだから、半助の家を出た後のことを考え、準備しなくてはならない。しかし、行くあてなど何処にもない。仕事を通して親しくなった人はいるが、これからおれの面倒を見て下さい、なんて言えるはずがかった。何処の家だって大変だ。

「ま、今までも家無しでやって来たんだしさ」

 空を見上げ、きり丸は少し笑った。うつくしい、水色の空が広がっている。手を伸ばせば、雲をつかむことが出来そうだった。

「仕事はいくらでもあるし」

 うんうん、ときり丸は頷いた。銭だって、良い調子で溜まっている。大丈夫だ。大丈夫。なんとかなる。きり丸は自分に言い聞かせるように、何度も頷いた。

「そうそう、きっと大丈夫……」

 また最初に戻るだけだ。なんてことはない。そう、なんてことないんだ……。

 ああ、嫌だ! 嫌だ!!

 突然恐ろしくなって、きり丸は心の中で絶叫した。

  嫌だ。住む場所を失うのは嫌だ。もうあんな暮らしには戻りたくない。土に伏し、ぼろきれにくるまって震えながら眠る生活はしたくない。道端に落ちている腐った食い物を、犬猫と奪い合うようなことはしたくない。けものの気配や盗賊の足音に怯え、ひとときも心の安まらない惨めで心細い日々はもう嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 あの毎日は地獄であった。希望も何もあったものじゃなかった。ただただ辛いばかりで、いいことなどひとつも無かった。自分が段々人間でなくなっていく感覚など、思い出したくもない。やっと、やっとそこから抜け出すことが出来たと思っていたのに。また全てを失わなくてはいけないのだろうか。

 きり丸は自分の小さな手をじっと見つめる。これで一体、何が出来るのだろう。しかし嫌だ嫌だとごねてみても、どうにもならない。どうにかしていかなくてはならない。

「……稼ごう」

 きり丸は呟いた。もっともっと働いて、とかく銭を稼ごう。それしか道はない。

 脳裏に半助の顔が浮かんで、何だかきり丸は泣きたくなった。