■家路へと 06■


「ここに来る途中、杭瀬村に寄ってな。これは土産だ」

 山田の声だ。きり丸はさらに耳をすました。次いで、半助の声が聞こえてくる。

「おっ、ありがとうございます。ここのらっきょう、美味いんですよね」

「雅之介も元気そうだったぞ」

「そうですか、何よりです」

「あのうさぎも元気だった」

「相変わらずですね」

 半助が、和やかな笑い声をあげる。なんてことはない、世間話のようだった。何だよつまらない、ときり丸は顔をしかめた。内緒の話をするのでは、というのはきり丸の見込み違いだったのだろうか。いやいや、もう少し粘っていたら、話題が変わるかもしれない。

「きりちゃん、そんなところで何をしてるの」

 突然声をかけられて、きり丸は飛び上がらんばかりに驚いた。大声をあげそうになって、慌てて両手で口をふさぐ。振り向くと、玄関の前に近所に住む若奥さんが立っていた。最近子どもが産まれたばかりで、乳飲み子にかかりきりだからということで簡単な家事手伝いの仕事をしばしば回してくれる、お得意様だった。

「ど、どうも、ちわっす」

 きり丸は片手を上げて挨拶した。若奥さんは笑って、頬に手を当てた。

「きりちゃん、悪いんだけどまた、薪割りを頼めないかしら」

「うん、やる!」

 きり丸は目を輝かせた。仕事だ。仕事が入ると心が弾む。

「……あ、でも今、お使い頼まれてるんだ。すぐ行ってくるから、その後でも良い?」

「ええ、良いわよ。お願いね」

 若奥さんは柔らかく微笑んだ。きり丸は「じゃあ、後で家まで行くから!」と告げて走り出した。もう、半助と山田のことは頭から吹っ飛んでしまった。仕事。とかく仕事である。それが何よりも大事だ。きり丸は小さく笑い声をあげ、町をびゅんびゅん駆けた。





「ただいま! お茶買って来たよ、半助!」

 きり丸は玄関に片膝を乗せ、円座に座る半助に声をかけた。半助は笑顔で振り向き、立ち上がった。

「お帰り、すまないな」

「そんで、これから薪割りと子守と配達の仕事に行ってくる!」

「そんなに沢山、大丈夫か?」

 半助は目を丸くした。それから、半助が何やら言いたそうな顔をするので先回りして、

「夕飯までには帰って来るよ」

 と笑ってみせた。夕飯までに帰って来ること、危ない仕事はしないこと。それが、半助の家に住まわせてもらう際に出された条件だった。これを破ると、半助にこっぴどく叱られる。しかも拳骨付きで、だ。

「分かっていれば良いんだが」

 半助は苦笑いし、きり丸の手から茶葉の包みを受け取った。それと同時にきり丸は走り出した。

「それじゃあ、行って来まーす!」

「……元気のいい子だな」

 という、山田の声がちらりと聞こえた。そういえば彼は何者だったのだろう、という考えが一瞬だけ脳裏に甦ったが、目の前の仕事の方が大事なので気にしないことにした。ちょっと雰囲気は怖いけれど、悪い人間ではないようだし、何でもいいや。

 走りながら、きり丸は今日の賃金を頭の中で計算した。それから、これまでに貯めた銭の額も。自然、口元に笑みが生まれる。これでまた、少しだけど銭が貯まる。きり丸の命が満ちる。この、言いようのない充足感。

ああ、たまらない!





 ある日のことだった。いつものように朝から稼ぎに出かけようと家を飛び出したきり丸に、声をかける者があった。

「もしもし、すいません」

 きり丸は足を止めて、相手を振り仰いだ。それは大層美しい、若い女であった。きれいな着物に身を包み、白い顔には赤い唇が濡れ濡れと輝いている。この辺りでは、見かけたことのない顔だ。

「はいはい、何?」  

「この辺りに、髪結い屋さんがあるって聞いたのだけど」

 女は、目を瞬かせて小首をかしげた。きり丸は「ああ」と頷いた。髪結いなどきり丸には縁のない場所であるが、この街の髪結い処は有名なのでよく知っている。

「髪結い処なら、反対方向だよ」

 きり丸はそう言って、にっと笑った。

「案内してあげようか?」

「あら、良いの?」

 女は嬉しそうに顔を輝かせた。しめた、ときり丸はこっそりこぶしを握った。この女は身なりが良いから、きっと金を持っている。案内料をせしめてやろう。心の中で含み笑いを漏らす。

「ぼうやは、あすこのお家の子なの?」

 並んで髪結い処まで歩く道すがら、何気ない口調で女が問うた。その質問に、今までの浮かれた気分が一気に引っ込んだ。

「……ううん」

 声が、自然と小さくなった。それから一度息を吸って、声音を明るくする。

「違うよ。今ちょっと、世話になってるだけ」

「そうなの」

 女は軽く頷いた。きり丸は女の顔を見る。

「何で、そんなこと聞くの?」

 尋ねると、女は周りを素早く見回した。それから、身をかがめてきり丸に顔を近づけた。

「……あのね、内緒よ」

 女は声の音量を落とした。なにやら重大なことを告げようとする口ぶりだった。何だ何だ、ときり丸は目を瞬かせる。

「うん、何?」

「……わたしの妹が、こちらにお住まいの殿方に恋をしてしまって」

「半助にっ?」

 あまりに驚いたので、きり丸は聞き返した。すると女は慌てたように、「しいっ」と口元で指を立てた。

「秘め恋なの。絶対、誰にも言わないでね」

 よく分からないが、きり丸は頷いておいた。女はため息をつき、胸に手を当てた。

「妹は気が小さくて、半助様について知りたいけれどとても声がかけられないからって。だからわたしが、髪結いに来るついでに寄ってみたの」

「へえー」

 きり丸は気の抜けた声をあげた。恋。何処かの誰かが、半助に恋をしている。にわかにはぴんと来ない話だった。

「半助様は、どんなお仕事をなさっているのかしら」

「知らない。あ、でも、今は休みだって言ってた。でも、家にいないことも多いな、そういえば」

「今の時期がお休みのお仕事って、一体何かしら……」

 女は不思議そうな顔をした。やけに突っ込んでくるなと思ったが、まあでも妹の惚れた男が変なのだったら困るもんな、と納得した。しかし半助がまともな男なのかどうかは、きり丸にもよく分からない。

「さあ? あ、そういえば、こないだ半助の仕事仲間って人が来てたな。半助はその人のこと、先生って呼んでた」

「先生」

 女は繰り返した。きり丸は頷きつつ、道の端で出店の準備をしていた塩売りのおっちゃんに手を振った。たまに仕事を手伝うので、顔見知りなのだった。おっちゃんは準備の手を一旦止めて、笑顔で手を振り返してくれる。

「剣術の先生か何かかな、って思ったんだけど。半助も、抜いたとこは見たことないけど、結構立派な刀を持ってるし」

 使わないなら売ればいいのに、ときり丸はこぼした。あの刀は結構高く売れそうだと、きり丸はもうずっと目をつけていた。

「あ、ここだよ」

 きり丸は、橋のたもとで立ち止まった。この町の髪結い処は大変な人気なので、若い女性たちが長い列を作っているのが見える。

  女はきり丸を見て、優雅な仕草で微笑んだ。

「案内してくれて、ありがとう」

「いいよ、それよりお駄賃ちょうだい!」

 満面の笑みを浮かべて右手を出すと、女は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて「しっかりしてるのね」と言って、苦笑とともに小銭を落としてくれた。しかも思ったより多い。きり丸は、銭をしっかりと握り締めた。

「毎度あり! また何か、困ったことがあったら言ってよ」

 きり丸は愛想の良い笑顔を浮かべた。どんな小さな商売でも、次に繋げることが大事。それも、ここに来てから学んだことだ。

「それじゃあ、妹が半助様に恋文を書いたら、あなたに渡してもらおうかしら」

「うん、そのときは是非。特別料金で受けたげるよ」

「本当に、しっかりしてるわ」

 女は笑って、行列の最後尾に並んだ。きり丸はそれを目の端で見送ってから、歩き出した。新たな顧客を掴んだことで、機嫌が上向きになった。