■家路へと 04■


 おばちゃんから頼まれた洗濯物の量は、尋常じゃなかった。

「子どもがまだ小さいから、なかなか洗濯する暇がなくってねえ」

 とおばちゃんは言い訳するように笑っていたが、それにしても多い。タライに山のように積まれた洗濯物を見て、きり丸は軽く絶望を覚えた。これで一日が潰れてしまうことは明白だった。昨日も一文だって稼げていないのに。一瞬このまま逃げてしまおうかと思ったが、人の好いおばちゃんの笑顔を思い出すと出来なかった。

 川の端で、きり丸は洗濯を始めた。夏の日差しがまともに降り注ぎ、その暑さにすぐ挫けそうになった。水を使えることが、唯一の救いだった。きり丸は何度も手を止めて水を飲んだ。その度に、何でおれがこんなことを、と思った。そしてそう思うごとに、半助の顔が浮かんだ。

  全てあいつのせいだ。人のために洗濯なんかやっている暇などないのに。町に出て獲物を探さないと、もう銭が無い。洗濯物の中から売れそうなものを盗んで……というのも考えたが、野良着にふんどし、それに手ぬぐいばかりだったので諦めた。

 心の中で半助に対し、思い付く限りの悪態をつきながら洗濯していると、足元に鞠が転がってきた。顔を上げると、きり丸よりも小さい男児がこちらに向かって走って来るのが見えた。それよりも少し離れたところに、彼の仲間らしい子どもが数人立っている。

 少年はきり丸の側で立ち止まり、鞠を抱きかかえるように拾い上げた。そして、不思議そうな顔できり丸を見つめる。五、六歳だろうか。頬の肉付きがやけに良く、赤い顔をした少年だった。

「兄ちゃん、誰?」

 そう言って少年は、屈託のない仕草で首をかしげる。きり丸は、言いようのない苛立ちを覚えた。

「うっせえな。誰でもいいだろ」

 邪険な口調でそう言って、少年から目をそらす。そちらを見ないようにして洗濯を再開させるが、少年の立ち去る気配はない。

「ねえ、兄ちゃん。ぼくらと遊ぼう」

 少年は、きり丸の着物を引っ張った。

「……今忙しいんだよ。見て分かんだろう」

 怒りを押し殺し、低い声でそう告げた。しかし少年には彼の憤りは伝わっていないらしく、先程よりも強い力できり丸の着物を引いた。

「ちょっとくらい良いじゃない。遊ぼうったら」

 ねだるような声に、きり丸は目の裏がごうっと熱くなるのを感じた。

「うるせえな! 忙しいって言ってんだろ! あっち行け!」

 怒鳴って、荒々しく少年の手を振り払う。その勢いで、少年の手から鞠がこぼれた。鞠はてんてんと地面を跳ね、少年の足にぶつかって止まった。彼はしばし呆然とその場に立ち尽くしていたが、やがて「うああああっ」と泣き喚き、鞠を拾って仲間たちの元に走って行った。

 きり丸は濡れた手で、自分の胸元を掴んだ。胸の辺りが気持ち悪くて仕方がない。何もかもが腹立たしかった。きり丸だって出来ることなら、あの少年のように何も考えずに走り回っていたい。実際、少し前まではそうだった。近所に住む仲間たちと木に登ったり隠れ鬼をしたり、川に行って泳いだり。

  だけど今は一緒に遊ぶ仲間も場所も時間も何もない。

  何も。

  何も!

 今きり丸にあるのは、山ほどの洗濯物だけだった。汗を流して他人の着物を洗わなければならない理不尽さや、何も分かっていない子どもへの怒り、そしてあんな小さな子どもに憤りをぶつけてしまった情けなさ、その他色々なものがこみ上げてきて、きり丸は泣きそうになった。

  両手を地面に突いて、空気と唾を交互に呑み込んだ。泣くな、泣くな、泣くな、と自分に言い聞かせる。涙を流すことは無駄遣いだ。無駄だ。ああ、この洗濯だって無駄だ。時間と労力の無駄遣いだ。きり丸は歯をきつく噛み締めた。無駄だ。こんなことしたって、何にもならない。

 きり丸は、おばちゃんのものと思われる山吹色の着物を握りしめた。それを衝動的に、地面に投げ捨てる。びしゃりという音がして、着物は瞬く間に砂利まみれになった。それを見て、きり丸は何だか急に虚しくなった。燃えさかるような激情がすうっと引いて、どこかぼんやりとした気分になる。先程の少年が、まだ遠くで泣いているらしかったが、それも何やら別世界のことのように思えた。

  きり丸は表情無く着物を拾い上げ、水に着けて丁寧に洗い直した。




 夕方に、乾いた洗濯物を取りまとめたきり丸は、タライを抱え、身体を引きずるようにして隣家の戸口に立った。あれからずっと、全身のだるさが抜けなかった。

「おばちゃーん……終わったよー……」

 足元にタライと洗濯物を置き、力のない声で呼びかける。そうするとすぐに軽快な足音がして、おばちゃんがやって来た。

「ありがとうねえ、助かったわ! あら、随分疲れたみたい。ちょっと多かったかしら」

「ううん」

 きり丸は、ふらりと首を横に振った。それはもう、どうでも良かった。とにかく、此処を離れたくて仕方がない。

「それじゃあ、はい、これ」

 おばちゃんは笑顔できり丸の手を取り、彼の手のひらに何かを乗せた。一体何だと思って視線を落とすと、そこには鈍色の銭が数枚があった。きり丸は目を見張った。それから慌てて顔を上げ、おばちゃんを見上げる。おばちゃんは、にこにこと柔らかく微笑んでいた。

「約束のお礼。頑張ってくれたから、少しおまけしてるよ」

 きり丸はぽかんと口を開け、もう一度手の上を見た。銭だった。どう見ても、銭だった。今一番、きり丸が必要としているものが、そこにあった。




「半助、半助!」

 きり丸は半ば叫ぶように半助の名を呼び、戸口でわらじを脱ぎ捨てた。足音も荒々しく家の中に駆け込み、奥の部屋で何やら書き物をしていた半助の元に転がり込む。

「何だ何だ、騒々しいな」

 半助は筆を置き、苦々しい口調で言いつつ振り返った。しかし、顔は笑っている。

「半助、隣のおばちゃんとこの洗濯したら、銭をもらった!」

 興奮していたきり丸は、舌がもつれそうになりながら早口で言った。顔が熱い。鏡を見なくても、今の自分の顔は紅潮しているのだろうと分かる。

「そうか、良かったな」

 半助は嬉しそうに、何度も頷く。きり丸は拳をそっと開いて、先程受け取った銭をもう一度見た。つよく握りしめていたので、手に青銅の匂いが移ってしまった。それでもきり丸は、それを心地よく感じた。くすんだ色の銭が、きり丸の目には何故か金色に見えるようだった。

「きり丸」

 半助に名を呼ばれたが、きり丸は銭から目を離せなかった。この銭は自分のものなのだと思うと嬉しく、また幸せになった。

「きり丸、これからは今日のように誰かのために働いて、対価として銭を得なさい」

 きり丸はようやっと、顔を上げて半助を見た。時間をかけてゆっくりと、半助の言葉が頭に、身体に染みこんでくる。

「出来る限り仕事の紹介はするし、しばらくはわたしも仕事が休みだから、この家を使っても良い」

 そう言って、半助は微笑んだ。それから一旦言葉を切り、きり丸の頭にぽんと手を置いた。

「だからもう、スリなんかやめなさい」

 半助の大きな手が、きり丸の髪をかき混ぜる。しかしきり丸は、この男は何を言っているんだろう、と思った。そんなこと言ったって、この銭で一体何日生きられると思っているんだ。生きてゆくには、もっと銭が要る。人から奪ってでも銭を得ないと、きり丸は死んでしまう。

「お前も、本当はそんなことしたくないだろう」

 そんなことねえ、と反論しようとしたのに、何故かきり丸の目からぼろりと涙がこぼれた。前触れも何もなく突然涙が溢れてきて、きり丸は狼狽えた。

  無駄なのに、涙を流すなんて浪費以外の何ものでもないのに、止まらない。堰き止めようと思っても、駄目だった。いつもなら唇を噛み締めて腹に力を込めれば止まる涙が、このときはどうやっても止まらなかった。次から次へと涙が出る。頬から顎を伝って、銭の上にぼたぼたと雫が落ちる。

  そこで初めてきり丸は、ああそうかおれはスリなんて本当はやりたくなかったのか、ということに気が付いた。

「……っ」

 きり丸は唇を噛んだ。半助が、きり丸の背中をやわやわとさする。それにもまた、涙が溢れてしょうがなかった。