■家路へと 02■
「やれやれ、久し振りの我が家だ……」
男は、ごく普通の町家に住んでいるようだった。男が眩しそうに目を細め、玄関の戸を開けたところで、
「あら、半助。帰ってたの」
と、籠を携えた中年女性が声をかけて来た。半助、ときり丸は胸の内で復唱した。それが男の名前らしい。名前が分かると、急に男が人間に見えてくるから不思議だ。
「ああ、どうも。お久しぶりです。今帰って来たところなんですよ」
どうやら近所に住んでいるらしい女性に、半助はにこやかに挨拶をした。ふくふくと太った中年の女性は「あらあら」と言って、頬に手を当てる。
「あんたがあんまり帰って来ないから、大家さん、この家をもう他の人に貸しに出すって言ってたわよ」
「えええっ! いえ、でも私はこうやって帰って来て……」
「多分今頃、大家さんの家で入居希望者と商談してると思うんだけど」
「な、何ですって! 大変だ!」
半助は慌てて走り出……そうとして、たたらを踏んで立ち止まった。そしてこちらを振り返り、
「あっ、そうだお前、名前はっ?」
と、早口できり丸に問う。
「えっ、あっ、きり丸」
半助の勢いに圧されて、つい素直に答えてしまった。半助は「きり丸か」と頷き、彼の家を指さした。
「中に入って、待っててくれ。私は大家さんのところへ行き、家賃を払って、今後も住めるよう交渉してくるから!」
彼はそう告げると、風のように走って行ってしまった。きり丸はぽかんとした表情で、それを見送った。目の前で起こっていることを、すぐには呑み込むことが出来ない。ついさっきまで謎めいた妖だった男が、一気にだらしがなくて情けない若者になった。
「あんた、半助の親戚か何かかい?」
呆然としているきり丸に、先程の中年女性が声をかけてきた。
「え? えーと」
答えあぐねていると、おばちゃんはまじまじときり丸を見つめて、顔をしかめた。
「あらやだ、随分と痩せてるじゃないの。駄目よ、子どもはもっと太っていないと。そうだ、これを持ってお行き。裏の畑で取れた西瓜。今井戸から引き上げたところでね、よく冷えて美味しいから。半助が戻って来たら、一緒に食べなさい。ほら、持てる?」
おばちゃんは息つく暇もなく喋りながら持っていた籠を足下に置き、その中から大きな西瓜を一玉取り出した。そしてそれを、口が開いたまま動けないきり丸の腕に押しつける。ひんやりとした感触に驚いて、西瓜を取り落としそうになった。
「あらあら、大丈夫? あたしが家の中まで運んであげようか」
「う、ううん。大丈夫」
きり丸は首を横に振り、両手でしっかりと西瓜を抱えた。おばちゃんはそれを見て、満足そうに笑った。
「そう、それなら良いの。西瓜の種は飲んじゃいけないよ。へそから芽が出るからね。それと、美味しいからって一気に食べ過ぎても駄目よ」
「え……あ……」
陽気なおばちゃんは、一気にまくし立てる。きり丸はそれに戸惑いながらも、言いようのない懐かしさを感じて胸が苦しくなった。こういうとき、何か言わなければならないことがあるような気がする。だけどその言葉が何なのか分からなくて、意味をなさない切れ切れの音が口から漏れた。
「それじゃあね。しっかり食べて大きくなるんだよ」
おばちゃんは籠を抱え上げ、笑顔で去って行った。きり丸は結局、何も言えずじまいだった。遠くなるおばちゃんの後ろ姿を見つめながら、ああそうだ、と思い出した。
こういうときは、ありがとう、って言うんだ。
きり丸は西瓜を抱え、半助の家に入った。中は埃っぽく、長い間使われていないのが一目瞭然だった。視界の端を、ネズミが走り抜けてゆくのが見えた。空気の悪さに、きり丸は数度咳き込んだ。大家が新しい貸し手を捜したくなるのも、分かる気がした。
とにかく、適当な床に西瓜を下ろす。薄暗い家の中で、つややかで瑞々しい果物が随分と浮いて見えた。
「やれやれ……どうにか追い出されずに済んだ」
疲れた表情で、半助が戻って来た。そして床に置かれた西瓜に目をやり、
「おっ、どうしたんだ、その西瓜」
と声を上げる。
「さっきのおばちゃんが、くれたんだ」
盗んだと思われたくなくて、きり丸は間髪入れずに答えた。今まで何度も盗みを働いてきたし、この男の財布も盗ろうとしたのに、今更そんな気分になったのは何故だろう。自分でも、よく分からなかった。
半助はきり丸の言葉を聞いて、「そうかそうか」と嬉しそうに頷いた。
「それじゃあ、後でお礼を言いに行かないといけないな。よし早速食おう」
半助は力強く言ったが、荒れ放題の室内を見て大きく息を吐いた。
「……その前にまず、掃除だな」
そういうわけで、大掃除が始まった。当たり前のようにきり丸も手伝わされた。あれをしてくれこれをしてくれと、ひっきりなしに仕事を持ってくる半助に、きり丸は何故か素直に従った。
床の拭き掃除をしながら、ああ家でもこんな風に手伝わされたな、と思った。
そのとき不意にきり丸は、自分が故郷の家にいるような錯覚にとらわれた。今、自分の後ろで棚の埃取りをしている男は、実は自分の家族なんじゃないかという気がしてくる。
だがその空想は、長くは続かなかった。すぐにきり丸は気付いてしまった。床板の木目が違う。匂いが違う。ここは、きり丸の家ではない。
涙が出そうになって、奥歯をぐっと噛み締めた。泣いてどうなる。体力と塩分を浪費するだけだ。きり丸は力を込めて、布で床を擦った。
陽も暮れかける頃、ようやく掃除が終わった。きり丸は、へとへとになって炭櫃の側に座り込んだ。
「いやあ、すっかり手伝ってもらっちゃって、悪かったなあ」
軽く笑いながら、切った西瓜を持って半助が上がってくる。
「さあ、食おう」
赤く濡れた美しい果実を前にして、きり丸は、酷く喉が渇いていることに気が付いた。両手で抱えるようにして、西瓜にかじりつく。とても甘くて、美味い西瓜だった。きり丸の中でとぐろを巻いていた「自分は一体何をやっているんだろう」という疑問が霧散してゆく。ごくりと喉を動かして、冷たい果汁を飲み下した。
自分は今雨露がしのげる場所にいて、食い物にありついている。それ以外は、もうどうでもいいやと思った。
「……お前、普段は何処で寝泊まりしてるんだ」
ぽつりと、半助がそんなことを言った。きり丸は、西瓜から視線を外さずに答える。
「今の季節なら、野宿。雨が降ったら、適当な馬小屋とかに忍び込んで寝てる」
「そうか……」
きり丸は西瓜だけを見ていたので、半助がどんな顔をしていたかは分からなかった。半助はそれ以上何も言わず、ふたりが西瓜を咀嚼する音だけが室内に響いた。
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