■家路へと 01■


 手順は簡単だ。標的にぶつかる。懐に手を入れて財布を掠め取る。これが出来れば生きてゆける。

 きり丸は町の大通りを歩いていた。行き交う人々の顔や身なりをさりげなく観察して、獲物を探す。夏の陽はじりじりと暑く、首筋や背中から汗がふき出した。

  さっさと済ませて、日陰で休もう。そう思いつつ首をめぐらせ、向かいから歩いてくるひとりの男に目を付けた。まだ若い男だ。髪の毛はぼさぼさで、薄汚れた着物を身につけている。しかし姿勢は良いし視線はしっかり前を向いているしで、みすぼらしい感じはしなかった。それに腰に差している刀もなかなか立派で、こういう奴は意外と金を持っているんだ、ときり丸は内心ほくそ笑んだ。

 額に浮かんだ汗を拭い、男に近付く。そして道の脇で売られている飴に目を奪われているふりをして、男の身体に肩をぶつけた。

「うわっ!」

 驚いた声を出し、男に向かって倒れ込みながら素早い動作で男の着物に手を入れ、財布を盗ることに成功した。手に、重い感触。やっぱりこいつは金を持っていた。それをさりげなく、自分の懐にしまい込む。もう何度となく繰り返している動作で、慣れたものだった。思わず笑みが浮かびそうになるが、顔をしかめて痛みを堪える素振りを見せた。

「おっと……大丈夫か?」

 男は倒れそうになるきり丸を、両手で支えた。男は遠目で見るよりも、若く見えた。意外と精悍な顔つきをしている。

「大丈夫です。すいません、よそ見しちゃってて」

 きり丸は照れ笑いを浮かべた。すると男も笑顔になった。

「そうか、良かった。それなら」

 そこまで言って、男はきり丸に顔を近づけて小さい声で言った。

「私の財布を返しなさい」

 きり丸は表情を硬くした。背中が冷たくなる。ばれた。ここ最近は腕が上がってきて、ほぼ十割の確率で成功していたのに。

 きり丸の行動は早かった。軽く舌打ちをし、男の臑を思い切り蹴り上げる。

「い……っ!」

 不意を突かれて声を裏返す男の脇の下をくぐって、全力で走り出した。人と人の間をすり抜け、大通りから裏道に入る。きり丸は民家と民家の間を、とにかくひたすら走った。周りの風景が、どんどん後ろへ流れてゆく。走りながら、懐に手を当てて盗った財布の存在を確認した。肌に当たる銭の感触に、唾を呑み込む。

 これはおれの糧だ。何があっても、逃げ延びなければ。

  後ろを振り返ってみても、男が追ってくる様子はなかった。どうやら撒いたらしい。きり丸はほっとして、速度を緩めた。もう一度背後を確認してみるが、やはり誰もいない。ちょろいもんだ。

  裏道は陽が当たらないので薄暗く、ひんやりとした空気が流れていた。きり丸は息を整えながら、ゆっくりと歩いた。

「さあ、返しなさい」

 突然前から声がしたので、きり丸は驚いて足を止めた。いつの間にか目の前に、先程の男が立っている。きり丸は信じられなくて、目を大きく見開いた。

「な、なんで?」

 心の声が、口から漏れ出てしまう。全く、追いかけてくる気配などなかったのに。それに、後ろから来るならともかく、何故前にいる?

 きり丸は、勢いよく首を横に振った。あれこれ考えている暇はない。逃げなければ。

 彼はほとんど無意識に踵を返し、反対方向に駆け出した。しばらく走って後ろを振り返るが、男は追って来ない。さっきのは一体何だったんだ。きり丸の心臓は、妙な風にざわついた。

 次の瞬間、きり丸は何かにぶつかった。

「わっ!」

 衝突の勢いで、きり丸はしりもちをついてしまった。衝撃と痛みが、びりびりと尻から腰に伝わる。

「いってえ……。って……うわああ!!」

 きり丸は悲鳴をあげた。目の前に、またも先程の男が立ちはだかっていたからだ。きり丸がぶつかったのは、この男だったのだ。男は腰に手を当て、きり丸を見下ろしていた。薄暗い中で男の顔がやけに遠く感じ、きり丸はこの上なく気味が悪くなった。

「何だよ、お前……! あ、妖か?」

 声が震えるのを止められない。男の所業は、人間業とは思えなかった。えらいものから財布を盗ってしまった、ときり丸は後悔した。しかし頭の隅に何処か冷静な自分がいて、妖って財布を持つのか? なんてことを考えたりもした。

 男はふっと笑って、きり丸と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。きり丸は息を呑み込んで、一歩後ろに下がる。

「私は妖ではないよ」

「嘘つけ! 妖でないなら、何なんだよ!」

「れっきとした人間だよ。そんなことより、財布を返しなさい」

 きり丸は、ぎり、と奥歯を噛み締めた。

「……分かったよ、返せば良いんだろ! いらねえよ、こんなもん!」

 きり丸は荒々しく懐の財布を掴むと、男の足下に投げつけた。男は肩をすくめ、その財布を拾い上げた。

「随分と手慣れていたが、お前、いつもこんなことしてるのか?」

「だったら、何だよ」

 仏頂面のきり丸の答えに、男は罵るでもなく咎めるでもなく、静かな口調で話を変えた。

「お前、家は?」

「ねえよ」

「家族は」

「いねえ」

「戦か?」

「そうだよ」

 男を睨みつけてそう言うと、彼は何故か自分の罪を暴かれたような顔をした。

「……そうか」

 男は頷き、きり丸の両脇に手を差し入れて、彼の身体を持ち上げるようにしてきり丸を立たせた。それからくるりと身体の向きを変え、何事もなかったかのように歩き出す。

「何処行くんだよ」

 薄汚れた背中に問いかけると、

「家に帰るんだよ。早く大家さんに家賃を払いに行かないと、立ち退きになってしまうからな」

 という答えが返って来た。何だそりゃ、ときり丸は拍子抜けした。妖も、大家に家賃を払うのか? こいつは、一体何なんだ? 様々な疑問が、頭を巡る。呆然とした面持ちで男の後ろ姿を見つめていると、男が立ち止まってこちらを向いた。

「来たかったら、来てもいいぞ」

 そう言って、男は白い歯を見せて笑った。妙に愛嬌のある、優しい笑顔だった。きり丸はわけが分からず、あんぐりと口を開けた。

 こいつは本当に、一体何なんだ?

 しばし迷った結果、きり丸は男について行くことにした。彼を信用したわけではなく、この男が一体何者なのか、興味があったからだ。きり丸は男から五歩ほど後ろを、警戒しながら歩いた。男は一度も振り返らず、刀に肘を置いて悠々と歩を進めて行く。歩調はゆっくりで、見なくてもきり丸がついて来ているのが分かっているようだった。それもきり丸には不気味だった。

 こいつは本当に、妖かもしれない。そうならば、のこのこついて行ったら喰われてしまうかも。

 きり丸の心に、一瞬だけ恐怖がよぎった。しかしすぐに、妖が何だ、喰われそうになったらこっちが喰らってやる、と思い直した。瞼の裏に、故郷だった土地の、なれの果てが蘇る。本当に恐ろしいのは、妖なんかじゃない。