■近くの星 03■


 第一地点を予定通り最下位で通過し、第二地点へと向かう森でのことであった。兵法の復習をしていた竹谷は、何やら空気に違和感を覚えて立ち止まった。

「どうしたの、ハチ」

「……何か、変な感じがしないか? いや、勘に近いんだけど」  

 首をゆっくり巡らせながらそう言うと、雷蔵も立ち止まった。

「ぼくにはよく分からないけど、ハチのそういう勘は当たるから」
 
 言って雷蔵は表情を引き締め、辺りを窺い見る。

  竹谷は首を傾げた。何やら不穏な気配は感じるものの、非常に漠然とした雰囲気なので具体的に何処からどう、というのはさっぱり分からない。

「一太、おいで」

  竹谷は道の脇の茂みに向かって声をかけた。すると、草むらの中から一匹の犬が飛び出してくる。ころころとした体型の、茶色い犬だ。一太は尾を振って、白い鼻面を竹谷の足にこすりつけた。

「よーしよし。良い子だな、お前は」

 竹谷は屈んで、一太の首筋を掻いた。柔らかい毛に手が埋まって、気持ちが良い。一太も心地良さそうに、うっとりとした顔つきになった。

「犬、連れて来てたんだ」

 目を瞬かせる雷蔵に、竹谷は歯を見せて笑った。

「のんびり行くつもりだったから、ついでに散歩させてやろうと思って。……一太お前、ちょっとその辺探って来い」

 そう言って竹谷は、一太の背中を軽く叩いた。一太は首をくるりと回し、軽やかな動作で茂みの奥へと消えて行った。

「ハチは、けものの躾が上手いよね。流石、生物委員だ」

 雷蔵は柔らかな声で言った。竹谷は面映ゆくなった。雷蔵は褒め上手だ。彼に褒められると、なんとなく子どもの頃を思い出す。親に頭を撫でて貰って喜んでいた時分のことを。

「何か雷蔵って、父ちゃんか母ちゃんみたいだよな」

 思ったことをそのまま口にすると、雷蔵は「えっ?」と目を見開いた。

「あはは、ごめんごめん。何でもねえ。一太が帰って来るまで、ちょっと待とうぜ」

「……一太、何か見付けてくるかな」

「何もなければないで良いんだけどな」

 そんなことを話していると、程なくして一太が目をきらきらさせて戻って来た。その口に、何か布のようなものを咥えている。

「それは……着物の切れ端か? えらいぞ、一太。よくやったなあ」

 思い切り褒めて、 存分に頭を撫でてやる。それから、懐の中から干し肉を取り出して、「ほら、ご褒美だぞ」と言って一太の口元に差し出した。一太は、勢いよく干し肉に飛びついた。

 竹谷は一太の側にしゃがみ、彼が持ち帰ったものをあらためる。濃紺の、着物の一部だ。破れた箇所に、焦げ痕が見受けられる。

「……火薬の匂いがするね」

 覗き込む雷蔵の声が固くなる。布は、竹谷は布に鼻を近づけた。

「血の匂いもな。……一太。お前これ、何処から拾って来た」

 竹谷が尋ねると、肉をしがんでいた一太は返事をするようにひとつ吠え、尻尾を振って身体の向きを変えた。こっちこっち、と言っている風に見えた。

「よーし、そんじゃ案内してくれな」

 竹谷は一太の首元を撫でる。一太は嬉しそうに、わん、と吠えた。

「ちょ、ちょっと待って、ハチ。深追いは危険だよ」
 
 すぐに走り出そうとする竹谷の腕を、雷蔵が掴んだ。勢いがついていたので、がくんと身体が前に傾く。

「だって、何があったのか気になるじゃん」

 振り返ると、雷蔵は渋い顔をしていた。竹谷の腕を掴む手に、力がこもる。

「気になるけど、一番近い中継地点まで急いで行って、先生に知らせた方が良いよ」

「それはそうなんだけどさあ」

 竹谷は眉を寄せた。雷蔵の判断はもっともだ。だけど竹谷は、彼の言うことには賛成出来なかった。

「でも、急いで行った方がいい気がする」

 雷蔵の目を真っ直ぐに見て、言う。何故だか分からないが、そう思った。雷蔵は、うっと声を詰まらせた。それから一瞬迷うように視線を動かしたが、己を律するように首を強く振って竹谷の目を見返す。

「……それは、勘?」

 噛み締めるように雷蔵が尋ねるので、竹谷もゆっくりと頷いた。

「勘」

「……分かった、行こう」

 雷蔵の言葉を聞いて、竹谷は笑顔になった。彼のこういう、融通の利く真面目さが好きだ。

 一太を先頭にして、竹谷と雷蔵は走り出した。のんびり山道を散歩するのも楽しかったが、やはりこうして走っている方が気持ちが良い。竹谷の口元に、自然と笑みが生まれた。しかし、いやいや一大事かもしれないのだから、と思い直して真剣な顔をつくる。

 わん、と鳴き声をあげ、一太が立ち止まった。竹谷たちもそれにならう。

「こりゃあ、また……」

 竹谷は息を吐いて、その場を眺めた。微かに残る火薬と血の匂い。踏み荒らされた草に、あちこち掘り起こされた土。木の幹には、刃物で傷をつけた痕もあった。どうやらここで、誰かが争ったらしい。

「何かあったみたいだけど……。人の気配は全然しないね」

「よし、一太に匂いを辿らせよう。……って言いたいとこなんだけど、こいつまだ訓練途中で、集中力がないんだよな。最後まで、ちゃんと追えるかどうか」

 こんなことならきちんと訓練した忍犬を連れてくれば良かった、と後悔しつつ、竹谷は一太を見下ろした。茶色い犬は、無邪気な表情で竹谷を見つめている。

「……ハチ」

 雷蔵に名を呼ばれ、竹谷は彼の方に視線を移した。雷蔵は真剣な面持ちで、何処か一点を見つめていた。

「雷蔵?」

「こっちだ」

 突然雷蔵がそんなことを言い、森の奥に向かって走り出したので竹谷は大層驚いた。

「あっ、おい!」

 竹谷は急いで、雷蔵の後を追う。

「なあ、何でこっちって分かんだよ!」

 全力で駆けながら、雷蔵の背中に声をかける。彼はまっすぐ前だけを見て、「三郎が……」と独り言のように呟いた。

「三郎?」

「うん、木に合図があった。こっちで間違いない」

 その答えに、竹谷は口笛を吹いた。流石は名物コンビ。そして同時に、それじゃあこの不穏な空気には三郎が絡んでいるのか、と思った。それが吉と出るのか凶と出るのか、すぐには判断が出来なかった。