■近くの星 04■


 一体何処にどのような目印が残されているのか竹谷には皆目見当が付かないが、雷蔵は一寸も迷うことなくどんどん走ってゆく。竹谷は、雷蔵の顔を横目でちらりと見た。随分と険しい表情だった。

「三郎が心配?」

「えっ」

 驚いたように、雷蔵は目を見開いた。竹谷は続ける。

「だって、多分あの場所で一戦交えただろうし。相手が誰なのかは分からないけど」

「それは……」

 雷蔵は口ごもった。それから、こう言った。

「……でも、彼は鉢屋三郎だから」
 
 ともすれば、聞き逃してしまいそうなくらい微かな声であった。

 竹谷はというと、あまり心配していなかった。まだ忍者のたまごとはいえ、三郎は抜群に優秀だ。恐らく久々知も一緒なのだろうが、彼もやはり優等生だから心配ない。だからきっと、うまいことやっているのだろう。だってあいつは鉢屋三郎だから。

 だって鉢屋三郎だから。

 無意識の内に、雷蔵の言葉と同じことを竹谷は考えていた。だけど竹谷のそれと、雷蔵の先程の呟きは意味が違う気がする。

 だって鉢屋三郎だから。

 その短く単純な言葉の隙間に、無数の隠れた意味が潜んでいるようだった。雷蔵は、そういう顔をしている。彼が何を考えているか、竹谷には窺い知ることは出来ない。しかし、雷蔵はやっぱり三郎のことが心配らしい、ということは分かった。だから早く三郎のもとに辿り着きたかった。三郎の姿を見て、雷蔵が安心出来ると良い。





「……いた」

 ごくごく小さな声で呟いて、雷蔵は音もなく足を止めた。ふたりして、茂みの中に身を隠す。葉の隙間から様子を窺うと、こちらに背を向けて立っている三郎の後ろ姿が小さく見えた。その周囲に、濃紺の装束に身を包んだ忍者が四人、確認出来た。

「囲まれちゃってんじゃん。しかも兵助が……」

 竹谷は囁き、顔をしかめた。忍者のひとりが久々知を拘束し、彼の喉元に苦無を突きつけている。

「どうする、雷蔵」

 声をかけると、隣で伏せている雷蔵は不安そうな顔になった。

「……どうしよう」

 そう言ってまた迷いを見せた雷蔵だったが、不意にはっとした表情になり、目を細めた。何かに集中しているようだった。彼はしばらくそのままじっとしていたが、やがてひとつ頷いて、竹谷に視線を寄越した。

「敵に気付かれないように、兵助たちの背後に回ろう」

「……お、おう」

 急に堂々とした面持ちで決断を下す雷蔵に、やや戸惑っていると、彼は照れたように微笑んだ。

「……って、三郎から矢羽音が回ってきた」

 竹谷は、納得すると同時に感心してしまった。完全に気配を断って潜んでいるのに、三郎は雷蔵たちがここにいることを知っているのだ。それにその矢羽音とやらにも、竹谷は全く気が付かなかった。きっと、ふたりだけの暗号なのだろう。

  竹谷と雷蔵は、敵に見つからないよう細心の注意を払いながら、一定の距離は保ったまま久々知たちの背後に移動した。

 雷蔵は覆面を引き上げ、身振りだけで「合図したら、一斉に飛びかかって兵助を助けよう」と伝えてきた。竹谷も覆面で口元を隠しつつ、黙って頷いた。

 敵忍者のひとりが、三郎に何かを話しかけている。しかし、風の音が邪魔をしてよく聞こえなかった。雷蔵はじっと、三郎の姿を凝視している。恐らく、攻撃の合図も三郎から出されるのだろう。

 やがて、雷蔵が拳をぐっと握りしめた。今だ。竹谷は素早く地面を蹴って茂みから飛び出した。

 久々知を拘束していた忍者がこちらの気配に気付くのとほぼ同時に、竹谷は敵の延髄に手刀を叩き込んだ。敵がふらつく。その瞬間に、久々知の喉を狙っていた苦無を雷蔵が蹴り落とす。そして拘束の解けた久々知が身体を反転させて、相手の顎に掌底を喰らわせた。

  これでひとり、落ちた。敵の間に一瞬、動揺が広がる。その隙を突いて、三郎が動いた。

 まるで風のようだ、と竹谷は思った。それほどまでに三郎は速かった。気が付けば、敵がふたり倒れていた。正直、何をしたのか竹谷にはよく見えなかった。

  とかく、残るはあとひとり。最後のひとりは、素早くその場を離脱しようとした。しまった、と舌打ちしそうになる竹谷の足元を、小さな影が走り抜けた。

「一太!」

 思わず声を出してしまった。忍犬は、唸りをあげて敵忍者の足に噛みついた。敵は悲鳴をあげ、その身体が前のめりに傾ぐ。

 ああ一太! おまえはなんて利口な良い子なんだ!

 竹谷は一瞬状況を忘れ、本気で感動していた。まさか一太がそんな働きをするとは思っていなかったので、胸がいっぱいになって涙が出そうになる。まだ教えていないのに、敵を足止めするなんて。後で特別に、上等な肉を食わせてやらなくては。

 一太に食らいつかれて苦しむ敵忍者に、音もなく三郎が飛びかかって行った。最後のひとりが、がくりとその場に崩れ落ちる。これで終了。竹谷は指を鳴らした。

「おおー、楽勝じゃん。おれら、すげえ」

「兵助、怪我は?」

 昏倒した忍者を縄で縛り上げながら、雷蔵が気遣わしげに尋ねる。久々知は敵の懐を探りつつ、首を横に振った。

「ああ、大丈夫だ。それよりこいつら、何処の忍者だろうな」

「うーん、分かんないなあ……。とりあえず、先生たちに報告しないとだね」

「こっから一番近い中継地点って、何処だっけ?」

 竹谷は地図を取り出した。しかし雷蔵について走って来たので、此処がそもそも何処なのかよく分からない。首を傾げていると、久々知が思い出したように言った。

「そういえばお前たち、よく此処が分かったな」

「いやあ、おれは全然分かんなかったけど、雷蔵が三郎の合図を……」

 言葉の途中で、竹谷は口を閉じた。

  三郎の様子がおかしい。

  彼はこちらに背を向けて、足元に伏せる忍者を見下ろしていた。その身体から、殺気が抜けない。彼から立ち上るほの白い炎が、目に見えるようだった。

 あれ、これはやばいんでないかな。

 竹谷は唾を呑み込んだ。久々知も、頬を緊張させる。三郎はぴくりとも動かなかった。ただじっと、立ち尽くしている。

「……おーい、三郎さん……?」

 怖いもの見たさで彼の正面に回り込んだ瞬間、竹谷は全身の毛穴が開くのを感じた。無意識に半歩、後ろに下がる。

 あ、これはやばいわ。

 竹谷は思った。三郎の、目の色がいつもと違う。尋常でない熱を孕んだ目。まるでけもののようだ。

  合戦場などの修羅場にて、興奮のため自制が効かなくなる、というのはよくある話だ。しかし、三郎にもそういうことがあるとは知らなかった。彼はいつでも冷静で、理性を失ったりしないのだと思っていた。

 これはやばい。正気に返さなくては。だけどどうやって? へたに刺激したら、こちらも無事では済まないような気がする。

 そんなことを考えていたら、ついと雷蔵が前に出て来た。そして何気ない動作で三郎の肩をぽんと叩き、笑顔で三郎の顔を覗き込む。

「三郎、お疲れ様」

 三郎が顔を上げる。このとき竹谷は、けものが人に戻る瞬間を見た。三郎の目に正気が宿る。たちまち空気が溶けてゆくのが分かった。たったこれだけで、と竹谷は驚いた。

「やあ、雷蔵。来ると思ってたよ」

 そう言って笑う三郎は、間違いなく鉢屋三郎だった。飄々としていて、余裕に満ちあふれる鉢屋三郎だ。

 何だかすごいものを目撃した気がする。そんな思いで三郎と雷蔵をぼんやり見つめていると、足に何やら柔らかな感触がした。目線を下に向けると、甘えるような表情の一太と目があった。

「そうだそうだ、お前、よくやったよなあ! 偉いぞ!」

 竹谷は一太の毛並みを、思うさまなで回した。一太は嬉しそうに尻尾を振る。

「ほんと、一太、大活躍だったよね」

 すごいや、と雷蔵も手を伸ばして一太の首筋を掻いた。一太はすっかりご満悦だ。

 雷蔵はさっきおれに、けものの躾がうまいと言ったけれど、雷蔵は三郎の扱いが誰よりもうまいな。

 そう言おうとして、竹谷は思いとどまった。そんなことを口にしたら、三郎に「おれは犬と同列か」と怒られそうだ。

 鉢屋三郎より成績が劣ろうが地味だろうが、彼を扱えるのは不破雷蔵だけだ。

「ひょっとして、雷蔵がいちばん凄いんじゃねえ?」

 ぽつりと言うと、雷蔵は「えっ?」と言って何が何だか分からない、というような顔をした。その顔がなんだか可笑しくて、竹谷は声をあげて笑った。