■或る男の話 08■
「何処か、お悪いのですか?」
道に倒れるわたしに向かって女は声をかけてきました。わたしは身を起こしながらこう答えました。
「……いいえ……わたしは、追われております。お逃げなさい。わたしの近くに居ると危険です」
「まあ、怖いこと」
女はいかにも楽しげに笑いました。わたしの言うことを信じていないようでした。
「少し、下がっていただけますこと」
女はそう言って、わたしの前に立ちました。その手に扇が握られているのをわたしはしっかりと見ました。扇。はっとなってわたしは風向きを確認しました。わたしと女が立っているのは風上でした。風上。扇。女は流麗な仕草で扇を開きました。そして風下に向け数回、扇ぎました。
「それは……」
わたしは呆然と呟きました。霞扇、という言葉を口にするより早く女がわたしの手を取りました。そして不気味な程に整った顔で「さ、参りましょうか」等と言うのです。
「……あなたは……」
「わたくしは、山本シナと申します」
「あなたは忍者ですね」
シナと名乗る女はそれに答えませんでしたが、わたしは確信しておりました。霞扇を使うこの女は忍者です。恐らく、風下にいた追っ手はもう生きていないのでしょう。わたしは女の手を払ってこう言いました。
「……わたしはただの駒です。大した情報は持っていません。人質としての価値もありません」
「わたくしはあなたに危害を加えるつもりはありません」
信用出来る筈がありません。わたしは忍び刀を抜きました。この女がただ者ではないことは分かっておりましたが、それでも女です。この距離ならば力で勝てるという見込みがありました。
「無理はなさらないで」
女はゆっくりと首を横に振りました。哀れむような表情でした。わたしは彼女の言う意味がわかりませんでした。
「今のあなたは、それを使うことは出来ない」
つややかなくちびるを動かし淡々と女は告げました。わたしは刀を握る手に力を込めました。わたしが刀を使えない。そんなはずはありません。若のときは簡単でした。何も考えずあの首筋に刃を突き立てておりました。だから今回も簡単です。ましてや相手は女なのです。わたしは何があっても死にたくないのです。死なない為には、この女を殺すしかありません。
わたしは自分の手が震えていることに気が付きました。そしてすぐに理解しました。女の言う通り、わたしはこの武器を使うことが出来ないのだと。忍者は自分の出来ること、出来ないことを瞬時に判断します。だからわたしもすぐに分かりました。わたしはこの女を殺すことが出来ません。誰からも好かれ、わたしのようなどうしようもない人間に向かって「頼りにしているよ」と言ってくれた若者はいとも容易く殺した癖に、目の前に居る見ず知らずの女には手が出せないのです。
「あちらに馬を繋いであります。早く行きましょう」
女はふたたびわたしの手を取り、歩き出しました。わたしはふらふらと女についてゆきました。わたしはこの女を殺すことが出来ませんし、また逃げられるとも思いませんでした。ですので、彼女に従うしかありませんでした。もしかしたら彼女に魅入られていたのかもしれません。
「行くって、何処へ……」
「少なくとも、ここよりは安全な場所です」
女はきっぱりと言いました。何処か誇らしげにも聞こえる口調でした。
女の後をついてゆくと、木に繋がれた一頭の白い馬が現れました。女は軽々とその馬にまたがり、後ろに乗るようわたしに指示しました。わたしは彼女の言う通りにしました。背につかまって下さい、と言われたときは流石に抵抗がありました。しかし再度促されわたしは女の腰に手を回しました。何らかの感想が頭に浮かぶよりも早く馬は駆け出しました。後は、振り落とされないよう必死でした。
そこからどのような道を辿ったのかよく覚えていません。明け方近くになって馬は足を止めました。大きな門の前でした。わたしは辺りを見回しました。周囲は山に囲まれています。そこに唐突に門が現れたのです。何処かの城だろうかと思いましたが、どうもそうではなさそうでした。
女は馬を降り、門の中に入ってゆきました。ですので、わたしも同じようにしました。入ってすぐ見張り台が見えました。その奥には蔵らしきものも確認できました。わたしに何の説明もせず、女は迷いの無い足取りで歩いてゆきます。わたしはそれについてゆきました。
女は小さな庵にわたしを通しました。そこには小柄な老人が座っていました。わたしは困惑しながらも老人の前に座りました。
老人は大川平次渦正と名乗りました。その名は聞いたことがありました。むしろ、知らぬ忍者などいないだろうというくらい、大川平次渦正は名の通った忍者でした。しかしわたしたち忍者の間で大川の名とその伝説は半ばお伽噺として語られており、実在の人物だとは思っていませんでした。しかしわたしはその言葉を疑いませんでした。疑うことにすっかり疲れ果てていたのです。この老人が大川平次渦正なのだと言うのならば、そうなのでしょう。もうそれで良い、と思いました。
この老人が言うには、此処は忍者を育てる場所とのことでした。先程わたしが遭遇した山本シナという女も、此処で子どもたちに忍術を教えているそうです。そして老人は何を思ったのか、わたしに向かって「此処で子どもたちを教えてみませんか」などと提案しました。わたしはついつい笑ってしまいました。狂人に向かって何を言うのでしょう。こんなおかしな話もありません。わたしは一通り湿った笑い声をあげた後「何を教えろと言うのです」と吐き捨てました。老人は「あなたの知っていることを」と答えました。わたしの知っていること。嘘のつき方や騙し方や屍体の始末の仕方などでしょうか。人の殺し方もでしょうか。わたしは床板をじいと見詰めました。ずっとそうしていると、木目がぐるぐる回っているように見えました。「子どもをわたしのような狂人に育てろと言うのですか」と呟くと老人は軽い口調で「まあ、取りあえず今日は休みなさい」と言いました。
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