■或る男の話 07■
そんなある日のことです。わたしはその日も眠ることが出来ず夜更けに寝床を飛び出し、住処の裏手にある井戸で手を洗うことにしました。このところ常に手を水につけているようなものなので、わたしの手指はぶゆぶゆにふやけておりました。桶に水を汲もうとしたそのとき何処からか人の声がかすかに聞こえてきました。わたしはそっと桶を置き、気配を消して声のする方へと向かいました。
井戸からいくらか離れた小径に、男がふたり立っているのが夜闇の中ぼんやりと窺えました。ひとりはわたしを使っているあの男でした。もうひとりは……よく分かりませんでした。変装をしているのか、もしくはわたしの知らない人物なのか。どちらにせよその男は仲間のようでした。
彼らは声を潜めてやりとりをしていました。情報の交換でもしているのでしょうか。普段であれば見なかったことにして井戸へと戻っている局面です。彼らがどんな話をしていようと、わたしには関係が無いからです。わたしは男の指示に従うだけですから、裏でどのようなやりとりがされているかは興味がありませんでした。しかしこのときのわたしは彼らに気付かれないよう注意しながら耳をそばだてました。ほんの少し予感があったのです。夜風に乗ってごくごく小さな話し声が耳に滑り込んできます。まず、わたしの知らない男がこう言いました。
「あいつはどうする」
「あれはもう駄目だ。ここがおかしくなっている」
わたしを使っている男はそう言って自らのこめかみを軽くつつきました。わたしのことを言っているのだとすぐに分かりました。そして男たちがわたしをどうするつもりなのかも。男は、ここのところ失敗続きのわたしに苛立っていました。わたしたちの世界は結果がすべてです。結果を残せないものは消すしかないのです。わたしはそうなることを予見していました。結果を出せない、それも気の狂った忍びを、あの男がいつまでも生かしておくわけがありません。
わたしは何も持っていない人間でした。夢も希望も生きる糧も、大切な人も何もありません。故郷だって無いも同然です。わたしの中は洞でした。何もない。がらんどうです。
何も無いはずなのに、突然わたしの心に何かが芽生えました。何やら熱く狂おしい程の衝動でした。
それは、死ぬのはいやだ、という感情でした。
なんという浅ましさでしょうか。数え切れないくらい騙し、奪い、人を死に追いやり、更に自らの手で殺しもした癖に、己が死に直面すれば死にたくないと思うのです。それはわたしの生まれて初めての自我でした。振り返ればわたしは今まで一度も自分の頭で考えたことがありませんでした。それが今となって唐突に目覚めたのです。ただひとつ、死にたくないと。
わたしの身体はがくがくと震えました。死にたくない。だけどこのままでは死んでしまう。あの男たちに殺される。あいつらは人の命など何とも思っていません。十年以上あの男と共に過ごしてきましたがわたしは駒でありそれ以外のなにものでもありませんでした。駒をひとつ捨てることなど造作もないことです。
わたしの目の前には三つの選択肢がありました。あいつらに殺される。あいつらを殺す。あいつらから逃げる。
殺されるのは御免でした。そしてあいつらを殺すことは不可能でした。忍者はけして勝てない戦いを挑みません。つまり、逃げるより他ありませんでした。
この瞬間、わたしは抜け忍となりました。すぐに追っ手がかかりました。わたしは逃げに逃げました。その間も嫌な夢を見ます。わたしは夢と現実、両方に追い詰められてゆきました。それでも、死にたくない、という気持ちは消えませんでした。
逃げ続け、どれだけの月日が経ったでしょうか。わたしはとある小さな街で茶を飲んでいました。そのときのわたしがどのような顔をしていたのかは知りませんが、きっと明らかに頭がおかしいと分かる風貌をしていたのでしょう。わたしに近寄る者は誰ひとりおりませんでした。わたしは背を曲げ、茶をすすりました。味などは全く感じません。ただ液体が喉を通ってゆく感触がするだけです。わたしは自分の痩せた手のひらを見下ろしました。また手が汚れています。洗わなければいけません。それと草鞋がだいぶ傷んでいることに気が付きました。確か近くに物売りの男がいたので、新しいものを買おうと思いました。
一組の男女が茶店に入って来ました。睦まじい夫婦のように見えましたが彼らが追っ手の忍者であることはすぐに分かりました。上手く誤魔化しても空気で分かります。奴らはわたしの命を狙っているのです。わたしはすぐに店を出ました。草鞋を買い換える暇はありませんでした。
空を見ると燃えるような橙に薄紫が混じりつつありました。夜が近付いて来ていました。夜になれば、わたしの勝ちです。闇さえあればわたしは何処にでも逃げることが出来ました。わたしは前だけを見て歩きます。そうしたらあの男女も少し距離を置いてついて来ました。わたしはどうにか奴らを撒こうとしました。しかし彼らはしつこくついて来ます。街の外れまで来たところでわたしは駆け足になって逃げました。山へ逃げ込むつもりでした。
山道に入る頃にはすっかり周囲は暗くなっていました。これで安心のはずでした。しかし、駄目なのです。どうしても追っ手を振り切ることが出来ません。相手は相当腕の良い忍びのようでした。いつまでも敵の気配がわたしの背後に絡みついているのです。わたしは目眩を覚えながらも逃げ続けました。足を止めたら死んでしまいます。死にたくありません。絶対に、死にたくないのです。
そのとき、ぶつん、と嫌な音がしました。草鞋の緒が切れる音でした。わたしは足を踏み外しその場で転倒しました。口の中が土の味で一杯になりました。わたしの草鞋は相当傷んでおりました。本当ならば買い換えるはずだったのです。此処でわたしの足は止まってしまいました。運の尽き、という言葉が頭をよぎりました。追っ手はすぐそこまで迫っています。わたしは抜け忍です。抜け忍の末路は何度も見てきました。始末を手伝ったこともあります。わたしも同じです。何処とも知れぬこの山道でわたしは殺されるのです。
「あらあら、どうなさいました?」
鈴の音のような声が頭上より聞こえ、わたしは顔を持ち上げました。そこにはひとりの女人が立っておりました。わたしは驚きました。こんな暗い山道に女がひとりで立っている不自然さもさることながら、気配を全く感じなかったのです。頭がおかしくなったとはいえ、わたしは忍者です。くわえて逃亡生活を続けておりますので人の気配にはこと敏感でした。しかしこの女の存在にはまったく気が付きませんでした。
見れば、闇の中でもはっきりと分かるくらいうつくしい女でした。肌が白く透き通っており凛とした瞳は涼やかでわたしの背筋はふるえました。天女が舞い降りたのだろうかと思う程でした。しかしそのうつくしさに見惚れる余裕はありませんでした。何せ、もうすぐそこまで追っ手が迫っているのです。
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