■或る男の話  06■


 月が沈み、わたしは行動を開始しました。雑魚寝する奉公人たちを起こさぬように、そっと部屋を出ました。わたしは足音を立てず廊下を進みました。こういった仕事は得意でした。本気を出せば誰にも気配を悟られない自信がありました。もしも今、誰かがわたしの側を通り過ぎたとしてもわたしの存在に気付くことはないでしょう。わたしは空気と同じでした。重さもなく、形もありません。

 誰にも会わず、北の空き部屋に辿り着きました。そこは行李がたったひとつあるだけの、がらんとした部屋でした。わたしは無音のまま部屋の中に忍び込みました。すり足で行李に近付き静かに中を確認しました。

 そこに、ありました。闇にふうわり浮かぶ紙の束。わたしの探し求めていたものです。わたしは帳簿を手に取りました。流石に、ほんの少し感慨を覚えました。此処まで来るのに一年半かかったのです。長い道のりでした。これを持ち帰りわたしを使っているあの男に渡せばわたしの仕事は終わります。もう味噌の仕込みをすることも、若と他愛の無い話をすることもありません。

 頼りにしているよ、と若に言われたことをふと思い出しました。頼りにしている。何とも耳慣れない響きでした。わたしは常に使われる立場で、誰かに頼られたことなど全くありませんでした。あのときの若は笑っていました。何ともあわれな男だ、と思いました。彼は懐に忍びが潜んでいることにまったく気が付いていません。わたしが今後もこの店にいて真面目に味噌の仕込みを続けると彼は思っているのです。

 しかしわたしはこの帳簿を持って姿を消します。それに気付いたとき、若はどんな顔をするのでしょうか。

 ……このときのわたしは重大な過ちに気が付いていませんでした。目的の帳簿を手に入れ、それにより相手がどうなるかなど忍びは考えません。考えるのは帳簿を確実に持ち出すことだけです。それ以外のことは雑念でしか無いのです。こういった場面での雑念は任務失敗、ひいては命の危険に直結します。それをわたしはよく分かっていました。しかしわたしは一瞬、ほんの一瞬だけその雑念を抱いてしまいました。ここまで順調に進んでいたのに、わたしに信頼のまなざしを注ぐ若と、無邪気に微笑んでいた奥方の行く末を考えてしまったのです。

 北の空き部屋で帳簿を持ったまま雑念にとらわれたわたしを思わぬ出来事が襲います。部屋の戸が開いたのです。わたしは、はっとなって振り返りました。灯りを手にした人影。そこで初めてわたしは己の油断とおろかさを自覚しました。わたしは見つかってしまったのです。

「……影さん?」

 聞き覚えのある声でした。ほのかな光に照らされているのは、若でした。若は目を見開いてわたしを見ていました。この隠し場所は単純すぎると思い直し帳簿を取りに来たのでしょうか。何にせよ最悪の展開です。此処で遭遇したのが若でなければどうとでも切り抜けることは出来ました。しかし相手は帳簿の持ち主なのです。

「あんた……そこで何をしているんだ」

 若の声音は震えていました。わたしは手を懐に差し入れました。わたしは常に小刀を隠し持っていました。それを使う方法も学んではいました。しかしわたしは武器を人に向けたことはただの一度もありませんでしたし、また自分にはそんなことは出来ないと思っていました。わたしは帳簿を握る手に力を込めました。何としても、これを持ち帰らなくてはなりません。忍者は結果がすべてです。この一年半の過程など何の意味もありません。わたしはどんな手段を用いてでも、この帳簿を男に渡さなくてはならないのです。

 若は愕然とした面持ちでわたしを見ています。わたしに向かって頼りにしているよと言ったときとまるで違う顔です。若はひとりでした。ですがわたしにはその背後に、もうひとつ顔が見えていました。それは、以前わたしが山に捨てた忍びの死に顔でした。潜入先に情を移し抜け忍となって殺された男の顔です。何故か今になってその顔が浮かんできました。しかしわたしはああはなりません。結果を出さなくてならないのです。

 わたしは小刀を抜きました。若との遭遇からその行動まで一拍もかからなかったかと思います。ふ、と気が付けば小刀は若の首筋に深く突き刺さっていました。小刀が若の首へと吸い込まれてゆくように見えました。自分でも驚く程速やかな行動でした。絶対に出来ないと思っていたのです。若の口が大きく開きます。わたしは急に若と一緒に西瓜を食べたことを思い出しました。奥方と一緒だったことも同時に蘇りました。えくぼの目立つ、彼女の笑顔も。

 ごとん、と重い音がしました。若が倒れた音でした。わたしは若の首から小刀を引き抜きました。それから若を見下ろしました。わたしは屈んで若の首筋に指を当てました。若は死んでいました。

 わたしは男の元へと急ぎました。合い言葉を口にし、男に帳簿を差し出しました。男はまず「殺したのか」と言いました。よく見ればわたしの手は赤黒く汚れておりました。帳簿にもすこし飛沫が跳ねていました。わたしは若を殺しました。ですので「はい」と言いました。男は小さく、二流が、と吐き出しました。男の言う通り、わたしの仕事ぶりは如何にも無様でした。殺せば余計な手がかりを残してしまいます。あそこでわたしが気を抜かなければ、若に発見されることも、殺すこともありませんでした。仲間たちに、後始末をさせることも。背骨がぎしりと重くなりました。少々の吐き気も感じました。しかし。わたしは帳簿を握り締めました。これがわたしの結果です。わたしは結果を出したのです。男はわたしの手から帳簿を引ったくると「上出来だ」と言いました。男とのやりとりは、それで終いでした。労いの言葉も何もありません。そういうものだと分かっていましたので、何とも思いませんでした。

  わたしは井戸へ向かい、汚れた手と身体を洗いました。手についたぬるぬるがなかなか取れず気持ちの悪い思いをしました。結果が全て。その言葉が頭を巡っていました。気付けば、口に出して唱えていました。結果がすべて。結果がすべて。わたしはそう呟きながら、手を洗いました。ぬるぬるは、まだ落ちませんでした。

 それからわたしは日に何度も手を洗わずにはいられなくなりました。暇があれば井戸や水場に向かい必死になって手を洗いました。洗っても洗っても心は落ち着かず、むしろどんどん手が汚れてゆくような気がしました。そして眠れば若と奥方の夢を見ました。わたしは日ごと魘され次第に眠るのが怖くなりました。そうなるとどんどん仕事にも身が入らなくなります。何をしていても手の汚れが気になって落ち着かないのです。眠れぬことも併せて集中力が落ち、詰まらないしくじりが増えてゆきました。

 あの味噌屋に近付くことは禁じられていましたが一度だけ変装をして少し離れたところから店を眺めました。しばらく観察していたら店の中から髪の毛が半分ほど白くなった老婆が出て来ました。あの店にあんな女がいただろうかと思いましたが、顔をよく見たら分かりました。あの老婆は奥方なのです。白髪になり、生気のないうつろな目をした陰気な女は奥方でした。夫を失い、ひとり残された彼女は醜く老け込んでしまったのです。

 わたしは住処に戻り、いつもよりも念入りに手を洗いました。その夜はやはり、若と奥方の夢を見ました。わたしは夢の中で何度も若を殺しました。奥方を殺すこともありました。逆に、わたしが殺されることもありました。目を覚ますと必ず手を洗います。汚れはまったく落ちません。それでもわたしは手を洗います。