■或る男の話  05■


 しっぽをつかめそうで、つかめない。そんな焦れったい日々を過ごしていましたら、いつの間にか一年が過ぎていました。この頃には主人の体調は目に見えて悪くなり、長期間床に伏せることもありました。しかしわたしの状況は変わりません。わたしは男から急かされるようになりました。勿論、わたしもただ味噌屋の仕事をしていただけではありません。独自に調査を進め、更に、思い切って主人の寝所に忍び込んだこともありました。そうすることで、密売に関するいくつかの断片的な手がかりを手に入れることは出来ました。しかし、わたしがもっとも欲しいもの……密売の顧客情報についてはまったく掴めないのです。

 味噌屋に潜り込んでから一年と半が経ちました。そこでとうとう、「手段は選ぶな」と男から告げられました。男よりももっと上にいる誰かが痺れを切らしたのでしょう。どんな手を使ってでも情報を手に入れなくてはならないのです。わたしは毎日、結果がすべて、と胸の中で唱えていました。

  その頃、事態が急変しました。とうとう主人が、病で亡くなったのです。……もしかしたら病でなくわたし以外の忍びが何らかの手段に出たのかもしれませんが、それはわたしの知るところではありません。とかく主人は死にました。店の中は一気に大騒ぎとなりました。しかしわたしにとっては好機でした。この混乱に乗じて何としても密売の情報を探し出すのです。此処でやり遂げることが出来なければ、わたしは終わってしまうでしょう。

 葬儀の準備で慌ただしい中、店の裏手でひとり佇む若の姿を見つけました。彼は憔悴しきった顔で、ぼんやりと足下を見詰めておりました。声を掛けようか少しの間迷っていると、彼の方がわたしに気が付きました。影さん、と若はかすれた声で言いました。わたしは黙って、若の側に立ちました。

「親父が死んじまったよ」

  わたしはそれに、はい、と答えました。

「これからは、おれが店……やってかなきゃなんないんだ」

  それにも、はい、と答えました。そうしたら若は顔を持ち上げて、ほんの少しだけ笑いました。

「こんなときにも影さんは変わらないね」

 若は目元の緊張を緩め「何だか、ちょっとほっとしたよ」と続けました。わたしは、ただ立っていました。そんなことを言われるとは思っていませんでした。わたしは「はい」としか言っていないのです。若はこちらに歩み寄り、わたしの背中を軽く叩きました。

「これから暫く慌ただしくなるけどさ、頼りにしているよ。この若造を助けておくれね」

  やはり、はい、と答えました。若は「本当に変わらないや」と言って吹き出しました。その表情はまだ少年のようでした。わたしは頭を下げ、その場を離れました。若と別れてからも暫くの間は彼に言われた言葉の数々が頭を漂っていましたが、結果がすべて、結果がすべて、と唱え続けていたらそれらは何時の間にか消え失せておりました。結果がすべて。とにかく結果がすべてなのです。

  その日の夜、わたしは人目を盗んで若の部屋の前までやって来ました。気配を完全に断ち、闇に紛れて中の様子を窺います。そうしたら、中から若と奥方の小さな話し声が聞こえてきました。最初はわたしには必要の無いやりとりばかりでしたが辛抱強く聞き耳を立てていたら若が「……お前には大事な話をしなくてはならない」と奥方に切り出しました。わたしはより一層集中して耳を済ませました。同時に周囲を警戒することも忘れません。今が大事なときなのです。長年の勘がそう告げておりました。

「これを、見てくれ。親父が着物と帯に隠して、肌身離さず身につけていたものだ」

「……あなた様、これは……」

 奥方の声が上擦りました。そして彼女は泣きそうな口調で続けます。

「わたくしの目が確かなら、これは種子島や石火矢の帳簿に見えます」

「……これを、おれたちが守っていかなくてはならないんだ」

「……うちは味噌屋ではないですか」

「だけど、これが無ければこの店は此処まで大きくなれなかった」

 奥方は黙り込みました。わたしの身体は小さく震えました。種子島や石火矢の帳簿。それは正に、わたしがこの一年半の間ずっと追い求めていたものでした。主人はそれを着物と帯に隠していたのです。何という用心深さでしょうか。しかしようやく、わたしはそこに辿り着きました。

 奥方は急に告げられた事実に戸惑っているようでした。まともな商売でないということはすぐに分かったのでしょう。密売に強い拒否感を示し「地道に味噌を売ってゆきましょう。それが一番です」と若に訴えました。若は奥方を説得しようとしておりましたがその声に力はありませんでした。彼自身も本当は奥方の言う通りにしたいのでしょう。しかしわたしは知っています。一度落ちてしまったら元に戻ることは出来ないのです。あとはずるずると深みに嵌ってゆくだけです。這い上がることなど不可能なのです。

  でも、だけど、という押し問答が暫く続きました。終いに奥方が泣き出しました。怖いことは嫌です、あたしたち真面目にやってきたじゃないですか、と彼女は何度も繰り返しました。若は返す言葉が見つからないようでした。結局その場で結論は出ず、今日はもう休もう、という話になりました。奥方は「その帳簿をわたくしの目に入らないところに置いて下さい」と言いました。若はため息をつき「……分かったよ。これは北の空き部屋に置いておこう。あすこなら誰も入らないから」と呟きました。それは致命的な失言でした。くわえて、妻が嫌がるからと言って帳簿を離れた場所に置くなど愚の骨頂です。あの用心深い主人は、生前息子にそういうことを教えなかったのでしょうか。父を亡くしてまともな判断力を失っているのか、もともと悪事に向かない男なのか。……きっと、両方です。その若さと愚直な心根が、周囲の者を引きつけるのでしょう。

 若が帳簿を持って立ち上がったので、わたしは気配を殺して一旦その場から立ち去りました。帳簿の場所は分かりました。北の空き部屋。もっと夜が深くなってから、帳簿を奪ってこの場を去る。それでこの長い長い仕事も終わるのです。