■或る男の話 03■
それからまた何年かが過ぎ、わたしはとある町の味噌屋に奉公人として潜り込むことになりました。そういえば、故郷を出て最初に奉公に出たのも味噌屋でした。建物に染みついた味噌の匂いを嗅ぐと、主人や年長の奉公人に苛められたあの頃のことを思い出しましたが、それも一瞬の出来事でした。今のわたしには、あの頃と違って目的がありました。この味噌屋の主人は裏では武器商人と顧客の仲立ちをしている……という情報があり、わたしはその真偽を確かめ、それが真実であるならば顧客の詳細を調べて持ち出すことを任ぜられておりました。最終的には、その流通経路を潰すことが目的です。過去を振り返っている暇などはありませんでした。
この店の主人は大柄で大層な野心家でした。元々は貧しい家の出身で、奉公先で頭角を現し暖簾分けされ、この店を持ったのだそうです。商人独特のぎらついた目をしていてわたしは好きになれそうにありませんでした。主人は金にはうるさいところがありましたが何処までも公平で正論を重んじるので奉公人たちからはそれなりの尊敬を集めていました。数年前に妻を亡くし、それから一層商いに打ち込むようになったのだと年配の奉公人が教えてくれました。
そんな主人以上に周りから信頼されていたのが、跡継ぎの嫡男でした。彼はわたしがその味噌屋に入った頃で十八だったか十九だったか……あまりよく覚えておりませんが、わたしと同じくらいの歳だったと思います。跡継ぎは爽やかな美丈夫で華やかな空気を纏った男でした。主人はお世辞にも男前とは言えない顔立ちでしたので、亡くなった母親に似たのでしょう。それでいて驕ることも威張ることもなく、若、若と呼ばれ皆から慕われておりました。
若には妻がいました。彼よりも二つ程年下の控えめな女で、皆からは奥方と呼ばれていました。ふたりは大変むつまじい夫婦で、下働きの者たちはみな彼らを羨んでおりました。
わたしは味噌屋で黙々と働きました。この面相ですので店先には出ず裏でひたすら味噌の仕込みをおこないました。大豆を茹で潰しながら、どうすれば目的にたどり着けるか、そればかりを考えていました。その間も周囲の会話を漏らさず耳に入れることは忘れません。何気ないひとことから思いもよらない真実がこぼれ出すことがあるのです。
しかし主人は抜け目のない男でした。どれだけ探ってもまったく手がかりがつかめないのです。何の収穫も無いまま時間ばかりが過ぎてゆきました。わたしは味噌の仕込みばかりが上手くなってゆきました。しかしここで焦ってもどうにもならないということも分かっていました。わたしは毎日、休むことなく真面目に働きました。潜入先で信頼を得ることも大事な仕事なのです。
とある夏の日のことでした。わたしが井戸で水を汲んでいると、若に「やあ」と声をかけられました。わたしは僅かに狼狽しました。若は気さくな男でしたが、わたしがそうやって彼に話しかけられるのは初めてのことだったのです。わたしは桶を地面に置き、はい、と小さく答えました。もしや怪しまれているのではないかと思ったのです。しかし若はにこにこしてこう続けました。
「影さんはよく働くねえ。無口だけど細かい仕事も丁寧にやってくれるって評判だよ」
わたしは、はあ、と生返事をしました。今まで色々なところで奉公してきましたが、そういうことを言われるのは初めてでした。
「西瓜を切ってもらったんだ。影さんも食べて行きなよ」
わたしは少し間を空けて、いただきますと答えました。若は目を細めて笑いました。わたしは若と一緒に、裏庭の木陰でよく冷えた西瓜をかじりました。若は美味い美味い、と上機嫌でした。わたしは黙って西瓜を食いました。そうしたら、美味いかい、と尋ねられたので、はい、と答えました。
すると、そこに奥方が通りかかりました。彼女はわたしたちが手にしている果実を見て「まあ、良いものを召し上がっていますのね」と言いました。若はいとしげな視線を奥方に向け「お前も頂きなさい」と促しました。奥方は「嬉しい」と小さく手を叩きました。まるで少女のような仕草でした。
夫婦が揃ったのならわたしはこの場を辞した方が良かろうと思い「ご馳走様でした」と頭を下げました。すると奥方が「まあ」と驚いた声をあげました。
「わたし、影さんの声を初めて聞いたわ」
そう言って奥方は笑いました。白い歯がこぼれて口の端にえくぼが出来ました。わたしはもう一度頭を下げ、木陰を離れました。いいえ、正確には離れるふりをして夫婦の背後に回り込みました。気配を断ち、物陰に身を潜めて彼らの会話に耳を澄ませました。しかし彼らの口から出るのは世間話ばかりで、わたしが求めている武器の密売に関する情報は得られませんでした。ただ若が「最近、親父は夜中に咳き込むことがある」と言ったことが胸にすこし引っ掛かりました。
夫婦がそれぞれ仕事に戻るのを見届けてからわたしは彼らから離れました。どうやら主人は最近体調が良くないらしい……わたしはそのことを胸に留めておくことにしました。そう思うのと同時に何故か奥方の笑顔が脳裏に浮かびました。その笑顔はなかなか消えませんでした。
そしてその日から、若はしばしばわたしに話しかけてくるようになりました。話の内容は、なんということは無い雑談が主でした。わたしはそれに対し、はい、とか、ええ、とかそんな詰まらない返事しか出来ませんでした。しかしある日、若に「生まれは何処なんだい」と訊かれたときについ「北の方の、寒くて貧しい村で生まれました」と本当のことを言ってしまいました。生い立ちを馬鹿正直に答える気などなかったのに、わたしはどうしてしまったのでしょう。こんな詰まらないどじを踏むのは初めてでした。若は「影さんが自分のことを話してくれたのは初めてだ」と喜びました。わたしは生返事で誤魔化し、仕事に戻りますと言ってその場を離れました。
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