■或る男の話  02■


 その男はわたしに一通の文を差し出し、これを橋の下にいる男に届けてくれば飯を食わせてやろうと言いました。酷く腹の減っていたわたしは何も考えずに文を受け取りました。男は渡す相手の特徴を克明に述べ、最後に、誰にも見られるなよ、と付け加えました。誰にも見られない。それはわたしにとってはとても容易いことでした。わたしの存在感など有って無いようなものです。それでわたしは男から受け取った文を橋の下に立っていた浪人に渡しました。上手くやれたと思います。男の元に戻り文を渡した旨を告げると、約束通り雑炊を食わせてくれました。

 次に男は、鍋屋の奉公人から荷を受け取ってくれば今日のねぐらを用意してやると言いました。その日はちょうど天気が悪く外で寝るには難儀しそうでしたので、わたしはそれに従いました。とても軽い風呂敷包みでした。わたしはこれも上手くやりました。そしてその日は、男の住む小さな家で眠りました。

 そうしてわたしは男の小間使いとなりました。男はわたしのことを「影」と呼びました。影のように暗いから、だそうです。その頃のわたしの仕事は主に、文や荷の受け渡しでした。男が何の仕事をしているのかは、まるで分かりませんでした。知りたいとも思いませんでした。ただ男の言いつけを守っていれば飯が食えました。男は無口で素っ気なく、何を考えているか全く見えない人物でしたが、わたしを殴ったりはしませんでしたので、それだけで男を信頼しておりました。

 この男には様々なことを教わりました。最初に読み書き、算盤、それから足音を立てない歩き方に、誰にも見つからず動く方法、誰かに追いかけられたときの逃げ方、隠れ方などです。それらは忍びの術でした。勿論わたしはそれが忍びになるための訓練だとは知りませんでした。ただ男に言われるままに学び、そして実践していました。お前には素質があると言われたときも何の話なのか理解していませんでした。ただ、生まれて初めて褒められたのでとても嬉しかったことを覚えています。

 男の口癖は「おれたちの世界は結果がすべてだ」で、彼はことあるごとにそれを口にしました。何度も繰り返すので、わたしの心にその言葉が刻み込まれるのに、そう大した時間はかかりませんでした。この世界は結果がすべて。どんな手を使おうと、それが卑怯なやり口であろうとも、目的を遂行出来れば何の問題も無いのです。わたしはそれを常に頭に据えて行動しておりました。

 男に命じられ、わたしは数え切れないくらいの仕事をこなしました。様々な商家に奉公人として潜り込み、仲間と情報のやりとりをしたり、盗んだり、ときに風説を流したりしました。十五になる頃には自分のやっていることも理解出来るようになっていました。男が、わたしのことを素質があると言った理由も。わたしはこの通り影が薄く大変地味ですので誰の目にも留まりませんし、幼い頃は奉公先を転々としておりましたので何処に潜入してもそれなりにそつなくやってゆくことが出来ました。また、わたし自身には野心などまるでなく、ただ言われたことのみを淡々とこなすだけの生活に一片の不満もありませんでした。男が誰に雇われているのかということすら一度たりとも尋ねたことがありませんでしたし、また知りたいとも思いませんでした。男にとってわたしは非常に使いやすい駒だったことでしょう。

  わたしは名前の通り影に生き、身も心も忍びとなってゆきました。歳を重ねるごとに任される仕事の量は増え、ときには危険な目に遭うこともありました。汚いことも数え切れないくらいやりました。自分の手で人を殺したことはありませんでしたが、その手伝いや後始末は何度もおこないました。

 わたしはこの仕事を辞めようだとか、男から離れようだとか、そんなことは一切考えませんでした。とは言え忍者の仕事に甲斐を感じていたわけではありませんでした。楽しいか楽しくないかで言えば、けっして楽しいものではありません。しかし忍び以外の仕事が自分に務まるとは思えませんでしたし、また他にやりたいこともありませんでした。わたしには、それしか無かったのです。