※斜堂先生の過去捏造話です。出生から何から全て捏造です。
※名前はありませんが、オリキャラが出て来ます
※シリアスです。とても暗いです
※のちのち、死描写なども入ります
※字が詰まってて読みづらいのは仕様です。すみません……!












■或る男の話  01■


 わたしは毎日手を洗います。

  柄杓で水をすくい、手にかける。水をすくい、かける。この繰り返しです。手が汚れたと思ったらすぐ井戸に向かいます。ときには、南蛮のシャボンも使います。堺の福富屋から取り寄せたものです。だいぶ値は張りますが、これがあるのとないのとでは洗い上がりが全く違うので仕方がありません。それに、わたしには食わせてやらねばならぬ家族もおりませんし、給金を蓄えておいてどうするあてもありませんので、こういうところで派手に使ってしまえというわけです。シャボンを使うときは手のひらで泡立て、やわらかな泡で手首までを包み込むようにして洗います。とても心地の良いひとときです。

 わたしは毎日、手を洗います。毎日、毎日手を洗います。汚れていなくても、手を洗います。汚れているように見えなくても、汚れているのです。ですので、こまめに手を洗わないといけません。

  新野先生などは「斜堂先生は、ご自分を守るために手を洗っておられるのですね」とおっしゃいます。わたしには、その言葉の意味はよく分かりません。ただ、洗わなければ落ち着かないのです。それだけです。

「斜堂先生は、小さいときから綺麗好きだったのですか?」

  と訊かれることがよくあります。そういうとき、わたしは微笑んで「そうですよ」と答えることにしています。しかし実際は違います。幼い頃、わたしは綺麗好きなどではありませんでした。そんなことを考える余裕は、これっぽちも無かったのです。









 わたしは北国の農村で生まれ、非常に貧しい子ども時代を過ごしました。冬になると、飢えと寒さで村から何人もの死者が出るような土地です。とにかく何もない村でした。あるのは雪とやせた土と、それと絶望だけでした。だからわたしは今でも冬が好きではありません。

 両親のことは、あまり覚えていません。ふたりとも、とても物静かな人だったような気がします。兄弟は六人。男が四人で女がふたりでした。わたしはその四番目です。二番目の兄とすぐ下の妹は、病で早くに亡くなりました。あとの三人が今どうしているかは、分かりません。生きているかどうかも定かではありません。

 十になる頃、わたしは遠く離れた街へと奉公に出されることになりました。元気に過ごしておくれね、と言ったのは、ひび割れた手をした父だったでしょうか、乳飲み子を背負った母だったでしょうか。家族は泣いていたでしょうか。それも覚えていません。とかくわたしは故郷を離れました。

 最初の奉公先は、味噌屋でした。わたしは昔から口数が少なく、まったく周囲になじむことが出来ませんでした。また肌が青白く、骨に薄く皮が張り付いただけにしか見えない体つきでしたので、その風貌が不気味だといって、年上の丁稚や主人らに、何かにつけて殴られました。誰もが日々、鬱憤を抱えて生きています。分かりやすく「弱者」であったわたしは、とても手軽な捌け口だったことでしょう。最初のふたつきは、泣いてばかりいました。毎日痛いばかりで、己の不遇を呪いました。しかし一度も、故郷に帰りたいとは思いませんでした。なんせ、あの村には希望がありませんでした。そして何よりも、食べる物がありませんでした。しかし此処にいれば、食事だけは保証されます。他の丁稚は、粗食だなんだのとこぼしておりましたが、木の根をかじって生きてきたわたしにはご馳走でした。少しばかり痛いのを我慢すれば、ご飯が食べられる。選択の余地はありませんでした。それ以前に、故郷に帰ったところで、わたしの居場所など何処にも無いのです。それは、幼いわたしにもよく分かっておりました。

 ある日、年上の丁稚が誤って、発酵中の味噌樽にひびを入れてしまいました。そのことが主人の耳に入る頃には、何故か味噌樽を駄目にしたのはわたしだということになっていました。わたしは戸惑い、弁明しようとしましたが、いっさい聞き入れられませんでした。棒で背中を何度も打たれました。痛みはあまり感じなかったように思います。ただ全身が焼けるように熱かったことを覚えています。

 それが原因で、わたしは暇を出されました。それが原因でというより、主人は何かきっかけさえあればわたしを追い出したかったのでしょう。わたしが故郷を出てから、半年後のことでした。

 他に行くあてもないわたしに、別の奉公先を世話してくれたのは、味噌屋で一番古株の使用人でした。身を屈めて重い味噌樽を抱えるので腰の曲がった男で、彼も寒い土地の出身だった為わたしの身の上を同情してくれたのです。

 次にわたしが奉公したのは、織物屋でした。ここでもわたしは浮いた存在でした。仕事の覚えは悪くなかったはずですが、見た目と気質で虐げられました。ここではもう、泣くことはありませんでした。それ以外は、まあ、味噌屋にいたときと大体同じでした。

 その次は、炭屋。その次は、餅屋。わたしは奉公先を転々としました。ひとところに落ち着くことが出来ませんでした。何処へ行ってもわたしは殴られ、気味が悪いと罵られました。元々おとなしい性格でしたが、奉公先を転ずる毎に、内へ内へと籠もるようになりました。

 そうして何度、奉公先が変わったでしょうか。わたしはとうとう、行く場所がなくなってしまいました。気が付けば、故郷から随分と遠く離れた国まで来ておりました。十三になろうかという頃でした。そういうときに、あの男と出会いました。行くあてがなく、金も何も持っておらず道の端でうずくまっていたら、声をかけられたのです。

 その男は、背は高くなければ低くもなく、からだは太くなければ細くもなく、飛び抜けて男前でもなければ醜男でもない、まるで特徴の無い男でした。年の頃も、一度見ただけでは判断できかねました。若くも見えるし中年にも見えるのです。つまり、彼はとても優秀な忍者でした。しかし当時のわたしにそんなことは分かりません。このひとは誰だろう、とぼんやり思っただけでした。