■ライ・クア・バード 26■


「ただいまー」

 玄関で靴を脱ぎ、家にあがる。後ろから「お邪魔しまーす」という三郎の声が聞こえた。ぼくは自宅の鍵を鞄の中に放り込む。三郎とふたり、である。八左ヱ門は何か用事があるみたいで、先に帰ってしまった。……ほっとしたような、残念なような、微妙な気持ちだ。

『じゃあ、何処でなら良いの』

『……ぼくんちとか?』

 学校で交わした会話が蘇る。ぼくは少し後悔していた。三郎に変なことを言ってしまった。深く考えずに口にしたことだったけれど、直後に気が付いた。もしかしてぼくは、捉えようによっては物凄くはしたないことを口走ったんじゃないだろうか。家でなら何をしても良い、みたいなそんな。

 いや違うんだ。そういうつもりで言ったんじゃないんだ。確かに夜まで両親はいないけれど。 いやそうじゃない。そういうことではなくて。

「……何か飲む? 変なジュースとかあるけど」

 ぼくは努めて平静を装い、冷蔵庫を大きく開け放った。三郎が「変なジュースって何?」と尋ねてくるので、ぼくは冷蔵庫の方を向いたまま答えた。

「母さんがどっかからもらって来たんだけど、何のジュースか分かんなくてちょっと怖いんだよ」

「どれ?」

「これ。こんな果物、見たことないんだけど」

 ぼくは、ドアポケットに入っていたジュースの紙パックを取り出した。未開封の一リットルパックで、ずっしりした重みが手にかかる。パッケージには、皮が緑で果肉が赤い、謎の果物がでかでかと描かれていた。三郎はそれを見るや 「ああ」と頷いた。

「グァバだよ、それ。怖くないよ別に」

「グァバって何?」

「飲んでみなよ」

 三郎はにこにこして、ジュースを指さす。ぼくは少し迷ったけれど、パックを開けて直に口をつけた。思い切って、グァバジュースを呷る。何だかどろっとした液体が、喉を通っていった。甘い。濃い。物凄く、甘い。

「……うん」

 ぼくは頷き、そっとグァバジュースを冷蔵庫に戻した。そして改めて、三郎に問う。

「三郎、何飲む?」

「あれっ、グァバの感想そんだけ?」

 三郎は軽く噴き出した。ぼくもつられて笑ってしまう。

「いや、うん。ぼくはもう良いかなって。三郎、グァバ好きなら飲む? 牛乳とか烏龍茶とか……なんかそんなのもあるけど」

「その前に雷蔵、雷蔵、ちょっとこっち向いて」

「んー?」

 ぼくは冷蔵庫を閉めて、三郎の方を振り返った。そうしたら、どん、と肩を押された。一瞬、何が起こったのか判断出来なかった。背中が冷蔵庫にぶつかる。目の前に影が落ちる。あっ三郎の顔だ、と思ったときにはもう唇が重なっていた。やわらかい。

 ぼくは無意識に腕を伸ばし、三郎の胸を突っぱねていた。

「びっ……くりした」

 本当にびっくりした。完全に、グァバトークに気を取られていた。衝撃のあまり、目の前がちかちかしている。何だか三郎にしてやられた感じがして、ぼくは妙に悔しくなった。

「うん、グァバ味」

 三郎は真面目な顔で頷いている。ぼくは「いやいや」と首を横に振る。グァバ味とか、今、そんなことは問題ではないはずだ。

「ほんとびっくりした……冷蔵庫前でそんな、おま、え……」

 言葉の途中で、ふたたび三郎に肩を掴まれた。そのせいで語尾が妙になってしまった。三郎の顔が近付いてくる。唇と同時にお互いの歯がぶつかって、頭の中でがちん、と嫌な音がした。

「ちょっ……」

 抗議する間もなく、口の中に舌がぬるりと入り込んできた。未知の感覚に背中が震える。 目の奥が熱い。不覚にも泣きそうだった。

「んん……っ!」

 三郎の舌が、ぼくの上顎をなぞる。息が出来ない。三郎は右手でぼくの髪をまさぐり、左手で脇腹の辺りをなで上げてきた。ぼくは身を固くする。

 いやいや、冷蔵庫前、冷蔵庫前なんですけど。えっ、こういうものなの? そんな、冷蔵庫前で始まるものなの? 何かが違う。大体、何でぼくが受け身みたいになってるんだ。いや、それ以前にぼくたち付き合って何日目だっけ? 一週間くらいじゃないか? 早くない? そんなもん? 世間の基準ってどうなんだ?

 ああもう、何処に焦点を当ててツッコめば良いのか分からない。シャツ越しに三郎の手のひらの感触。背中がぞくぞくする。首筋は熱い。腹の底はもっと熱い。心臓が跳ねすぎて痛い。

 三郎の手が、ぼくのベルトにかかる。いやそれは。それは流石に!

「さっ、三郎、待っ、ま、待てって……!」

 びっくりするくらい、声に力が入らなかった。情けない話だけれど、ぼくは冷蔵庫にもたれかかることでようやっと身体を支えている状態だった。ズボンの前は窮屈で仕方が無い。

 そんな状況を三郎に知られたくなかったし、触られるなんてもってのほかだった。ぼくは三郎の手を必死で掴んだ。しかし彼はもうぼくのベルトを外していて、半ば強引に手を入れてこようとする。

「いやほんと、まっ待って待ってやばいからやばいから!」

 ぼくは涙声で叫んだ。しかし三郎は、ぼくの抵抗を振り払って手を進める。下着の中に入って来る。三郎の手が、ぼくのものに触れる。

「ひっ……!」

 ぼくは息を詰めて、三郎にしがみついた。腰が大きく震える。三郎の手の中に、熱い迸りが溢れてゆく。

「…………っ」

 ぼくは唇を噛んだ。一気に顔から首までが燃え上がる。有り得ない。ほんの一瞬触られただけで、いってしまった。有り得ない。恥ずかしい。ぼくはこのまま、死ぬかもしれない。

「…………」

 三郎が、びっくりした顔でこちらを見ている。最悪だ。その視線が耐えられなくて、ぼくは大声で言った。

「違うから!」

「えっ……違うって、何、が……」

「普段はこんなじゃないから!」

「…………」

 三郎の頬が、ひく、と動いた。笑いそうになるのを堪えたのだと、すぐに分かった。恥ずかしい。悔しい。腹が立つ。

 ぼくは思い切り、三郎のベルトをわしづかみにした。三郎の肩が一瞬持ち上がる。

「びっくりした、殴られるかと思っ……あれ、雷蔵さん?」

 ぼくは三郎の言葉を無視して、黙々と彼のベルトを外した。ホックも外し、ファスナーを下ろしきってから、無造作に彼の下着の中へと手を突っ込んでやった。

「わあ!」

 三郎の声がひっくり返る。それにも構わず、ぼくは彼のものを掴んだ。それは固く張り詰めていて、少しほっとした。良かった。ぼくだけじゃなかった。だけど、ぼくが触れても彼はいかなかったので、それは甚だ不満だった。何だよ、何だよ、やっぱりぼくだけがおかしいみたいじゃないか。

 ぼくは、彼のものを擦り上げた。びくびくと手の中が震える。だけど吐精はしない。腹の中で悔しさが膨らんだ。

「はは……」

 三郎は掠れた声で笑った。ぼくはむかっとして、三郎を睨む。

「何でそんな、余裕なんだ」

「……余裕なんて、とんでもない。気持ちよすぎて、やばいよ」

「じゃあ、さっさといけよ」

「だって勿体無いし……あ、ちょっと待って雷蔵、そんなにされたらおれ困っちゃう」

「さっきから、いちいち腹立つんだけど……!」

「はは……雷蔵、可愛い」

 頭を撫でられて、かちんときた。ぼくは思い切り、三郎のものを扱いてやった。

「雷……っ」

 三郎は眉を寄せ、きつく目を閉じた。その身体が震える。先端から勢いよく吐き出された白濁が、ぼくの手を濡らしてゆく。やった、と思った。一瞬だけ達成感が胸を突き上げたが、すぐにそれは敗北感へと変わった。どう考えても、ぼくの方がみっともないし情けない。

「……何か……もう……死にたい……」

 ぼくは肩を落として呟いた。同時に、訳の分からない意地で染まっていた頭が少しずつ冷静になってきて、ぼくはなんて大胆なことをしでかしてしまったのだろうと、そちらの意味でも恥ずかしかった。冷蔵庫の前で、ぼくたちは一体何をやっているんだ。

「ああ、気持ちよかった」

 三郎は爽やかな顔をしている。何でこいつは、こんなに軽いのだろう。ぼくは衝動的に、彼の膝を蹴飛ばした。三郎は「いった!」と悲鳴をあげる。

「いやいや……、おれだって、いつもよりずっと早かったよ?」

 三郎の言葉にぼくは、でもぼくみたいに瞬殺じゃなかったし、と口には出さずに胸の中で呟いた。ぼくは己の醜態にすっかり打ちのめされていた。トラウマになったらどうしよう。これも全て、三郎のせいだ。

「あの……雷蔵、続きは?」

 おずおずと三郎が切り出してくるので、ぼくはもう一度彼の膝を蹴った。このまま続行なんて、言語道断である。今日は絶対にしない。絶対にだ。