■ライ・クア・バード 27■
蛇口をしっかり捻って水を止めると、雷蔵が「ちゃんと洗った?」と言いながらタオルを差し出してくれた。おれは「うん」と頷き、名残惜しさを感じつつも洗ったばかりの手をタオルで拭いた。雷蔵が、早く洗え早く早くと激しくせっつくから、余韻に浸る間もなく全てが流されてしまった。
何だか勿体ないなあ、と残念になったが、それを言ったら確実に引かれると分かっていたので口には出さなかった。
それに、すぐいってしまったことが雷蔵は心底嫌なようだけれど、おれとしてはむしろ嬉しかった……のだが、逆の立場だったら多分おれは切腹していたと思うので、そこについては雷蔵の気持ちを慮って沈黙を守ることにする。
「……ほんともう、冷蔵庫の前でとかいきなりとか、勘弁してくれよ。訳分かんないよ」
おれの手からタオルを取り、雷蔵は憮然とした顔で言った。だけど百パーセント怒っている訳でなく、複雑な心持ちなのだということが表情から見て取れて、おれは緩みそうになる頬を引き締めた。そして神妙な顔で謝る。
「……うん。ごめん」
反省はしているが、後悔はひとつもしていなかった。しかし自分でも、自分の行動に驚いている。気が付けば身体が動いていたのだ。雷蔵に「待て」と言われても止まれなかった。今までそんなことは一度もなかったのに、本能とは恐ろしい。しかし些か強引過ぎたと、そこは本当に反省している。心から。但し、次回またこういう機会が訪れた際に冷静になれるかと言ったら、全く自信は無い。
「でも男だから、そういう欲求はあるわけで……」
おれは、ぼそぼそと主張してみた。雷蔵は「……それは分かるけど」と、おれから目をそらした。その仕草にまた昂ぶりそうになって、非常に困った。どうして雷蔵は、いちいちおれの心をかき乱すのだろう。
「今日は無理。無し。絶対に」
雷蔵は両手を持ち上げ、顔の前で大きなバツを作った。
「じゃあ、後日改めて?」
バツの隙間から雷蔵の顔を覗き込んで、言った。雷蔵は両手を下ろした。そして少し間を置いてから口を開く。
「……後日改めて」
目の前がくらっとした。もしかしたらこのひとは、おれを殺す気なのかもしれない。
「ていうかこの流れ、何でぼくがされる側みたくなってんの?おかしいよ。ぼくだって男なのに、そんな」
眉根を寄せ、雷蔵は抗議する。あっ何だ引っ掛かってるのはそこなのか、と思ったのでおれは言った。
「別に、おれがされる方でも構わないよ?」
「えっ」
雷蔵は信じられない、という顔をしたが、おれは嘘は言っていなかった。百パーセントの本心である。おれは別に、どちらでも構わないのだ。雷蔵の為なら、尻くらい喜んで差し出そうじゃないか。
「きみになら抱かれても良いもの」
真面目な口調でそう言ったら、雷蔵は頬を赤くして「そっ」と言葉を詰まらせた。そして、絞り出すようにしてこう続けた。
「そんな風に言われたら、ぼくの心が狭いみたいじゃないか……!」
言葉の内容も口調も声も表情も、全てが可愛くてたまらず、おれは「……抱きしめても良いですか」と訊いた。返ってきた答えは「……駄目です」だった。なんという、過酷な試練。
その日以降のおれは、自分で言うのもなんだけれど非常に紳士的だった。あのときみたいにいきなり始めようとしたりしなかったし、しつこく求めたりもしなかった。抱くにせよ抱かれるにせよ、雷蔵の気持ちが固まるまでじっと我慢しようと決めたのである。辛いけれど、仕方が無い。雷蔵に嫌われてしまったら、元も子も無いのだから。
おれたちは楽しくも穏やかに日々を過ごした。八左ヱ門にはまだ自分たちの関係を打ち明けていなかったから、ふたりきりのとき以外は普通の友人同士として振る舞っていたが、それも何だかんだ楽しく思えた。
おれの心はとても安定していて、最近は鏡を意識することすらしなくなった。きちんと自分の顔が映っていると、分かりきっているからだ。雷蔵と一緒にいれば、おれは大丈夫なのだ。
幸せだった。順風満帆だった。そんな中の出来事である。
その日、雷蔵はなかなか登校してこなかった。いつも大体決まった時間に教室に入って来るのに、いつもの時刻を五分過ぎても十分過ぎても、彼は現れなかった。
雷蔵、遅いな。おれは教室を見回した。そういえば八左ヱ門も来ていない。八左ヱ門はともかく、雷蔵がこんなに遅いのは珍しい。もう少しで、予鈴が鳴ってしまう。
おれは携帯と教室の入り口を何度も確認した。教室の扉が開くたびに雷蔵か、と身を乗り出すが一向に彼はやって来ない。八左ヱ門もだ。連絡も来ない。
もしかして、欠席? おれは心配になってきた。昨夜、電話したときは元気そうだったけれど、何かあったのだろうか。彼は本を読みながらソファや机で寝てしまうことがたまにあるから、風邪を引いたとか? 事故になんて遭っていないだろうな。八左ヱ門も遅れていることに、何か関係はあるのだろうか。
様々な考えが頭を巡り、どうしようもなく胸がざわついた。もう一度、携帯を見る。着信もメールも何も無し。まだ寝ている可能性もある。予鈴が鳴る前に、一度かけてみようか。うん、そうしよう。
おれは携帯電話を手に取った。そうしたら、それと同時に携帯が震えてメールを受信した。雷蔵か、と思ったが違った。八左ヱ門からのメールだった。
<どうしよう雷蔵が倒れちゃった!!>
……は?
メールの文章はそれだけだった。手が勝手に動いて、おれは八左ヱ門に電話をかけていた。
『あっ、あっ、さ、三郎、三郎っ』
今にも泣きそうな八左ヱ門の声が耳に飛び込んできた。雷蔵が倒れたってどういうことなんだ、と確認する隙も与えず八左ヱ門はつっかえながら喋り続ける。
『おれ、おれ、どっどうしよう、ごめん、雷蔵が、雷蔵、ごめん、ごめん』
まったく要領を得ない。八左ヱ門が余りにも狼狽えるので、逆におれは冷静になってきた。
「八左ヱ門、落ち着け。何があったんだよ」
『ごめん……どうしよう……』
駄目だ。埒が明かない。一体何があったのか、全く分からない。おれはすうっと息を吸い込んだ。もどかしいが、仕方が無い。
「八左ヱ門、聞こえるか?」
『あ、う……うん。うん』
「今、何処にいるんだ」
『あの……ごめん。おれ、ほんと、ごめん。三郎、どうしたらいい?』
「……今、外だよな。学校? すぐ行くから、場所を教えて」
『あ……あ、学校、ええと、あの、池の……』
「裏庭の池?」
言い終わったときにはもう、おれは立ち上がって教室を飛び出していた。
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