■ライ・クア・バード 25■


 恋とは偉大だ。しみじみとそう思う。ここのところ、心身共に絶好調だ。なんとなく、肌つやも良くなった気がする。毎日鏡を見るたびに、とても満ち足りた顔をした自分の顔が目に飛び込んできて、おれは恋というものの素晴らしさを改めて噛みしめるのだ。

 雷蔵と付き合っている。本当だ。嘘じゃない。彼に「大好き」とメールしたときにもらった返事、「ぼくも」はしっかり保護設定にして、あれから毎朝見返している。様々な紆余曲折があったけれども、何だかんだでおれの恋は成就したのである。

 おれは最上級に浮かれていた。あの日路上でキスして以来、恋人らしいことは特に何もしていないけれど、幸せだった。心がふわふわして落ち着かない。雷蔵に会えるのが嬉しい。言葉を交わせるのが嬉しい。笑ってくれるのが嬉しい。何をしても嬉しい。反面、離れると無性に寂しくなる。学校で毎日会うし、放課後もほとんど一緒に過ごしているのに、雷蔵の姿が見えなくなると途端に胸が寒くなるのだ。自分でもいかがなものかと思うが、どうしようもない。これが恋だ。恋なのである。

「雷蔵、何処行くの?」

 休み時間、教室を出ようとする雷蔵を呼び止める。そうしたら彼はこちらを振り返って「購買」と短く答えた。

「シャーペンの芯がなくなったから買いに行って来る」

「じゃあ、おれも行く」

 おれはすかさず立ち上がった。雷蔵のゆく所には何処にでもついてゆきたいと思う。雷蔵は、入り口のところで待っていてくれていた。追いつくと、彼は「三郎も何か買うの?」と言って微笑む。おれは首を横に振った。

「ううん、一緒に行きたいだけ」

 そう言うと、雷蔵は呆れたように笑う。だけど、ついて来るなとは言わない。そこは、付き合う以前から変わっていない。だけど今は、微笑む彼の瞳の奥に、ふんわりとした温かさがこもっている……ような気がする。多分。そう思った方が幸せなので、そういうことにする。 ともあれ、おれと雷蔵は連れ立って教室を出た。

  廊下に足を踏み出したところで雷蔵が「あ、八左ヱ門だ」と声をあげる。 おれは雷蔵が指さす方に目を向けた。確かに、八左ヱ門が一組の教室の前に立っている。彼は入り口で誰かと話し込んでいるようだったので、声はかけずに購買へと向かうことにした。

「あいつ、一組に友達いんの?」

 あんまり聞いたことないけど、と思いつつ尋ねてみた。雷蔵は「うーん?」と首を捻る。彼も、八左ヱ門と一組の関連性に心当たりが無いようだった。

「あ、でも、こないだ八左ヱ門が、一組の久々知のこと何か言ってた。逸材? とかなんとか」

 雷蔵のその言葉に、今度はおれが首を傾ける番だった。

「逸材? 何それ?」

「さあ……? 久々知が頭良いからじゃない?」

「久々知っていう、頭の良い奴がいるの?」

「あれっそこから? 三郎、久々知って知らない?」

 雷蔵は意外そうに目を瞬かせた。くくち。まったく知らない名前だった。男なのか女なのかも分からない。雷蔵は続ける。

「いつだったか、久々知とちょっとだけ喋る機会があってさ」

 そこまで聞いて、えっ何を喋ったの、と尋ねたくなったが、腰を折るのも失礼なので必死で我慢した。だけど気になる。一体、その久々知とやらとどんな会話をしたんだ。

「そのときに何となく、三郎も久々知くらい頭良いんだから頑張れば良いのにな、って思ったんだよね」

 雷蔵は軽く笑い声をあげる。おれは、心の中に居座る「久々知と何を喋ったの」という疑問は取りあえず横に押しやって、こう言った。

「……だからおれに、次の試験は頑張れ、って言ったんだ」

「そうそう」

 ……何ということだ。おれは大いなる衝撃を受けていた。ということはつまり、久々知はおれの恩人ということになるではないか。何故ならばあの試験がきっかけで、おれの恋は実ったのだから。

 有難う久々知。どんな奴なのかまったく分からないけれど有難う、一組の久々知。

 おれは頭の中で勝手に久々知の姿を想像する。やせ形で猫背で、前髪が長くて色白でメガネ。目も鼻も口も小さくて、唇だけが妙に赤い。うん、多分こんなもんだろう。

「……雷蔵は頭の良い人が好きなの?」

  一階まで降り、購買部へと続く渡り廊下を歩きながら、何となく頭に浮かんだ疑問を投げかけてみた。

「うん? うーん……どうかなあ……」

  雷蔵は視線を上に向けて考え込む。雷蔵が頭の良い人を好きなのだったら、今後も引き続き全力で試験に臨もうと思ったが、この反応はどうだろう。もしかして、そうでもないのかも? 雷蔵は、ぱっとこちらに顔を向ける。目が合った。それだけで、胸が高鳴る。

「でも、頭が良い三郎のことは、かっこいいと思うよ」

  ……何の気なしにこういうことを言ってしまうのだ、不破雷蔵という男は。多数の生徒が行き交う通路のど真ん中で、そんな不意打ちを食らわせてくるのである。 雷蔵にかっこいいと言われた。やばい。思い切り心を撃ち抜かれた。やばい。ちょっと本気で、やばい。

「…………」

  こみあげてくる衝動をどうにか散らす為に、おれは両の拳を胸元に持ってきて、握ったり閉じたりを繰り返した。雷蔵は不思議そうな顔で、おれの手つきを眺めた。

「何、その手」

「きみを抱き締めたいのを我慢しているんだよ」

「…………」

  雷蔵は、おれの手と顔を順に見る。それから、恥ずかしそうにそっと目をそらした。その仕草がまた可愛い。可愛い。

「……学校で、そういうこと言うのは止めろよ」

「じゃあ、何処でなら良いの」

「……ぼくんちとか?」

「…………」

 雷蔵の返しにおれは口を閉じた。えっ、雷蔵ってそんな誘い方するんだ、と少なからず驚いていた。何だそれ。いっそ恐ろしい。どうして此処は学校なのだろう。どうしてまだ、三時間目の休み時間なのだろう。

「早く放課後にならないかな」

 これ以上雷蔵の顔を見ていたら辛抱出来なくなりそうなので、おれは前を向いた。隣で、雷蔵が苦笑する。

「……八左ヱ門が来たら、無しだよ?」

「じゃあ、あいつが声をかけてきたら、振り切って逃げよう」

「また、そんなこと言って」

 雷蔵はおれの背中を軽く叩いた。彼はおれの言葉を冗談だと思ったようだが、おれは八割方本気だった。だって折角、雷蔵が誘ってくれたのだ。八左ヱ門には犠牲になってもらうしかない。許せ、友よ。これもすべて、愛のためだ。